除草、収穫、出荷先・・・梅雨下の畑

しばらくブログを更新しませんでした。

自宅に戻り、息子二人の誕生会に参加。
東京も長野同様梅雨空でした。

長野に戻り、雨を縫って草刈りバイトと畑。
急にブログにログインできなくなり、サーバー会社に対応を訪ねたり、携帯を作業服と一緒に洗濯機で洗ってしまい、買い替えたり・・・。
しばらく空白期がありました。

畑の現在

ということで梅雨空の下の畑です。

雑草が畔に盛大に茂っています。
雑草にとっても一年の稼ぎ時。
生暖かい温度のもと常に空から湿気が補給される昨今の気候は絶好の環境です。

草を刈る前、フェンスをあけた瞬間の畑。

ということで、草刈り機を持ってゆき雑草を刈りました。

除草については定期的な草刈り機による対応が基本です。
そのほかにも、花が咲いた雑草については見つけ次第、とりあえず花だけでもいいから取り除く、とか、除草は根っ子まで取り除かなくても茎の上部だけでも刈っておくと繁茂を遅らせることができる、などの話を聞きます。

おじさんの畑には、クローバー、タンポポ、オオバギシギシ、アカザ、スギナなどが盛大に繁茂しています。
そのほかにも黄色い花をつける名も知らぬ草、マリーゴールド?などもここを先途と自己を主張しています。

この日は思いっきり草刈り機をぶん回しました。
草刈り機で地表ぎりぎりまで刈りこむのが理想なのですが、この日はともかく花が咲いたものは花を取り除くように、過密に茂ったところは間引いて、通気性を確保するように切りました。

草を刈った後の畑の風景。

作物たちの現状

雑草だらけの畑でも野菜は育っています。
キューリ、ナス、トマトの夏野菜三銃士は元気です。
苗がよかったのと、剪定などの手入れの成果でしょう。
何より4年目の土づくりが成果を出しつつあるものと思いたいですね。

トマトは青い実をつけ始めた
ナスは順調に木が育ち、実をつけ始めた
キューリは収穫が始まっている
ピーマン。第一弾の実がたわわ
トウモロコシ。収穫は8月からか
お化けカボチャの苗を植えてみました。順調にお化け化しているようです
ズッキーニの花はきれいな黄色です

一方、長雨のせいでキャベツにべと病が発生しました。
不織布のトンネルで順調すぎるほどに育っていたキャベツですが、土に面した葉がカビに侵されているのを発見。
とりあえず腐った葉を除去。
本体がカビに侵されているものを収穫し廃棄しました。
健全な玉10個くらいを早めに収穫し、知り合いに配ったり、柴崎彩ステーションに出荷したりしました。

現在の出荷先

別荘地の朝市がなくなった現在、野菜の出荷先は、家内がやっている自宅近くの柴崎彩ステーションが主力です。
第一回の出荷は、キャベツ8個に、玉ねぎ数袋、ニンニクなど。
またバイト仲間が「キューリが欲しい」というので2回ほど出荷しました。

アマチュアの道楽で作った野菜です。
本来は売るべきではないのかもしれません。
また、売り物にした瞬間に野菜は「商品」に変換し、責任が発生します。
ひょっとしてあらぬクレームの対象にもなりかねません。

おじさんにそこまでの覚悟はあるのか?
ないのが現状です。
でも、作物が売れたり、作物を介して第三者とコミュニケーションが取れたりすることは何物にも代えがたい達成感をもたらすのです。
売り先がないのなら、山小舎おじさんはここまで畑づくりはしないと思います。贅沢なのでしょうか?

鹿が侵入できないフェンスに囲まれた畑に実のなる野菜を植えています

北国街道 海野宿

旧北国街道(信越)は、軽井沢で中山道と別れ、千曲川の右岸を北上、上田、松代などを経て新潟の日本海海岸に至る街道。
佐渡から金を江戸へ運ぶ道筋として、五街道に次ぐ位置づけだったとのこと。

軽井沢の追分から、上田までの間には城下町で有名な小諸宿があり、その先に田中宿、海野宿と続きます。
現在では小諸市内の街道風景は、往時の建物と雰囲気が残ってはいますが、道幅などは拡張されており、基本的には「現代の風景の中に歴史建築が散在して」いる風景となっています。
その先の田中宿も、駅前商店街として開発整備されています。

一方、海野宿の景観は奇跡的に往時の様子をとどめています。
建物の保存もさることながら、道のわきに流れる側溝が埋め立てられもせず、暗渠化されもせず、その流れをさらさらと露天にさらしている素晴らしさです。

宿場の入口には常夜灯を模した行燈が立っています。
格子と土壁づくりの建築が100軒ほど残っています。

訪れたのは土曜日でしたが、観光客の姿は2,3組。
ちょっと寂しい気もしますが、一方、土産物店、食べ物屋、などの数が少なく、また店のデイスプレイが本来の建物の邪魔をしていないのが好感が持てました。

旅籠だった建物が資料館となっています。
荷役などに使った馬に塩をなめさせる石が残っていました

この地域、商圏は隣の田中駅周辺だったり、上田だったりしますから、無理な開発もなく、住宅地として100年以上現状保存され、価値が認められてからは景観保存の措置が取られた結果の景観維持状態ものと思われます。
日本の道100選にも選ばれています。

これほどまでに景観が保存されている宿場というと、県内では中山道の木曽路にある奈良井宿が思い出されます。

全国的知名度はありませんが、山小舎から比較的近い位置に残っている旧街道の歴史的遺産です。

続々・別荘地作業バイト

山小舎おじさんの生計を担う別荘地管理会社でのバイト仕事。
6月に入ってからは広大な敷地内の草刈りがメインになります。

この日は総勢10人程度のバイト勢のうち、8人が出勤。
この頃の梅雨のせいで稼働日が少なく、たまの好天の日にはこぞって人が集まります。

事務所集合後、9時の仕事開始に向けて、その日使うトラックに機材を積み込みます。
刈払機と混合燃料入りの10リットル容器、各自のヘルメット、ベルト、前掛け、防護面。
刈払機に使う交換用の紐や刃と簡単な工具が入った籠。
路肩に立てる作業中の看板。
路面に散らかった草などを吹くブロアーと呼ばれる機械。
熊手。各自の水筒、など。

人数にもよりますが、軽トラック2台と、2トントラック1台くらいで出発します。

作業開始後は、だいたい小一時間働いて10分程度の休憩をはさみます。
路肩に座って水分を補給しながら雑談します。
バイトメンバーは別荘地内の住人がほとんどなので、貴重な情報交換の場になることも多いです。

休憩時の風景。ヘルメットを外し、路肩に座って雑談しています。

現場は路肩、側溝とその法面、ロータリーやテニスコート周辺の芝生がほとんどですが、たまに個人の敷地内の除草や倒木の撤去が入ります。
気を付けることは、小石などが飛んで、個人宅のガラスや車のガラスを傷つけないようにすることです。

特に紐(強化プラスチック製)を回して切る場合、後ろに向かって20メートルも小石が飛ぶ場合があるのです。

そのため、路肩での作業時には見張り役を置き、付近に駐車がある場合には移動させ、できない場合はシートで防御します。
刈手の顔面と体の前面を防御するのはもちろんです。

休憩時間には燃料の補給と、紐の調整を行います。
いかな強化プラスチック製の紐とはいえ、草と石相手にぶん回していると、どんどん減ってゆきます。
減った紐の調整は常時しなければなりません。
また、紐を消耗しつくせば新しい紐を取り出してセットしなければなりません。

刃で刈る場合は、それほど石が飛びませんが、草に対する対応性、地面に対する対応性、力の強さで紐の方が優れているので、通常は紐で切ります。
柔らかい草から笹までを切り、凹凸があったり砂利交じりの地面にも細かく届くのが紐なのです。
刃は、どうしても石を飛ばしたくない場合や、堅い笹などを切る時に使います。

25CC以上の大型の刈払機を一日使っているとやはり疲れます。
体の移動や、立ったり座ったりの動作は少ないのですが、時間がたつにつれ、機械の重みがこたえてきます。
腰あたりも凝ってきます。

おじさんにとっては週3日の勤務が精いっぱいです。
畑作業との兼ね合いもありますが、体力的にもそれくらいが無理のないところです。

バイト仲間には、週5日勤務だったり、体力にあふれる60代後半もいますが感心します。

7月1日の畑の収穫です。

キューリは皮が硬いものの青臭い香りがして最高です。

レタスが長雨で腐り始めたので3個ほど収穫。
これも「味」がありました。

パクチーが生い茂っているので、数本切って収穫。

ズッキーニは初収穫です。

モグラに根を切られてしおれかかっていた白菜は持って帰って、八宝菜的に炒めて食べました。
炒めてもくたっとならないほど「硬い」白菜でした。
これはちょっと売り物は無理か。夏の露地栽培の難しさです。

キューリとレタスは欲しがっているバイト仲間に進呈。
残りは保存中の玉ねぎとセットにして自宅に送りました。

白菜、ズッキーニとキューリ8本。
パクチーとレタス3個。

キューリ初収穫、スギナも採った

梅雨の晴れ間の畑です。
今年初の収穫(去年植えた玉ねぎ、にんにくは除く)をしました。

4日ぶりに畑へ行きました。
この間は梅雨の雨と高温が続き、作物には絶好の条件が続いています。
夏野菜は順調に育っています。

キューリが4本ほど成っていました。
キューリの剪定は根から5節目までの脇芽は全部取ることと、6節目からは実の先は葉を1枚残してカットします。
要は脇芽を伸ばさず、ほぼ実だけを残してカットということで、剪定がわかりやすいです。
今年植えた接ぎ木のキューリ苗は元気です。
今後は追肥のタイミングに注意してゆこうと思います。

キューリ。この株は2本実がなっています。
初収穫のキューリは4本。香りがあっておいしかったです。

トマトの寝かせ苗の根元です。
寝かせて埋めた茎から根が出て、新しい茎が2本出ています。
1本の苗から3本立て(根が3本)の木ができています。
根っこからの吸水、吸栄養がしっかりと期待できます。

トマトの手入れは脇芽を全部取ることと、茎が折れないように支柱に誘引することになります。
なお、水やりは苗定植後に1度しかやっていません。
トマトが乾燥に強いことと、根っこが自力で水分を求めて下に伸びっていってほしいからです。
実が付き始めたころから、えひめAIを時々潅水しようと思います。

トマトの根元を上から見たところ。1本の苗から新しく2本茎が出ています。

ナスです。選定方法はやや複雑です。
3本立てにし、脇芽は実と葉を一つずつ残して先をカットしてゆく、ということなのですが、主枝に咲いた花はどうするのか?とかおじさんはナスの剪定について理解不足です。
幸い、接ぎ木の苗4本をはじめ、ナスの苗は元気ですので、あまり脇芽と枝が密集しないようにしてゆきたいと思います。

ナスの木は水と肥料が大好きです。
畑に行くたびに水やりを行います。
収穫開始後は追肥を行います。

接ぎ木のナス4本です。収穫開始が間近です。

他の作物たちの様子です。

ズッキーニ。葉の白点が気になりますが生育は順調です。
雑草の中をたくましく弦を伸ばすカボチャ
トウモロコシの苗。追肥を受けて伸び始めました。
インゲンです。今年は収穫を期待できます。
直播したバジルも芽が出ました。
ハックルベリーです。花が付き始めました。

キャベツの不織布のトンネルをめくって除草と、枯れたキャベツの葉の除去を行いました。
露地栽培のキャベツとは生育にはっきり差が出ています。
葉が巻き始めています。
病気さえ出なければ1か月以内で収穫開始です。

トンネル栽培のキャベツは虫食いもなくぎっしり生育していました。

毎年恒例のスギナ収穫をしました。
アスパラの畝にスギナが密集していました。
これを敢えて除草しないでおきました。

箕に1杯採れました。
根を切り、洗ってから天日干しします。
からからに乾いたらハサミで細かく切ってスギナ茶として利用します。

山小舎おじさんの朝1杯目のお茶は、スギナ、ヨモギなどの自家製野草茶です。去年の野草茶はほぼ飲み終わったので、これからは新物の野草茶が楽しみです。

アスパラの畝にはあえてスギナを生やしておきました。
収穫したスギナです。

地元パワースポット訪問記VOL.13 北国街道を通って県内最大の古墳へ

梅雨のある日、山小舎の周辺は雨にけぶっていました。
畑仕事を中止し、行楽の一日にすることにしました。
行きたかった食堂で昼食を摂り、隣町にある古墳見学をすることにします。
山小舎から下ってゆくと雨は上がって夏空が広がっていました。

北国街道を北上

山小舎から上田方面に下り、千曲川に達する地点に、岩鼻と呼ばれる奇岩があります。
千曲川の左岸に迫った崖で、かつては千曲川に並行して通る北国街道の難所であり、その昔、参勤交代の一行がこの地点の無事通過を地元に報告したという話もあります。

もっと昔、小海、佐久平からこのあたりにかけては湖だったそうで、海ノ口、小海といった地名が残っているほか、湖の北岸に当たる岩鼻のあたりには、塩尻(潮尻)の地名が残っています。

左のせり出した岩山が岩鼻という景勝地

岩鼻の千曲川対岸には国道18号線が上田市と長野市をつなげて走っています。
旧北国街道です。

上田を抜けて坂城町に入ったあたり、ねずみという地名が残っています。
このあたり、街道の正式な宿場は坂木宿だったのですが、鼠宿という間宿があったそうです。

今でもねずみ交差点があり、その付近に明治天皇が巡幸時に休憩したという建物が残っています。
地名の由来は、交通の要衝で寝ずの番を行う衆である「寝ず見」からくるとも、動物の鼠からきたともいわれています。

国道18号線の坂城町ないにあるねずみ交差点
ねずみ交差点付近に明治天皇が休んだ場所が残る

坂城のまちだ食堂へ

長野のローカルテレビで、地元の食堂を紹介している番組があります。
街道沿いの昔ながらの食堂、住宅地のラーメン屋、郊外に佇むカフェなど、内容本位の店を紹介している番組です。
昨今の事情で新規ロケがなくなり、これまでの「傑作選」を放送する回がありました。
その「傑作選」に登場したのがまちだ食堂でした。

坂城町にある取材店・まちだ食堂

ねずみ交差点から北国街道を北上し、坂城町の中心部に近く、まちだ食堂がありました。
名物はナポリタン定食。
スパゲテイナポリタンと鶏のから揚げにどんぶり飯がセットになった定食です。テレビ番組でもレポーター役の女子アナがこのメニューを食べていました。

狭い店内はすでに7人ほどの先客。
ナポリタン定食を注文して待ちます。

ナポリタンも唐揚げもごはんにあう味付けでした。
箸でナポリタンを掬い、ご飯にのせて食べました。
ごはんが進み一気に平らげました。
ナポリタンが鉄板にのっていて冷めないのもよかったです。

アツアツのナポリタンと、竜田揚げといってもいい唐揚げにどんぶり飯がセット!

食べていると、食堂のおかみさん(80歳代後半?)が声をかけてきました。
「テレビ見てきたの?」。
見かけない顔と、店内での落ち着かない様子を目に留めたようです。
「テレビ取材のときはもっと盛がよかったんだけど・・・」というので、これ以上大盛りだと食べられない、と応えました。

がっつり系のランチを求める層のニーズにばっちり答える食堂です。
また、がっちり系メニューの場合、食べている間に飽きが来ない味付けが肝なのですが、その点も及第点なのがテレビの取材対象たるゆえんでしょう。
「プロ」の食堂です。

県内最大の古墳を見学

国道18号線(北国街道)へ戻ります。
県内有数の幹線道路は、トラックなどで通行量が半端ありません。
県内の道路は上田市や長野市などの大都市圏に近くなると交通量が増えます。

千曲川の両側から山が迫る地形を抜けてゆきます。
坂城町を抜けて千曲市に入るあたり、沿道の風景が全国どこにでもある都市郊外の景色になってゆきます。
自働車修理工場、自動車販売店などが増えてゆきます。
千曲市中心部に近くなると、郊外型飲食店、カラオケ、量販店などが沿道に軒を連ねます。
全国どこにでもある風景になります。

千曲川右岸を山間を縫うように進む18号線
盆地に出た18号線は都市部に近づくにつれ都市郊外型風景を呈してゆく

千曲市の屋代という駅。
しなの鉄道(旧JR信越線)沿線のこの駅を越え山側に分け入ってゆくと、科野の里歴史公園があります。

森将軍塚古墳への入口です。
資料館が建っています。
資料館の入場料と古墳へのバス往復料金で700円です。

科野の里歴史公園内にある古墳館

平日午後とはいえ、資料館の入場者はゼロ。
案内のお姉さんに勧められてバスに乗って古墳から先に見ることにしましたが、随時発車するバスの乗客はおじさんのみ。

ハイエースで古墳まで行く。随時発車してくれる

バスで里山の尾根にある古墳まで5分ほど。
歩けば20分ほどとのこと。

やがて古墳の全景が見えてきました。
名付けて森将軍塚。

「森将軍」とは地名からとった仮の名で、埋葬された権力者が誰だったのかは判明していません。
わかっているのは4世紀ごろの造築で、副葬品に三角縁神獣鏡の破片が見つかっており、当時の中央・ヤマト政権との関係性が強いこと。
千曲市から長野市に至る善光寺平を望む立地から一帯を治める権力者の墓だったと想像されること。

山頂について壮大な古墳の全景に驚かされる
古墳の端っこには埴輪が並んでいる。この埴輪の並びも含めての復元とのこと

本格的に調査されたのは昭和になってから、復元されたのは平成になってからという。
発掘時には副葬品はほとんど盗掘されており、盗掘者の名前もわかっているとのこと。
全国的に見ても十指に入るといわれる規模の古墳にありながら、おおらかすぎるその取り巻く状況がうかがわれる。
全国的に見れば「見捨てられた」ようにも思える状況を感じるのはおじさんだけであろうか。
中世以前の東国(畿内以東の日本)の歴史の不明を感じることである。

埋葬された権力者が納めたといわれる善光寺平を古墳より望む
堂々たる全容だ。見学者はおじさん一人。

古墳を見、資料館を一巡した。
この時間唯一の入場者である山小舎おじさんに、資料館の案内のお姉さんは気を使ったのか、絵葉書ワンセットをお土産にくれたのでした。
全員にくれるのかな?入場者が少ないから・・・。

お土産にいただいた絵ハガキ。5枚セットです。

地元の人の心遣いを痛感した、地元中世の歴史的遺産を訪ねる旅でした。

収穫!玉ねぎ良く育った!

玉ねぎを収穫しました。

いつの間にか、葉が倒れた玉ねぎたち。
収穫時期のサインです。

11月に定植。
冬を越え、生育が伸び悩んだ時期を耐え抜き、無事収穫に至りました。
一時は生育が悪く、まともな収穫をあきらめたこともあった玉ねぎたちですが、よく頑張りました。

雑草にも負けず収穫時期を迎えた玉ねぎたち。収穫期に自然に葉が倒れた姿です。

葉をつかんで抜いてゆきます。
そしてそのまましばらく畑で乾燥させます。
当日は夏日。
強い日差しが玉ねぎの乾燥に最適です。

丸一日ほど畑で乾燥させるのがセオリーだそうですが、鹿の餌場と化している畑に一晩おくことはできません。
2時間ほどで収容し、家に持って帰ることにします。

抜いた玉ねぎはマルチの上にのせて乾燥させます
抜いたばかりのためネギ。玉の大きめなところを撮りました。

コンテナに収容する前に根をハサミで切ります。
根っこが水分の吸収源になるからです。
葉先も数センチ残してカットしてコンテナに入れてゆきます。

コンテナに入れる前にひげ根をカットします

収量はコンテナに三分の二ほど。
ピンポン玉くらいのサイズにしかならなかったおととしは別にして、去年の半分ほどの収穫量でした。
植えた株数にはほとんど差がないので、玉の大小が収量に直結しています。

原因は畑の土質の問題と、春先の成長度合い、でしょうか。
次回は、事前に土壌をできるだけ改善すること、冬期間の保温、追肥のタイミング、を心がけようと思います。
もみ殻などを投入してふかふかの保温性の高い土壌づくりを目指し、追肥は生育を見てというよりは、成長期である5月前に行うようにしたいものです。

収量はイマイチ。でもよく頑張って育った!

ニンニクも採れました。
これは文句なしに歴代最高の収量です。
まだまだ小さい玉でも、おじさんにとっては感激ものの出来具合です。

ニンニクも同じように葉を持って抜きます
十分実用に期する玉の育ち具合です!

その他の作物たちの様子です。

とうとう里芋が芽を出してきました。
これからぐんぐん育つでしょう。
収穫は10月以降です。

里芋の芽が出たのでマルチを破って芽に光を当ててやります

根を半分に切って株分けして定植したヤーコンたちも無事生育中です。
株分けの逆境を乗り越え生き抜きました。
もう収穫まで大丈夫です。

元気なヤーコン。畝の雑草は暇を見て除草予定
玉ねぎの収穫を祝って、アマガエルも駆けつけてくれました?

小豆の苗を定植

小豆の種(小豆そのもの)が直売所に売っていたので買っておき、5月になってからポットに蒔いてみました。
珍しく順調に発芽して、苗になり、ぐんぐん育ってゆきました。
地元の種なので気候があっていたのかもしれません。

あまり苗がヒョロヒョロ伸びすぎても、定植後に根の吸水力と葉っぱからの蒸散の関係で弱ったりしますし、物理的に倒れたり、折れやすくなったりと、具合が悪いことがあります。
そもそも苗のまま長くポットに植えたままにしておくと、老苗といって株そのものの活力がなくなってしまいます。

根がよく巻いた程よい苗ができました

ということで小豆の苗を定植することにしました。
株数は75ほどのパレットが2つ、計150株ほどあります。
植える場所は、ジャガイモが何度も全滅している「鹿の餌場」の畑の一段上、奥にキャベツが3列、手前にインゲンなどが3列植わっている圃場にします。

当初、その場所は枝豆に、と考えていましたが、枝豆の芽出しが上手くいかず苗ができていません。
そこで苗が育った作物の順に、その場所を埋めてゆくことにしました。
スペース的には畝が5列ほどで、小豆の苗を植えるには十分だと思っていました、印象的には・・・。

ところがそれは山小舎おじさんの勝手な思い込みで、畝数が5列では、小豆150株はとても賄いきれず、一つ上の面にさらに3列畝を追加して何とか1植え切ったのでした。
我ながらいい加減な計画です・・・。

いつも通り、穴を掘り、燻炭をまぶして、えひめAIの希釈液をかけ、株を植えてゆきます。
苗の茎が徒長気味なので、深めに植えました。
植えた後には乾燥防止のためもみ殻を根元にかけておきました。

ポットから苗を取り出して植えてゆきます

おじさんの思い込みで計画性も何もない作業となりましたが、翌日は雨の予報、今日中に定植を終えようと、予定の倍ほどの作業量を頑張りました。

とりあえず開いているスペースに5列植えました。3列分は一段上の畑に植えました。

梅雨の合間の肌寒い曇天が、作業の進行を助けてくれました。
最近の雨で土の保水量もちょうどよいくらいでした。
翌日の雨も苗の根の活着を助けてくれることでしょう。

対鹿戦線・第一ラウンド 完敗

鹿の食害防御の試みとしてトウガラシをまぶしたジャガイモを畑に置きました。4日後に畑を訪れたときの様子です。

緑の部分は作物ではありません。畝間に生えた雑草です。

ジャガイモは完食されています。
トウガラシの粉が残っています。

ジャガイモを置いたあたりにはトウガラシの粉だけが残っていました。

この事実から、鹿にトウガラシは効かない、少なくとも好物であるジャガイモの捕食を抑止する効果はないことがわかります。
食べた後、辛みにショックを受けた可能性はありますが、鹿はそんな高級な感性を持つ動物ではないので、もう忘れているでしょう。
ちょうどよい調味料になっていたのかもしれません・・・。

ネズミ捕りに仲間が1匹取られただけで1年間はその場所に近づかなくなるネズミのほうが感性豊かに感じます。
というか、家に棲み人間との距離感の維持が生存に直接影響するため、人間の「価値観」に従わざるを得ないネズミに比べて、鹿には野生動物(畑を餌場にするのですから半分野良ですが)の無神経さ、ずぶとさを痛感します。

完全に野生に生きる気高さもなく、半分野良となった里山の鹿の前途に希望はありません。
人間との距離感を覚えるか、自滅してゆくかしかないのではないか?
道路で車にぶつかる鹿や、ひかれてつぶれている狸の姿が思い出されます。

とりあえず、対鹿戦線第一ラウンドは山小舎おじさんの完敗です。
いったんは戦線を離脱・後退して陣容を整えるとともに今後の対策を練ることとしましょう。

今のところピンクテープで囲まれたエリアは被害なしです。

ジーン・セバーグという女優

ジーン・セバーグという女優がいました。
「悲しみよこんにちは」(1957年オットー・プレミンジャー監督)のセシルカット姿、「勝手にしやがれ」(1959年ジャン₌リュック・ゴダール監督)を颯爽と駆け抜けるミューズで、世に映画文化が残る限りその存在を永遠に刻印するであろう、アメリカ人女優です。

ジーン・セバーグ

極私的なジーン・セバーグ

山小舎おじさんにとってのジーン・セバーグは、テレビの映画劇場で観た「悲しみよこんにちは」、16ミリ上映会で観た「勝手にしやがれ」がすべてです。
子供の頃に「ペンチャーワゴン」(1969年ジョシュア・ローガン監督)を映画館で観ていますが、残念ながら長尺のにぎやかな西部劇ミュージカルだったこと、リー・マービンの存在が強烈だったことしか覚えていません。(この作品には、セバーグのほかにクリント・イーストウッドも出ていたらしい)。

なんといっても「勝手にしやがれ」の主演女優だったことが、彼女に対しての印象の80パーセントを占めています。
映画史上の一大ムーブメントだったヌーベルバーグの旗手であるゴダールの代表作にて主演・ジャン₌ポール・ベルモンドの相手役を務めたのですから。

生き生きとした若々しい彼女がヌーベルバーグ勃興期の記念すべき代表作にさっそうと登場した姿。
ゴダール映画らしく突然ストーリーの中から消えていった姿。
ヌーベルバーグとの、否、映画史とジーン・セバーグとの運命的、歴史的な邂逅の瞬間でした。

「勝手にしやがれ」ジャン・ポール・ベルモンドと

ギャリー・マッギー著「ジーン・セバーグ」

セバーグの評伝が出ていた。
3500円の定価。
西荻窪の古書店・音羽館に2200円で出ていたので買った。
山小舎おじさんにとっての大枚です。

評伝表紙

セバーグの生い立ちから早すぎるその死までを、両親、兄弟、恩師、結婚相手などなど多数の関係者に取材してまとめた労作です。

アメリカの中西部・アイオワ州の田舎町に生まれ、チャンスを得て「聖女ジャンヌ・ダーク」(1957年オットー・プレミンジャー監督)で主演デビュー。

初期作品の不評などにより、ハリウッドメジャーでの活躍歴は少ないが、フランス人弁護士との結婚によりフランスを拠点に映画のキャリアを重ねてゆく。
後に生涯のパートナーともいえる、作家のロマン・ギャリと再婚。

一方、彼女が持って生まれた弱者に寄りそう正義感に満ちた性格により、ブラックパンサー運動を支援して、FBIから要注意人物として生涯マークされることになる。
1979年車の中で死体で発見される。

同著ではセバーグとフランスの深い関係性を表すエピソードに触れることができる。

「聖女ジャンヌ・ダーク」

「悲しみよこんにちは」が公開された当時。
ヌーベルバーグをしょって立つ若手監督の出身母体だった映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」の表紙を彼女が飾り、同誌の主筆の一人フランソワ・トリュフォーがセバーグを「映画の新女神降臨」と絶賛したこと。

後にセバーグ自身が、トリュフォーの新作「華氏451」(1966年)に出演を希望したがかなわなかったこと。

こんどは、トリュフォーの代表作の一つになった「アメリカの夜」(1973年)の撮影に際し、トリュフォーが主演にセバーグを考え、連絡を取ったがつながらなかったこと。

ジャン=リュック・ゴダールと(下)

スターの持つ輝き

スターの輝きというものは不思議というか特別なもので、どんなに古い、モノクロフィルムでも、スターの輝き・オーラというものが時空を超越して画面に現れることがあります。

「晩春」(1949年)ほかの原節子、「弥太郎笠」(1952年)の岸恵子、「素直な悪女」(1956年)のブリジット・バルドー・・・。
男優では、「おしどり駕籠」(1958年)の中村錦之助・・・。

観ている方が驚くのですが、彼女たちがが登場した瞬間、スクリーンからその存在がまぶしくきらめいたのでした。

youtubeで、ジーン・セバーグが「聖女ジャンヌダーク」に出たときのオーデイションフィルムを見たことがあります。
17歳の彼女が「ジーン・セバーグです」と微笑みながら自己紹介する姿が映っていたモノクロフィルムからは、間違いなくスターという特別な存在だけが持つ輝きが放射されていました。

デヴュー当時
「悲しみよこんにちは」撮影時

こうなりゃ神頼みだ2 長野県護国神社にアマビエの御朱印をもらいに行く

松本市に長野県護国神社があります。
ここでいただける御朱印がアマビエをデザインしたものだと聞きつけていただきにまいりました。

市の北側、浅間温泉とお城の中間程、善光寺街道の沿線近くに目指す護国神社がありました。

広々とした境内の入口に鳥居が迎える
本殿。雨のせいか人気がない

護国神社と言えば生まれ故郷の旭川護国神社を思い出す山小舎おじさん。
陸軍第七師団の駐屯地であった軍都旭川の歴史どおりの大きな神社で、毎年春の招魂祭は、パレードが催される大きなお祭りでした。

また、小学校4年生の時に旭川に昭和天皇が来て、学校から沿道に旗を持って動員されましたが、昭和天皇を乗せた自動車が通ったのもまさに護国神社へ続く通りでした。

閑話休題。
令和2年の長野県護国神社です。
折からの雨で参拝者はおじさんのほかに一人だけ。

参拝もそこそこに社務所へ向かいます。
窓口に並べてある、アマビエの人形などを見ていると窓が開き、巫女さんが対応してくれます。
神社にしてはものすごくサービス精神があると思い、アマビエの御朱印について聞くと「御朱印帖に書くのではなく、紙で出すので、後で御朱印帖に貼ってください。1通300円です。赤のほかに青色のバージョンもあります」とのこと。

神社の巫女さんとは思えないCS(カスタマーサテイスファクション)ぶりでした。
あっ今はCSって言葉は、はやってないの?

1通300円と聞き、3通買いました。
2枚が赤バージョン、1枚は青バージョンです。
御朱印のリクエストは自宅を守る家内からですので、自宅に送ろうと思います。

社務所の窓にディスプレーされた赤バージョンのアマビエ御朱印
非売品のアマビエ人形も並んでいた
御朱印を3通いただきました

ついでに松本の街を探索

折角松本に来たのだから街を探索します。
松本の観光と言えば国宝の松本城をメインに、縄手通り、中町通といった伝統的な街並みのそぞろ歩きが主になります。
長野県在住4年目の山小舎おじさんも、そのあたりは来るたび訪れてきました。
今回はそれ以外の街並みを探索しようと思いました。

まず、市内中心部の開運堂という和菓子屋に行きました。
ここのどら焼きがおいしいので、御朱印を自宅に送る際に同封しようと思ったからです。

開運堂本店内にはソフトクリームロボットなるものがありました。
専用のコインを買うとロボットがソフトクリームを作ってくれるというものでした。
お父さんに連れられた女の子が食べていました。

パルコの並びにある開運堂本店
店内のソフトとクリームロボットを撮影するのははばかられたので、外の看板を撮る

次いでアガタ書房という古書店に行ってみました。
県内では松本、長野以外には古本屋らしい古本屋は少ないのです。

音楽と郷土史に力点を置いた品揃えの店でした。
3冊ほど郷土史関係の本を買いました。

開運堂から徒歩3分。県内には珍しい古書店らしい店構え。
「ふるさと地理誌佐久平上田」には昭和60年当時の活気ある地元の商店街が紹介されていた

昼食は、キッチン南海という店でカツカレーでした。
そうです、神保町にあるキッチン南海ののれん分けで、神保町で修業をしていたというマスターが開いている店です。

土曜ということもあり、またイオンモールが向かいという立地もあり、店内は満席で、外で並ぶ家族連れもありました。
おじさんも並ぼうとすると、家族連れが「先どうぞ、カウンター空いてるし」というのです。

恐縮して入店。
神保町というよりは家庭の味のカツカレーをおいしく頂きました。

その家族連れはおじさんが食べ終わるころにやっと空いたテーブルに着席していましたが、その間子供が騒ぐでもなく、大人がいらいらするでもなく外で待っていました。
それとは別に、店内で食事中の客も、外で待っている人を気にするでもなくゆったりと会食しているのが印象的でしたが。

これが「長野時間」ともいうべきものなのでしょうか?
うれしくも貴重な体験をしたように思います。

店のロゴ、カラーも神保町店と同じ。味はちょっと違います。

降り続く雨の中、上土通りという道筋を歩きました。
戦災を受けなかった松本の昔の建物が残っている通りです。
昔の建物オリジナルというよりは、リニューアルしたような建物が目につきます。
お城に近い昔からの商業地でだったようです。

レトロな建物をリニューアルした写真館
閉鎖になった映画館。
とどめはお堀に浮かぶ料亭。その名も「かき船」。

松本には善光寺街道というレトロな道筋も残っています。
上土通りが戦前の姿を残す道だとすれば、善光寺街道は明治以前の風情を残す道なのでしょうか。
善光寺街道をについては、いずれ散策してみたいと思いました。
歴史ある都会の松本はまだまだ探索する場所が多そうです。