「STRANGERS in HOLLYWOOD」より ロバート・シオドマクの「モルナール船長」

ドイツ出身のユダヤ人監督で、アメリカ亡命後はB級サスペンス映画の巨匠といわれたロバート・シオドマクのフランス亡命時代の作品「モルナール船長」(1938年)を観た。

ストレンジャーズインハリウッド特集で見た15本(内シオドマク作品が10本)中の忘れられない作品だった。

パンフレットの作品紹介より、右がモルナール船長役のアリ・ボール

出演者は知らない俳優ばかり、設定はフランスの船乗りの話で、舞台は寄港先の上海と帰港後のフランスの港町。
主人公は初老を迎えようかという中年太りのおっさん。
「つかみ」はよくない。

前半に描かれる、戦前の上海の風景とフランス租界の暗黒街(飲み屋の女たちのやさぐれぶりや、植民地に巣食う小物ギャングたち)のエキゾチズムに目を引かれているうちに、だんだん映画の本筋にはまっていく。

肝臓が肥大しているような成人病体形のモルナール船長は、実は船長として卓抜した経験と技量を持ち、船員を見事に統率し、また己の信念に生きる男の中の男だった。
同時に自宅に残る妻との関係は冷え切り険悪で、船主の会社幹部からは腕利きながら要注意人物として嫌われ、また、寄港先では武器の密輸でポケットマネーを得ている人物でもあった。

密輸に手を染める人物だが、現地のギャングたちとわたりあい、もめごとは部下たちと力を合わせて実力で解決してゆく堂々たる男っぷり。
いざとなるとガンアクションも辞さない身のこなしは、体形にかかわらず粋にアクションをこなす中年フランス人俳優の真骨頂だ。
ジャン・ギャバンやイブ・モンタンを思い出す。

モルナールたちの上げ足を取ろうとする船主にも忖度一切なしで正面からの対決姿勢を貫き、結果、船長の任務から外される。
偽善に満ちた帰港地での歓迎行事は船員ともども完全に無視し、酒場へ直行する。
ここら辺は、シオドマク監督の社会派、正義派ぶりが表れていないか。

意地悪な妻にも妥協せず立ち向かうが、両親の喧嘩に心を痛めた娘が家を飛び出し海に身を投げると、すかさず後を追って飛び込み、ずぶ濡れの娘を海から救い上げる頼もしい父親でもある。
この娘は病に伏した父の最後の願いをかなえるため、それまで言いなりだった母に抵抗して、父が仲間のいる船で最期を迎える手助けをし、父親の愛情に応える。

余談だが、冷え切った関係の妻ということでは「容疑者」(1944年)での主人公チャールス・ロートンの妻役を思い出すし、健気な少女像ということでは「らせん階段」(1946年)のドロシー・マクガイアを思い出す。
どちらのキャラもシオドマクの好きなキャラなのかもしれない。

「ストレンジャーズインハリウッド」特集のパンフレットより

決して聖人君主ではなく、社会とうまくやれず、カミさんの操縦にも失敗しているが、己の生きる道にだけは精一杯取り組み、問題を解決してゆく実力を有し、何より全幅の信頼がおける仲間がいる。
そういった男の人生を、ギャグでごまかさず、反対意見を取り入れてボカさず、ストレートに描いている。

脚本はフランスの名脚本家、シャルル・スパーク。

人間性と正義感を肯定した正攻法のドラマが本来のシオドマクのスタイルなのだろうと感じる。
戦争がなければドイツで堂々たる人間ドラマを作ったことだろう。

山小舎開き 帰りは茅野から「あずさ」で

1月の山小舎開きは思わぬ水道管凍結とその手当で予定よりプラス2日の滞在となりました。
仕事のある奥さんを先に送り返した山小舎おじさんは、その2日後に山小舎を後にして単身帰還しました。

山小舎から自宅まで、軽トラ利用によらぬ帰還の手段は、在来交通によることになります。
白樺湖まで何らかの手段でたどり着けば茅野駅までの路線バスがあります。
茅野駅までのバスは平日で6本ほどの連絡です。
時間帯は6時台に2本、9時台1本、11時台1本、あとの2本は夕方です。
9時台のバスに間に合うようにタクシーを手配しました。

アルピコタクシーという、茅野、諏訪方面をテリトリーとするタクシー会社に予約の電話を入れると山小舎の前まで時間に来てくれます。
前日に電話して8時45分の予約を入れました。
当日は早めに来てくれて9時前には西白樺湖の停留所前に着きました。

停留場から見る冬景色

停留場付近の駐車場

路面はアイスバーンなのですが、陽の光には暖かさを感じる冬の朝です。
時刻どおりにやってきた、車山高原始発のバスには意外にも乗客が3人ほどいました。

路線バスの社長路線バスの車中

白樺湖を一周する間に乗客をして雪景色を堪能せしめたバスは一路、茅野の市街へと下ってゆきます。
1時間もしないうちにJR茅野駅前に到着しました。
料金は千円ちょうどでした。

白樺湖越しに見る車山高原

茅野駅からはJRで帰って良し、少し歩いた高速バス停留所から高速バスで帰って良し。
今日は特急あずさで帰ることにしました。

茅野駅のホームに出ます。
上り線のホームには駅弁を売る売店がありました。
特産の黒曜石も飾ってありました。
こうしてみると茅野駅のホームも見どころは多々あります。

ちょうど高尾行きの各駅停車も出発を待っていました。

特急あずさは、小淵沢、甲府、八王子に停まりました。
立川で下りて三鷹まで乗り継ぎ、バスで自宅まで帰りました。

あずさの車窓

水道管の凍結防止でDIY!

今年最初のDIYです。
何年かぶりの寒波の中、山小舎開きを行いました。
3日間の滞在中に水道管を凍結させてしまいました。

厳寒の山小舎に水道管凍結という落とし穴が待っているとは・・・

北国の住宅の常識として、冬の不在時には水道管の水抜きを行います。
山小舎おじさんが子供のころには毎日夜には「落とし」ていました。

山小舎では滞在時には通水するのですが、夜間の間に水道管が凍結してしまったのでした。

冬の間の通水時には水道管を温めて凍結から防ぐ措置を行うのが通例です。
一般的にはサーモスタットで寒冷時にのみ通電する電熱線を蒔いておく方法によります。

山小舎でも電熱線を水道管に巻いており、滞在して通水すると同時に通電しておりますが、台所へ向かう水道管については通電しておりませんでした。

これまでの5年間の冬の滞在時ではここまでの寒さがなく、油断しておりました。
破れなかったのが幸いでした。

1日室内を温めて凍結が溶けるのを待ちました。
地下に灯油ストーブを持ち込むなどした結果、夜になって凍結は溶けたのですが、今後のこともあり、台所の水道管にも改めて凍結防止の措置を施すことにしました。

工事は出入りの大工さんに相談して必要な資材をそろえ、自分で行うことにしました。
既に3日間の滞在予定期間を過ぎて、奥さんだけを自宅に返しており、1日でも早く工事を終わらせたかったこともありました。

ホームセンターへ行って、大工さんに言われた資材を調達します。
上田のホームセンターでは凍結防止用の資材が一つのコーナーにまとめられており、1か所で必要な資材が調達できるようになっていました。

サーモスタット付きの電熱線、テーブルタップ、保温の合成樹脂カバー、ビニールテープ、一番最後に上から巻くキャンパスシートと呼ばれるテープ、です。

サーモスタット付きの電熱線が売られている
電熱線からコンセントまでのテーブルタップを用意
保温カバーを管の長さ分用意
キャンパスシートとビニールテープ

日中でも寒い地下に潜って作業します。
夕方までには終えたいものです。

現状の保温カバーを外します。
カッターでビニールテープを切り外してゆきます。
もともとがキャンパステープによる保護はされておらず、前回の施工はプロとしては「失格」なものでした。

かぶせてある保温カバーを外す

電熱線をらせん状に巻いてゆきます。
一度通電して暖かくなるのを確認します。

むき出しの水道管に電熱線を巻いてゆく

保温カバーをかぶせます。
まっすぐで長い管の場合は被せやすいのですが、管に接続があったり、短かかったりする部分はカッターで切ったり、曲がった部分を穴埋めするなどします。

保温カバーを被せる

カバーが外れないように、また外気から遮断ができているようにした後、上からキャンパスシートを巻いてゆきます。
キャンパスシートをテープ止めして完了です。

全体にキャンパスシート(白)を巻いて仕上げる。手前は排水管

3つの電熱線を1か所でコンセントに差し込みます。
電熱線のコンセントはこれで合計3か所目となりました。
厳寒時は常時通電して様子を見ることにします。
電気代は夏の3倍くらいかかります。

休み休み3時間ほどかかりましたが何とか終了しました。
次回訪問時、通水後に凍結がなければDIY工事の完了です。

令和4年の山小舎開き

令和4年の1月に山小舎開きをしました。
今年初の山小舎です。

令和4年1月の山小舎
軽トラも雪で埋まっていた

山小舎の周りは予想以上の積雪でした。
玄関にたどり着くために大いに雪かきで汗をかきました。

雪自体は湿っていなく、また底の部分以外は凍って固まってもいなかったので扱いやすかったものの、量が多くて大変でした。

まずは玄関までの雪かき

気温は低く、室内でも夜間には通水した上水道が凍るほどでした。
二つ目の灯油ストーブのおかげもあり、暖房中はポカポカでした。
薪ストーブの柔らかな暖かさも改めて実感。

灯油ストーブは温風式(奥)のほかに今回、ポット式(手前)を用意

滞在中には降雪もなく、晴天に恵まれて雪景色を堪能しました。

別荘地内は路面も含めて真っ白の雪模様でしたが、国道へ出ると大門峠を含めて路面は除雪され、アスファルト面が乾いているほどでした。

茅野や上田の市街地では路面はもちろん、空き地での積雪もありませんでした。

別荘地内の路面は完全冬景色
雪面に鹿以外の大型動物の足跡が・・・

「STRANGERS in HOLLYWOOD」の女神たち その2

ジュリー・ハリスと「結婚式のメンバー」

「エデンの東」(1955年)でジェームス・デイーンの兄の婚約者役を演じたジュリー・ハリスが12歳の少女役を熱演した「結婚式のメンバー」を観ました。
コロンビア配給、1952年のフレッド・ジンネマンの監督作品です。
ジンネマンとしては「真昼の決闘」(1952年)の後、「地上より永遠に」(1953年)の前の作品になります。

シネマヴェーラのパンフレットより

舞台は南部の片田舎の一家庭。
登場人物は主人公の少女(ハリス)と黒人のメイド(エセル・ウオーターズ)、少女のいとこの少年(「シェーン」のブランデン・デ・ワイルド少年)にほぼ限定された舞台劇のようなドラマです。

主人公の癇性な少女が、閉鎖的な土地柄と人間関係に強烈な違和感を抱きつつ暮らしている中で、いとこの結婚や自らの体の成熟を機会に、人格的な成長への足掛かりをつかんでゆくまでの物語。

「結婚式のメンバー」より、左からデ・ワイルド、ハリス、ウオータース

少女の抱える社会への違和感が一つのテーマでもありますが、それをほぼすべてセリフで表現しており、とにかく主人公が延々としゃべる、いらだつ、怒る。
演ずるのは当時27歳のジュリー・ハリス。
30歳で演じた「エデンの東」でのヒロイン役は違和感がなかったのですが、さすがに27歳での12歳の少女役はちょっと、と感じるのは草食民族のおじさんだからでしょうか。

「エデンの東」(1955年)のジュリー・ハリス

細い体つきは12歳でも通るのですが、マシンガンのごとく飛び出すセリフと切れ切れの演劇的アクション、はどう見ても達者な20代の俳優のそれ。
見どころは主人公の少女ぶりではなくて、セリフで説明されるところの若い人格の苛立ちと成長なのでしょうが、草食民族のおじさんとしては、理性に直撃する言語の連打だけではなく、映画ならではの12歳の少女の体温や柔らかさの表現も望んでしまいます。

とにもかくにも演技者としてのジュリー・ハリスをとことん堪能できる作品。
少女の苛立ちと成長を包み込むかのような黒人メイド役のエセル・ウオーターズの存在感が圧倒的で、それには、ハリスの演技力もかなわない、と思いました。

デ・ワイルド少年のとぼけたかのようなたたずまいも忘れられません。

パトリシア・ニールと「ステキなパパの作り方」

パトリシア・ニールは「摩天楼」(1949年 キング・ヴィダー監督)で共演した妻子あるゲーリー・クーパーと恋に落ち、同棲し、子まで宿したことのある女優さんで、この作品の撮影当時(1951年)もロケ先などにクーパーがしばしばやってきたといいます。

シネマヴェーラのパンフレットより

ブロードウエイの舞台俳優出身のニールはインテリでもあり、演技力もある。
若い時ばかりではなく、中年になってからも細やかな心情を演ずることができそうなタイプだ。

彼女の自伝がある。
「ゲーリー・クーパーこそが私が情熱をもって愛したただ一人の男性だった」という記述で結ばれる同書の中で、この「ステキなパパの作り方」については、「どうということのない映画だったが、ヴァン・ヘフリンと仕事をするのは楽しかった」(同書179ページ)とだけある。
たった2行の記述だ。
そのころ彼女の頭の中はクーパーのことでいっぱいだったのだろうか。

パトリシア・ニール自伝「真実」の表紙

戦後中産階級全盛の時代のテレビドラマよろしく、にぎやかでユーモアにあふれたホームドラマのこの作品では、若いシングルマザー役のニールと、シングルファザー役のヘフリンが、その子供たちによってお約束通りに、出会い、てんてこ舞いし、結ばれる。

展開もスピーデイーで、ギャグもふんだんにちりばめられ、適度に風刺も効いた(子供が預けられたキャンプ場のリーダー像は、金髪碧眼の健康オタクで、これはまさにナチス時代の自然主義への皮肉)小品は、亡命後にユニバーサルでエース級の監督に上り詰めていたダグラス・サークによるもの。

ニール扮するママの長男の名前が何と「ゲーリー」。
作り手のウイット(皮肉)なのか、ハリウッドの露悪趣味なのか。
主演女優の不倫真っ最中の相手の名前を劇中の長男の役名に持ってくるとは!

ニールはたくましい母の役柄に徹し、劇中で何度も「ゲーリー」!と息子に叫んでおりました。
そのたびに当時の観客は微苦笑を禁じえなかったことでしょう。
あるいは爆笑したのか?

70年後の観客は、その際の女優パトリシア・ニールの胸中を、ひたすらおもんばかるばかりでしたが。

「摩天楼」の一場面。パトリシアとゲーリー

ドロシー・マクガイアと「らせん階段」

ハンデキャップのある美女が悪漢に追いつめられるパターンを確立したサスペンスの古典。
ロバート・シオドマク監督の職人芸がスリルを盛り上げる「らせん階段」(1946年 RKO配給)。
主演は清純派のドロシー・マクガイアです。

シネマヴェーラのパンフレットより

サイレント映画が上映され、馬車が動いている時代のアメリカが舞台。
屋敷のメイドを務める主人公の周りには、彼女に接近する独身の医者、屋敷に出戻った主とは種違いの兄弟、頑固な下男夫婦など怪しげな人々が立ち現われます。
幼少時のショックで声を出せない主人公に迫る恐怖。
どうやら真実の味方は寝たきりの老女主人(主の母親)ただ一人。

ゴシック調のサスペンス演出をベースに、影と鏡を使った撮影でスリルを強調するドイツ出身の監督シオドマク。
最後にわかる意外な犯人。

気丈にふるまう主人公とハピーエンドは、この作品が単によくできたサスペンスとしてだけではなく、一人の人間の成長への賛歌となっていることがわかります。
最後に言葉を発し、自らの力で窮地を脱し、自立へと成長する女性の姿を描くことがこの作品の一方のテーマとなっています。

行動的で健気なヒロイン像は、他のシオドマク作品にもみられます。
「罠」(1939年)のマリー・デア、「幻の女」(1944年)のエラ・レインズなどです。
広く定義すれば「モルナール船長」(1938年)での船長の娘役の最後のふるまいとも共通します。

「らせん階段」のドロシー・マクガイアはサスペンス映画のヒロイン像として出色のキャラクターを確立していました。

「STRANGERS in HOLLYWOOD」の女神たち その1

渋谷シネマヴェーラで1か月にわたる上映を終えた「ストレンジャーズインハリウッド」特集。
全34本の上映作品中15本に駆け付けた山小舎おじさん。
その中から忘れえぬ女神たちをご紹介したい。

1930年ベルリンの自由な女性たち

「日曜日の人々」という作品を観た。
1930年のドイツ映画。
サイレントである。.

監督がロバート・シオドマクとエドガー・G・ウルマー、脚本がビリー・ワイルダー、ノンクレジットでフレッド・ジンネマンが協力、と戦前に活動を始めたユダヤ系映画人が故国ドイツで集合した作品。

冒頭、俯瞰するカメラはベルリンの街角:路面電車や通勤者が活発に行き来する活気ある風景、を映し出す。
主演を務める二人の断髪した若々しくもコケティッシュなベルリン娘たち。
一般市民を配役したという。

シネマヴェーラのパンフレットより

若者たちが、日曜日にデートする風景を追うストーリー。
デートの場所はベルリン郊外の湖。
ビールとソーセージと蓄音機を持参し、水着のすそのほつれを針で繕って、うきうきと水浴びする娘たち。

ナチス台頭以前の自由でのんびりした時代の雰囲気が漂う。
素人女優らの自然な振る舞いがいい。
90年前のベルリンと若者のふるまいが、懐古趣味とも、資料的価値とも違う興味と魅力を今に伝える。

ワイルダー脚本なので素直なハッピーエンドなどありようもなく、男女関係の影をイジワルで残酷に匂わせつつストーリーは展開するが、画面に支配的なのは若く、自由で、晴れ晴れとした雰囲気だ。

観終わって晴れ晴れとする作品。
シオドマクにもジンネマンにも、その心の中に暗闇はまだ到来してなかったのだろう。

ウーファの歌姫ツアラー・レアンダー

戦前のベルリンにはヨーロッパ一の設備を誇る映画撮影所があった。
ウーファと呼ばれ、ローマのチネチッタ撮影所と並び称された。

ウーファ売り出しのスター女優が、スエーデン出身のツアラー・レアンダーだった。

「南の誘惑」(1937年 ダグラス・サーク監督)に出ていた。
なるほど美人で歌も歌う。
平和な時代が続いていればドイツ映画の大女優として歴史に名を残していたかもしれない(すでに一部の「シネフィル」たちの間では伝説となっているが)。

シネマヴェーラ作品紹介パンフより

「南の誘惑」では、戦前のプエルトリコを舞台に繰り広げられる大メロドラマのヒロインを堂々と務めているレアンダー。
印象的だったのは子役といるとサマになっていること(母性的なのだろう?)と、北欧系のがっしりした体つき。

ツアラー・レアンダー

同じく北欧系の、グレタ・ガルボは背も高くなく、体も薄いが、肩が張り出したがっしり系だった。
イングリッド・バークマンは厚みも肩も、背丈もあるがっしり系。
父親がスエーデン系というグロリア・スワンソンも背は低いが肩だけはしっかりしていた。
皆さん体つきが似ていて、安心感があり、おじさん的には好ましい。

ツアラー・レアンダー

ともかく幻の大女優・レアンダーの作品を観られたのは収穫だった。

フランス亡命時代のマリー・デア

ユダヤ系のロバート・シオドマク監督がドイツで何本か映画を撮った後、ナチス政権下にフランスへ亡命している。
このフランス亡命時代に撮った作品に「罠」(1939年)がある。

主演のモーリス・シュバリエが調子よくしゃべり、歌う、この作品のヒロインがマリー・デアという女優。

まったく当時のシュバリエって、日本映画でいえば戦前のディック・ミネ(「鴛鴦歌合戦」(1939年 マキノ雅弘監督)でのニヤけた若殿様役)をさえ連想しかねない調子よさと、お気楽ぶりの(ミネよりははるかに芸はあるが)、いかにも憎めないキャラクター。
フランスの芸達者なおじさん・シュバリエを相手にして渡り合うのがマリー・デアだった。

役柄は、ひょんなことから警察の囮捜査に協力することになる若い踊り子。

「鴛鴦歌合戦」。左が役不足ながらお気楽若殿役のデイック・ミネ。右の顔半分、志村喬

マリーさんが囮となって、危機一髪の脱出劇を繰り広げる。
逃れる魔の手には、まだ精悍さの残るエリッヒ・フォン・シュトロハイム演じる変態紳士などなどが怪演で応える!?

フランスの女優らしく、ウイットに富んで、男あしらいもでき、愛嬌もあり、活発に動ける。
マリー・デアという女優が実に魅力的だった。

シネマヴェーラのパンフレットより。左マリー・デア、右シュバリエ

この、おきゃんでしっかり者で活発なキャラクターは、色を変えつつ「幻の女」(1944年)のエラ・レインズや「らせん階段」(1946年)のドロシー・マクガイアに引き継がれており、シオドマクの好むキャラクターなのだとわかる。

エラ・レインズ3部作「幻の女」「容疑者」「ハリーおじさんの悪夢」

山小舎おじさんが勝手に名付けたものだが、エラ・レインズ3部作。
いずれもハリウッドに移ってからのロバート・シオドマクの作品で、「幻の女」(1944年)がヒットしたからか、ヒロインのエラ・レインズが3作続けて出演している。

「幻の女」はウイリアム・アイリッシュ原作のサスペンスで、シオドマクのサスペンスを盛り上げる演出が冴えた。

写真左がエラ・レインズ

エラ・レインズが扮するのは上司の冤罪を晴らすため駆け回る活発な女性秘書役。
最初は特徴のない美人秘書、しかしてその正体は、冤罪の証拠を得るためなら例え商売女に扮してでも、窮地に飛び込む熱血女史!。
熱血女史が飛び込む先、証人のバンドマンたちがまくしたてるフリーセッションシーンの不気味な熱気と猥雑な雰囲気。
エラ女史は、バンドマンのキスに〈汚らわしい〉といわんばかりに口を拭いながら、冤罪の証拠収集のために立ちまわる。

サイコな殺人鬼をめぐるサスペンスの盛り上げとそのB級ムードに、エラ・レインズがよく似合う。
まさしくB級の女王としてその魅力を発散しはじめるエラ・レインズだった。

続いての「容疑者」(1944年)は、一見サスペンス風を装った人間劇で、チャールズ・ロートンを主人公にし、英国を舞台にした作品。
ほぼロートンの一人芝居でストーリーをつなぐ中、エラ・レインズは既婚者・ロートンと心を通わせる独身女性を演じる。

写真はエラ・レインズとチャールズ・ロートン

彼女のB級な冷たい美人顔からすると、この後、主人公を平気で裏切るキャラクター〈いわゆるファムファタル〉か?、と思いきや最後まで清純なまま。
この作品はロートンを通して人間を描くのがテーマで、彼女扮する女性は単に象徴として使われただけだった。
エラ・レインズはこの作品では清純な女性を輝くような笑顔で演じていた。
そこが物足りなくもあった。

シオドマクが彼女を気に入ったのか、会社の指示なのか、1945年の「ハリーおじさんの悪夢」の重要な役でエラ・レインズは三度、シオドマク作品に登場する。

スクリーンにも慣れたのか、「幻の女」の時のようにおどおど、せかせかしてはいなく、「容疑者」のようにひたすら微笑むだけでもなく、ニューヨークのバリバリのビジネスウーマン役として、余裕とこぼれんばかりの色気を携えてこの作品に登場するエラ・レインズ。

エラ・レインズとジョージ・サンダース

この作品は恐慌後のアメリカ郡部の没落地主一家の心理劇で、サイコパスっぽい独身の妹と、その彼女が兄に向ける近親的な愛憎をサイドストーリーに、兄主導の犯罪サスペンスが皮肉に展開する、といったもので、難しい妹の役はジェラルディン・フィッツジェラルドという、うまい女優が演じている。
エラ・レインズは旧態依然とした家庭に外の風を吹き込む、挑発的な都会女の役。

エラ・レインズ。
十分に美人な女優さんだが、B級的なシチュエーションにおいてこそ輝く女優ではある。
演技力があるわけでもないので、「ハリーおじさん」の妹役のようなサイコな役柄も向かず、かといってシチュエーションの周りでうろうろする狂言回しの役は「幻の女」でやったとすれば、サスペンス物の被害者役に落ち着くのが流れだったのかもしれない。
シオドマクの3作品においてはまだ、前途に希望を抱かせる配役だったが。

1940年代のシオドマク作品でキラッと輝いた女優である。

エラ・レインズは1920年アメリカ生まれ。
「幻の女」の前年の1943年ころから映画出演が始まり、1944年には年間数作品に出演(同年の「拳銃の町」ではジョン・ウエインと共演)していた。
40年代後半には問題作「真昼の暴動」(1947年 ジュールス・ダッシン監督)に出演。
50年代初頭には出演作もなくなっていたようです。

STRANGERS in HOLLYWOOD Ⅰ

名画座・渋谷シネマヴェーラで,2021年12月から、年をまたいで1か月以上にわたる特集上映があった。
その名も「ストレンジャーズ・イン・ハリウッド」。
戦前にドイツを逃れてハリウッドに渡った映画監督3人の、1930年代から50年代初頭にかけての作品の特集だ。

3人の監督は、ダグラス・サーク、ロバート・シオドマク、フレッド・ジンネマン。
いずれ劣らぬ映画史上の名監督にして、ユダヤ系の(サークは夫人がユダヤ人、ほかの二人は本人がユダヤ人)、いわばハリウッドにとってのストレンジャーズ。

日本のファンには「真昼の決闘」(1952年)「地上より永遠に」(1953年)で名をはせ、後年「ジャッカルの日」(1973年)「ジュリア」(1977年)など、大監督然としたジンネマンが有名だ。

コアなファンには、声が出ない少女が殺人鬼に追いつめられるサスペンスの古典「らせん階段」(1946年)とともに監督・シオドマクの名が記憶されるかもしれない。

映画ファンを卒業した「シネフィル」と呼ばれる意識の高い方々には、評論家・蓮見重彦氏あたりがもっぱら取り上げ始めた一人:ダグラス・サーク、がここ最近の気になる映画監督(映画作家と呼べばいいのか)なのかもしれない。

上映館のポスター掲示場より(右上がシネマヴェーラ現在上映分)

全34本の上映。
そのほぼ全作品は、シネマヴェーラ自体がデジタル素材を買い取って自前で字幕を付けて上映するという、営業努力によるもの。

サーク:12本、シオドマク:14本、ジンネマン:7本、ほかにエドガー・G・ウルマーの1本を加えてのラインナップ。
うち6本が、戦前戦中に故国ドイツもしくは第一次亡命先のフランスで撮られたものであるという貴重さ。

特集プログラムより

この特集に9回ほど日参し、15本を観た山小舎おじさん。
日々見上げたスクリーンには、70年から90年前の人々の顔だったり、美貌の女優だったり、今なお受け継がれる撮影技法だったりが文字通り横溢しておりました。

1930年当時のベルリンの風景、鏡と影を駆使してサスペンスを盛り上げる技法、レスリー・レアンダー、エラ・レインズ、イボンヌ・デ・カーロ、エヴァ・ガードナーら女優陣の輝き・・・まさしく「映画的世界」の興奮と喜びの連続でした。

特集プログラムの3人の監督紹介文より

個別の作品、女優さん、時代背景などについては次回ブログからおいおい書いてゆこうと思います。

特集プログラムの作品紹介より

その前に付記しておきたいのが、ストレンジャー(外国人:多くはユダヤ人)とハリウッドの切っても切れない関係。
というか、ハリウッドがユダヤ系の巣窟だった(今でもか)という事実。

ここに「カサブランカはなぜ名画なのか・1940年代ハリウッド全盛期の名画案内」という2010年発行の本があります。

奥付きより

戦争を挟んだ1940年代を中心にアメリカ映画を俯瞰的に見るこの本。
その時代のアメリカ映画こそ、〈政治と芸術と商売が絶妙なバランスで一体化した稀有な時代〉で、そういった作品が生まれた背景にはユダヤ系映画人がいたから、という一貫したテーマで書かれています。

ユダヤ系映画人が、政治性(反ナチ)を隠されたテーマとし、商業的にも成功させたこの時代の象徴的な作品が「カサブランカ」でした。
非ユダヤ人(ボガート、バーグマン)を表に立て、ユダヤ系のスタッフ、キャストが脇を固め、巧妙に織り交ぜられた反ナチのアピールは、見事に「ヤンキーをして、ヨーロッパの反ナチとワスプを救わなければならぬという気持ちにさせた」と同書にはあります。

目次より

ハリウッドのユダヤ人には、戦前から有名な監督だけでも、エルンスト・ルビッチ、ウイリアム・ワイラー、ジョージ・キューカー、ルイス・マイルストンなどがいます。
その後亡命してきたり、デビューしはじめたユダヤ人監督には、有名どころだけでもマックス・オフュルス、オットー・プレミンジャー、ビリー・ワイルダー、ジュールス・ダッシン、エリア・カザン、マーク・ロブスン(シオドマク、ジンネマンももちろん)などがいます。

彼らこそが通り一遍にスタジオのいう通りだけを聞いて、娯楽映画やミュージカルを撮るだけではなく、時には政治的な主題を、斬新な手法で描いてきた映画監督たちだったのです。

往々にしてその作品は、戦争という非常な時代背景をバックに浮かび上がるユダヤ人としての民族的思想に彩られていたのかもしれませんが、同時に優れた商業映画でもあったのです。

後にいわれるフィルムノワールと呼ばれるB級サスペンス群は、屈折した彼らの心情が反映したているからこそ魅力的なジャンルとなったようです。

監督たちのほかに、有力な製作者や俳優の中にもたくさんのユダヤ系がいてお互いに協力し合ってもいました。

一方、当時のハリウッドのスタジオにはタイクーンと呼ばれるオーナーたちが君臨しており、その誰もが東欧、ロシアからのユダヤ人移民か、その子孫でした。
移住後は都市部のゲットーから身をおこし、劇場経営で財を成して始めたのが映画製作と配給、興業でした。
ハリウッドを形作った人たちです。

彼ら:アドルフ・ズーカー(パラマウント)、サミュエル・ゴールドウイン(ユナイト)、ルイス・B・メイヤー(MGM)ら、はおおむね共和党支持で反共でしたが、決して反ナチではなく、むしろムッソリーニに心酔したハリー・コーン(コロンビア)のような人物もおり、政治的にも教養的にも製作現場のユダヤ人たちとは決して一枚岩ではなかったようです。

製作現場の「進歩的」なユダヤ人たちはのちの「赤狩り」により、共産主義とともにパージされてゆくことになります。
そういった歴史を見る限り、反ナチも政治的な主題も、決してアメリカ総体の意志ではないことがわかります。
むしろハリウッドのストレンジャー達が掲げた政治性が、象徴として「アメリカ総体」からつぶされていったことのようです。

シネマヴェーラのストレンジャーズインハリウッド特集で上映された作品は、その全部がバリバリの反ナチ映画でも、サスペンスでも、フィルムノワールでもありませんでした。
戦前の自由な空気が流れていたり、サスペンス風の味付けながら人間性の高貴さを謳うものも多く、何より当時の有名スターが出演しているバリバリのハリウッド映画でありました。

故国を追われた映画人がハリウッドにたどり着き、独立プロで映画を創り始め、スタジオと契約し、発表していった70年以上前の作品の数々。

メジャー配給会社のトレードマーク:雪山をバックにしたパラマウント、地球儀を取り巻くユニバーサル、ライオンが吠えるMGM、電波塔が発信するRKO・・・で始まる1940年代の夢の世界が連日スクリーンにデジタルで再現されました。

メジャーの配給により歴史に残ることになったこれらの作品。
その一つ一つについては後程。

パラマウントのロゴマーク
RKOのそれ

1956年の映画「火の鳥」

名画座・渋谷シネマヴェーラの特集で「火の鳥」という1956年の日活映画を観たが、よかったので感想を書きます。

同作品は「あなたは猪俣勝人を知っているか」という脚本家・猪俣勝人の特集の一本として上映されました。
この特集の目玉は猪俣自身が監督をやっている「殺されたスチュワーデス 白か黒か」(1959年)という作品です。

この作品は、同年発生したBOAC(英国航空)の日本人スチュワーデス殺人事件(重要参考人として警察に事情聴取中だった、カソリック修道院のベルギー人修道士が事情聴取期間中に突然帰国して迷宮入りとなった)を題材としており、16ミリで残っていたフィルムをデジタル修復したものとのこと。

題材ゆえに大映配給による封切り期間も短く、また名画座上映時にも短縮版がかけられていたとのこと。
今回の完全版の上映は貴重な機会だったようです。
作品は当時若々しかった田宮二郎が扮する事件を追う新聞記者の熱気が画面を支えていました。

今回の特集のパンフレット表紙
シネマヴェーラの特集パンフレットより
劇場ホールに展示されたポスター

さて、当日ついでにもう一本、と観たのが「火の鳥」。
伊藤整の原作で、劇団の主役として、座長の愛人として、映画スターとして輝く主人公の、過去現在の遍歴と未来への希望を描いた作品です。
映画史に残るような作品でもなく、監督井上梅次、主演月丘夢路の代表作でもなく。
若干話題性のあるプログラムピクチャアという扱いの作品です。

「火の鳥」のプレスシートがシネマヴェーラのホールに展示されていた

これが拾い物というか、映画的興奮に満ちているというか。

主演の月丘夢路の美しさに見とれました。

1922年生まれの月丘夢路は当時34歳の女ざかり。
宝塚トップスターだった美貌と勢いに加えて落ち着きも出てきて、彼女が映ると画面が華やかになります。

魅力的な女優さんの全盛期を追体験できたことに映画ファンとして感動せざるを得ない。
とにかくきれいで、アップが映えて、目力があって・・・。

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登場のファーストカットからただならぬ目力に圧倒された女優さんに「暁の脱走」(1950年 谷口千吉監督)の山口淑子がいました。
日中戦争時の日本軍の前線に同行する歌手(原作では慰安婦)の役。
山口淑子のファーストカットが忘れられません。

日中戦争のはざまを潜り抜け、茫漠たる大地の彼方と己が運命を見据えたかのようなその視線と決然としたその立ち姿。
その大きな目玉は、まるで諸星大二郎の漫画の主人公のまなざしを実写化したかのように、見るものをして一瞬のうちに、中国大陸の砂塵と歴史へと誘うかのようでした。

この日のおじさん。
山口淑子ならぬ「火の鳥」の月丘夢路のまなざしによって、宝塚の少女歌劇か、はたまた東洋のハリウッド・日活撮影所の夢舞台へか、魂がさ迷わんばかりでした。

月丘夢路。スタイルの良さが際立つ

こうなれば単純な映画ファンの心など一丁上がり!
手慣れた撮影所の職人技に身も心もゆだねるしかありません。

テンポよく場面が展開、俳優の演技にも無理無駄がありません。

月丘夢路の相手役には、映画初出演の仲代達矢をはじめ三橋達也、大坂志郎、女優陣では山岡久乃、中原早苗の布陣。
それぞれ、芸達者だったり、力が抜けて絶妙だったり、ベテランだったり、若さがはじけていたり。
役柄はステレオタイプなのですが、徹底した「定番」の魅力がありました。

また、月丘夢路の屋敷だったり、劇団の事務所、打ち上げの飲み屋、劇場裏などのセットが「定番」通りとはいえちゃんと作られているし、様になってもいました。
1950年代の映画撮影所の力量です。

シネマヴェーラのパンフレットより

劇中の映画撮影シーンでは、当時の真新しい日活撮影所の屋外の景色やセット撮影の様子が映し出されるのも心躍ります。
北原三枝、芦川いずみ、長門裕之らが実名で現れる場面では、浅丘ルリ子や岡田真澄の顔も見えます。
ラストシーンで劇中劇の階段を主役として堂々と下りる主人公がダンスの相手をするのは三国連太郎ではないか!

井上梅次監督のこういった演出は映画ファンの心を揺さぶるツボを心得ていて、ニクいばかり。
当時の日活撮影所自体の若さ、夢、希望を掬い取ってもいる。

映画デビューの仲代達矢は、「仲代達矢が語る 日本映画黄金時代」という新書で、「撮影初日から茅ケ崎の海岸でラブシーンでしたがやっぱり震えるんですよ。すると月丘さんに、なに男のくせにってお尻を叩かれました」(同書33ページ)と回想しています。
当時俳優座3年目の仲代の抜擢を羨んだ俳優は大勢いたことでしょう。

デジタル版の上映で鮮やかによみがえった1956年の日本映画の豊かさに満足して劇場を後にしました。

東京の新年 保谷東伏見稲荷神社

保谷(現西東京市)の東伏見稲荷へ行ってきました。

商売の神様からお札をいただくためです。
山小舎おじさんの奥さんが介護関係の事業を始めることになり、商売繁盛のお札をもらうことになりました。

新青梅街道沿いにある東伏見稲荷。
並行して走る西武新宿線の東伏見駅から参道が伸びています。

西武戦沿いから参道が伸びる

冬晴れの境内にはほかに2,3組の参拝客がいました。

お札を無事ゲットしました。

帰りには東伏見駅に寄って、名物のたい焼きをお土産に買いました。

移動販売のたい焼きは東伏見駅の名物

東京の新年 雑司ヶ谷大鳥神社

池袋文芸座で映画を観た帰り、目白まで歩く道沿いに大鳥神社の大看板がありました。

池袋東口へつながる道路沿いの大看板

参道を歩いてゆくとお寺がたくさんあります。

一帯にはお寺が多い。敷地の間を抜ける道

鬼子母神を祀る大きなお寺もありました。

鬼子母神を祀るお寺
お寺の境内には売店が残っている

都電荒川線の沿線に目指す大鳥神社がありました。

大鳥神社の鳥居

主宰神は日本武尊。
日本武尊が死んで白鳥になったことにちなんで、全国に大鳥神社があるそうです。

拝殿では参参拝客が

境内には大きな岩もありました。
何かの依り代なのでしょうか?

碑を刻んだ巨石も祀られている

すでに1月も20日を過ぎ、境内には日常の風景が戻っているかのようでした。