平成7年畑 畝の準備

今年2回目の畑作業です。
この日は日差しは温かいも、風が冷たく、半袖での作業は肌寒い感じです。

前回は畝立てをしました。
今日は枯れ草や雑草などを畝から取り除きます。
畝に乗っかった枯れ草、雑草をレーキで寄せます。
これらの「ゴミ」は後で、畝間に被せておくと、乾燥や雑草の防止の役に立ちます。

「ゴミ」を取り去った畝

次回は、畝にえひめAIの散布とマルチング作業です。
今日の作業はここまで。

冬を越したルバーブが順調に成長
出始めのヨモギを採取

帰りにJAによって、ビニールマルチと種を購入。
キャベツやレタスの苗も売ってました。
資材も苗もすっかり値段が上がっていました。

JAで種とマルチを買う
苗が売られていた。20円台に値上がりしたのは初めて

次いで地元の神社にお参り。
長久保集落の鎮守・松尾神社に行きました。
桜がまだ残っていて、川沿いの山吹が鮮やかです。
今年の畑作業の無事とできれば豊作を祈願しました。
集落にある大家への挨拶は、山小舎おばさんとともに済ませています

松尾神社
川辺の山吹
鳥居近くにはボタン桜が

大門街道沿いの大門稲荷神社へもお参り。
いつもながら独特の凄味を感じるお宮です。
ここでは山小舎暮らしの安全を祈願。

徐々に例年通りの山小舎暮らしがスタートです。

大門稲荷神社。名物の土俵には養生のためシートがかかっていた
稲荷神社のたたずまい

春の山小舎リフレッシュ! タンス整理

令和7年の山小舎暮らし開始です。
もうすぐゴールデンウイーク、さっそく孫たちがやってきます。
その事前準備として、冬を越した山小舎のリフレッシュ(大掃除)をしました。
第一弾は衣料タンスの整理です。

山小舎開きに訪れた、山小舎おばさんが「2階の隅にハンガーでかかっていた冬物衣料がかび臭い」と言っていました。
そこで2階の衣料をまず洗ったり、天日干しました。
不要の衣料は捨てました。

冬物衣料を天日干し

ついで衣料つながりで、和室のタンスに目が行きました。
普段着るシャツやズボン、半そでから長袖までが入っているタンスです。
5段全部の引き出しを取り出し、中身を出し、いらないものは捨て、着るものだけを残すことにしました。
是㎜部を畳の上に広げ、厚手のものは天日干ししました。

タンスの引き出しを開け、中身を整理

空になった引き出しを水拭きし、しばらく乾かします。
乾いた後は、防湿シートを買ってきて底に敷きました。
タンスを移動した後の畳や壁も拭いておきます。

引き出しを拭いて乾かす
買ってきた防湿防カビシートを敷く
タンスを置いていた場所を拭いて乾かす

しばらく外気にさらしておいた衣料を引き出しに納めます。
かなりスリムになりました。
衣料の湿気も取れたことでしょう。

使うだけの衣料を収納する

タンスを置いている和室は来客用の寝部屋として使いますので、空気感のリフレッシュのためにもやってよかったと思います。

土台に通期のための板をかませてタンスを設置して完了

令和7年畑 仕事始め

山小舎に戻って、今年初めて畑に行ってみました。

一冬越した畑

まず、夏野菜を栽培する畑へ行きました。
ガッテン農法の畝づくりをしている場所です。

まだ桜が終わったばかりで、本格的な春を迎えていないからなのでしょうか、雑草はそれほど繁茂していません。
とはいえすでに4月中旬を過ぎようとしている時期です、作業は効率よく行わなければ、主力野菜の生産に間に合いません。
この日は、畝立てと昨年使ったビニールマルチの片付けを行いました。

ビニールマルチの残骸

冬を越してへこんだ畝に、畔の土を寄せ、畝を整え、マルチングができるようにするのです。
畝の土は今年もふかふかしていて、雑草も多くありません。
畔には雑草が伸びかかっていますが、まだまだ鍬で軽く起こせるほどの土の硬さです。

雑草ごと畝に土寄せする

休み休み、13列の畝の土寄せをしました。
細かいことは省いて、雑草、枯れ草ともども鍬で畔の土を起こしてゆきます。
土とともに畝に寄せられたゴミ(雑草、枯れ草など)は次回にレーキで除去することにします。

仕事始めにしては頑張りました。
作業時間的には2時間も続かなかったですが。
また、ビニールマルチの残骸はコンテナに2箱ほどになりました。

13列の土寄せを終える
ビニールマルチをコンテナに詰める

ここ数年間は、肥料を施さずに栽培をつづけたガッテン農法の畝に若干の心配はありますが、省力化を目指しての農法を継続しようと思います。
この後は、畝を整地し、えひめAIという発酵液を散布し、マルチで覆い、連休後には夏野菜を定植する予定です。

冬を越した畑には、例年こぼれだねで発芽するパクチーと、昨年定植したルバーブが生き残っていました。

生き残ったルバーブ
畑を見守る里山

七賢酒造

山梨の日本酒に七賢があります。
山小舎開きのため、東京から中央道を走ってきた山小舎おじさんは、その日の昼食を、山梨県白州の蕎麦屋で食べようと、須玉インターで降り下道を走りました。
北斗市白州町の甲州街道台ケ原宿にある蕎麦屋に着きましたが、先客が並んでいます。
待っている間、宿場の街並を歩いてみました。

七賢酒造の古い建物があったので中に入ってみました。

七賢酒造入り口
場内のレイアウト

一歩中に入るとひんやりした土間が続いており、売店や、歴史的な品物が展示されている座敷などが土間の両側に続いています。
土間を抜けると醸造に使う井戸水や、二次発酵用の建物、醸造所などの工場エリアが広がっています。

二次発酵室
井戸
場内

蔵に付属したモダンなショップを持つ酒蔵や、店内の一部に江戸時代からのひな人形などを展示している酒蔵など、最近の酒蔵はサービスに工夫していますが、七賢所蔵のサービスは徹底していました。
古い酒蔵が持つ歴史的優位性をたっぷり使ってデイスプレイしています。

場内を一回りし、お土産に発泡酒と甘酒を買いました。
時間があれば明治天皇関係の資料が展示されているという座敷にも上がって見たかったものです。

瓶内二次発酵・七賢スパークリング「山ノ霞」

甲州街道台ケ原宿の景観はほどほどに保存されていますが、現役で商売している建物は、七賢酒造と元祖信玄餅で有名な金精軒のほぼ2軒だけのようです。

元祖信玄餅の金精軒

小さな歴史探訪の旅でした。

令和7年 山小舎開き

4月中旬になりましたが今年も山小舎開きをしました。

4月中旬の山小舎
真っ白だった道もこの通り

自家用車にパソコンや古本、瓶詰用の空き瓶などを積み込んで、山小舎おばさん同行の元、帰ってきました。
姫木別荘地も山小舎周辺も、あれだけあった雪は跡形もなくなっていました。

春を迎えた山小舎周辺
唯一雪が残る日陰の軒下

思ったよりも温かい気候で、薪ストーブこそ焚きますが、昼間は冬用のジャンパーなど全く不要です。

山小舎おばさんとの夕食は炭火焼き

松代温泉に入り、道の駅信州新町で蕎麦を食べて、山小舎おばさんは単身帰宅してゆきました。

松代温泉の源泉
道の駅信州新町の蕎麦は今年も美味かった

9シーズン目の山小舎暮らしのスタートです。
既に4月中旬、畑作業などが目白押しですが、まずは冬の間に洗濯ができなかった来客用の寝具を洗って干します。

室内に風を通す
タオルケットなどの洗濯開始
冬野の衣料を干す

ママチャリ迷走記2025 改めての多摩川沿い

春爛漫の4月中旬。
久しぶりに多摩川の土手の上を、調布から立川までママチャリで走りました。

かつて興隆を誇った多摩川の砂利採取。唯一工場が多摩川原橋たもとに残る
鶴川街道は多摩川原橋を渡って川崎市多摩区へと続く

やや風があったものの、もはや寒くはありません。
桜も終わり春本番の気候です。

鶴川街道が渡る多摩川原橋の袂から土手のサイクリング道路に乗ります。
多摩川の河原は名も知れぬ雑草が黄色の花を咲かせています。

サイクリング道路を走り始める
右手は調布の部落といわれた地区。今ではキムチ工場、雑品会社など在日系の企業が見られる

平日のサイクリング道路は人通りも少なく、ジョギングする人、散歩する人のほかは、ロードバイクを走らせる人がたまに現れるくらいです。
このロードバイク、流行り出したころには集団で高速走行する人が多く、事故もたまに見ましたが、最近は集団走行はなくなり、やたらスピードを出す人も減ったように感じます。

府中に入った頃、巨大な排水門
かつて多摩川の行楽客目当ての売店があった場所
自転車マナーアップの幟がはためく

サイクリング道路は府中市に入り、しばらく市内を通過します。
名残の桜並木の下で人が休んでいます。
休日には人で賑わうバーベキュー場も平日はさすがに閑散としています。

葉桜の下で休む人
府中郷土の森公園近くのバーベキュー場

府中の多摩川沿いには、読売新聞、キューピーマヨネーズなど、大企業の支社や工場があります。
キューピーの工場は調布の仙川にありましたが、ここへ移転しました。

府中市内の高層マンション

京王線、JR南武線、中央自動車道などの高架下をくぐってサイクリング道路は続きます。

京王線の鉄橋。八王子方面から調布方面へ電車が走る
名所旧跡、渡し船の跡地などには案内版が建つ

しばらくは河川改修などの工事現場が続いていた多摩川ですが、だんだん本来の姿を現してきました。
たっぷりとした水量がとうとうと流れています。

パラソルの下で釣りをする人

国道20号線の日野橋近くで、サイクリング道路は途切れます。
ママチャリの馬力も途切れるころとなり、土手を下りて立川方面へと進路を替えてこの日の迷走を終えます。

サイクリング道路の終点。この先があるのか?

支那そば見聞録が移転のため閉店

つつじヶ丘駅前の見聞録が急に閉店していました。

シャッターの貼り紙を見ると、移転しますとあります。
貼り紙にはたくさんの寄せ書きがありました。
つつじヶ丘駅前の飲食店としては最古の部類らしく、30年ほどの歴史があったとのことです。

土地建物のオーナーの意向による閉店のようです。
おそらく再開発されるのでしょう、マンションに。

サラリーマン時代には飲んだ帰りに寄って、ビールと仕上げの支那そばを食べましたっけ。
いつまでもビールを飲んでいると、女将さんの視線が気になり、慌てて支那そばを注文したものです。
飲んだ後の支那そばのダシの味が忘れられない味でした.。

最後まで支那そばの値段は650円でした。
あっさりとしつつ、香り高いスープが、あまたのラーメン屋にありそうでないものでした。
その後も、山小舎から帰った時に何度も食べに行きました。

大将も女将さんもまだまだできるお歳です。
ぜひ移転先で続けてほしいものです。

彩ステーション 子供食堂

柴崎の彩ステーションでは、子ども食堂もやっています。

子ども食堂新聞が発刊されている

毎月第二水曜日に始めて2年になりました。
主催は上野原小学校のPTA会長だった40代の人。
賛同は彼の仲間を中心に、PTAの現役・OGのママさんたち。
毎月のメニューを決め、材料を調達するのも楽しみのようです。
開催後の反省会(飲み会)も。

山小舎おばさんの彩ステーションのかかわりは、場所提供や素材の入手、調理援助、おかしの提供などです。

この日の彩ステーション

この日のメニューはから揚げ丼。
20キロの鶏モモ肉を下味付けて揚げます。
タレに通してご飯の上へ。
ご飯にはでんぶや錦糸卵がかかっています。

当日昼頃にお邪魔すると、調理担当のママさんや彩サポーターが3名、下味をつけた鶏肉に粉をまぶし、また一升炊きの電気釜にお米をセットしたりしていました。

午前中から準備が始まる
午前中のキッチンでは3人のスタッフが大わらわ
午後、スタッフもそろいからあげ丼の仕上げ

毎回100~120食を用意。
子供100円、大人300円で販売し、毎回完売です。
5時から販売開始。
この日は既に販売開始を待つママさんがいました。

お弁当のほかに、お菓子などが付くのがお楽しみ。
この日はビニール袋に詰めあわされたお菓子のほか、市内の豆腐屋さんから差し入れられたおからのパック、ドーナツ屋さんから無償提供のドーナツなども配られました。

5時の開店を待つママさん
出来上がったからあげ丼が並ぶ
おまけのおからパックとおかゆパウチ

30代、40代のパパ、ママ世代のエネルギーと、それを目指して集まる同世代のママさんと子供たち。
いつもの数十倍の生命力があふれる彩ステーションでした。

お弁当を受け取るママさん、外に並ぶママさん
配るスタッフ
この日の彩ステーションのロビーには力強い絵がかかっていた

ラピュタ阿佐ヶ谷「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」より 佐久間良子を「再発見」

さて、名画座ラピュタ阿佐ヶ谷の「東映現代劇の名手・村山新治を再発見」特集もいよいよ佳境。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフ表紙

村山新治監督は「警視庁物語」シリーズが有名だが、そのほかにも三国廉太郎と組んでの諸作など、現代劇で力を発揮していた。

「警視庁物語」捜査一課の面々。神田隆主任、堀雄三刑事ほか。右端は千葉真一

なかでも佐久間良子の出演作を撮る機会が多く、今特集では初期の貴重な主演作品に接することができた。

佐久間良子

1939年東京生まれ。
57年、題4期東映ニューフェイス、同期に水木襄、山城新伍ら。
58年「美しき姉妹の物語・悶える春」でデヴュー。
早くから東映東京撮影所のホープ女優として注目される。

佐久間良子

今特集での上映作「故郷は緑なりき」はデヴュー以来50本以上の出演作を数えた時点の作品。
それまでのキャリアは3年ほどながら、京都撮影所での時代劇で千恵蔵、右太衛門の両御大とも共演し、アクション映画にも出演。
のちの愛人である鶴田浩二とも「砂漠を渡る太陽」(60年)で共演、というか出会いを果たしていた。

60年代は佐久間が大女優へのキャリアをスタートさせる時期となり、演技開眼といわれた「人生劇場飛車角」(63年 沢島忠監督)での鶴田浩二との情感あふれる濡れ場から、代表作となった「五番町夕霧楼」(63年 田坂具隆監督)、「越後つついし親不知」(64年 今井正監督)など水上勉の描く薄幸な女性像に挑戦するなど、東映の看板女優として活躍、作品の高評価と合わせ各女優賞を受賞した。

「人生劇場 飛車角」
「五番町夕霧楼」のセットで、原作者の水上勉と
「越後つついし親不知」

60年代中盤からは映画を離れ、舞台・テレビで活躍。
1983年には「細雪」(市川崑監督)の次女役で久々に銀幕へ復活。
2012年には日経新聞の「私の履歴書」に自伝を連載した。

「故郷は緑なりき」  1961年  村山新治監督   ニュー東映

佐久間良子23歳になる年の作品。
自身で映画化を望んだというから、そろそろ東映も佐久間主演の作品をと考えていた頃なのだろう。

モノクロで地方ロケそれも北陸、スターの出演も少なく低予算、監督は東京撮影所の警視庁物語でデヴューした職人派。
いつでも「撤退」できる態勢での制作だった。
配給が2年もたずに解消した東映の第二配給網・ニュー東映上映館への提供作品だったというのもこの作品の背景を表している。

オリジナルポスター

原作は思春期小説で有名な宮島武夫、脚本は木下恵介の妹の楠田芳子。
設定は昭和25年前後の新潟柏崎と長岡。

ヒロインに電報で呼ばれ、列車で東京から長岡に帰る主人公(水木襄)の回想シーンから物語が始まる。

当時の柏崎と長岡のロケによる駅や街の様子が貴重だ。
ロケ当時の1961年は、舞台設定の1950年とそう大きくは変わっていないであろう柏崎のローカルな駅の風景と、人の気配で賑わっている長岡駅前。
昭和の時代は、戦後のどさくさと貧しさが地方には残る一方、中核都市は人で賑わい、個人商店が軒を連ねていた時代だった。
列車の乗客も多かった。

毎朝同じ列車で見かける高校生同士(旧学制だから中学生と女学校か?)。
混んだ列車のデッキに迎え入れてから仲良くなり、毎日同じ列車で帰るようになる。
美人だが友人のいない長岡在住の少女と柏崎のあばら家に住む親を失った少年。
二人はお互いの家を行き来し、写真を交換するようになる。
少女に横恋慕する不良学生がいたり、そもそも当時の校則は男女交際を禁止していたり・・・。

「故郷は緑なりき」撮影風景

佐久間良子のセーラー服姿にまずはノックアウトだ。
駅にたたずみ、土手を歩き、草原に座る。
夏は浴衣姿で少年の家に現れたりする。
佐久間の顔はこのころから、後年まで変わっていない!
もちろん年齢相当に若いが、すでに女優として完成している。
可憐なセーラー服姿から、終盤の恋に悩み、決然とし、妖艶でもある表情まで、一人の少女の芽生えと惑いと成長を表現している。

ひょっとしてこの少女の存在は幻ではないか?
「雨月物語」に出てくる姫のように、男を惑わす魔性なのではないか?
あるいは少年の思春が作り出した幻想なのかもしれない?
そう思う程、はかなく幻の存在。
次々に少年の前に現れては彼を惑わす。
そういえば、長岡の少女の実家へ少年が訪問するシーンでは、少女の実家の実感のなさが印象的だった。
父親は留守だといって現れないし。
この場面は「雨月物語」の魔性の姫が、荒涼とした草原を屋敷だとだまして男を幻惑し虜にするあの場面に相対したものか?

そうでないのは少女の姉(大川恵子)が茶菓でもてなし、その彼女の存在が、美人ではあるが、極めて実存的に描かれていることでもわかる。
作品はファンタジーではなかったのだ。
佐久間良子の姿が観客にとっての「ファンタジー」ということなのだ。
主人公の姉のキャステイング、東映京都撮影所の三人娘・大川恵子が特に呼ばれての出演だが、この物語の少女の姉役として、浮世離れした美人ぶりが適役だった。

大川恵子

佐久間良子の一途で恋に悩む表情。
幼いラブシーンで醸し出す情感。
それらはすでに彼女がこの後すぐに「人生劇場飛車角」「五番町夕霧楼」などでブレークする準備が整っていたことを示していた。

オリジナルポスター
ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「草の実」  1962年   村山新治監督   ニュー東映

戦後の小豆島が舞台、家同士の確執と溝の深さがテーマ。
壷井栄の原作を「故郷は緑なりき」の脚本楠田芳子と監督村山新治が、佐久間良子、水木襄のコンビで映画化。
単に悲恋メロドラマにしなかったのは、原作の重みなのか、脚本家と監督の真面目さなのか。
ある意味衝撃的なラストでした。

オリジナルポスター

親戚筋だという隣り合った二つの家、母屋と新屋。
母屋の主婦は教師として働く杉村春子。
新屋の祖母は気丈な浪花千栄子。
この二人が両家の確執の象徴を演じる。

実情は一人息子の水木襄に甘甘で、縁談に一生懸命な杉村だったり、孫娘(佐久間良子)に愛情を注ぐしっかり者の浪花なのだが、お互いのこととなると決して相いれない溝がある。

一方で両家の息子と娘は、好意を持ち、将来の約束をしている。
二人の代で対立を解消しようと思っている。

プレスシート

お互いの家族や村の目を気にしながらのデート。
それでも絶対に交際を許さないお互いの家族。
水木の縁談が進められていると知って島を出る佐久間が乗ったフェリーに水木が乗ってきて、一晩、改めて互いの気持ちを確認する。
しかし本人たちの気持ちを無視して進められる縁談。
味方と思っていた、水木の父親(宮口精二)や佐久間の父親(神田隆)までがいざというと、家同士の縁談に賛同したり、お互いをあきらめるように諭す・・・。

映画は両家の根深い日常的な対立の様子を丁寧に描写する。
水くみの仕方や、表面上の挨拶に隠れた互いの陰口など。
大学卒業間近の一人息子に対する杉村春子の執着と佐久間への拒絶ぶりが、杉村一流の演技で活写される。

一見母屋に対しては遠慮する浪花千栄子も、杉村のかたくなな拒絶の姿勢に、それ以上のかたくなさで対抗する。
この二人の直接対決の場面は後半に訪れる。

両家の確執は単に感情的なもつれだけではない。
母屋の主(宮口)と新屋の亡くなった叔母が毎晩忍び合うほどの中だったが、宮口の婚礼の当日に、宮口の子を身ごもった叔母が井戸に投身自殺した経緯があったのだった。
それを知って動揺する水木と佐久間だが、将来の決心は揺るがない。
母屋では水木の結納が、杉村と、「寝返った」宮口によってにこやかに行われていた。

さて映画の結末は?

オリジナルポスター

自殺した叔母さんがそうだったように、運命に導かれるように、母屋の石垣をよじ登って水木の部屋へ忍び入る佐久間。
それを抱きかかえる水木。
これがラストシーンだった。

結論は描かれない。
駆け落ちしたのかもしれないし、「家」から逃れられない己の運命を受け入れたのかもしれない。

この時代の日本人は圧倒的に後者の道を選んだことでもあろう。
それがその人の幸せとなったかは別問題だが。

敢えてハッピーエンドとしなかった製作陣にはあっぱれと言いたい。
乱造時代のニュー東映作品とはいえ、会社期待のヒロイン佐久間良子の主演作である。
会社のトップから文句は出なかったのか?

昭和の時代まであった家同士の確執、その背後にあるどろどろとした怨念の様なもの。
映画はきれいごとではないそれらを描こうとしていた。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

佐久間良子は実年齢23歳になる年の作品。
私服姿はすでに若妻のように重みがあり、役年齢18~19の初々しさはなかった。
演技面では、新時代(戦後)の女性らしさを出そうと、デートシーンでは水木とじゃれ合ったり、活発な女性像を表現しようとしていたが、彼女が輝くのは逆境に悲しむ女性像を演じたときなのだった。

翌年の63年には彼女の代表作「人生劇場 飛車角」と「五番町夕霧楼」が生まれることとなる。

「肉体の盛装」 1964年  村山新治監督  東映

作品の宣伝文句は『「五番町夕霧楼」「越後つついし親不知」に続き佐久間良子が三度「女」を演じる』。

愛人・鶴田浩二との濡れ場で演技開眼し、水上文学の主人公を体現するかのような存在感で自身の代表作とした佐久間良子が、名作「偽れる盛装」(1951年 吉村公三郎監督)のリメークに挑んだ。
カラーで撮られ、2本立てのメイン作品として封切られた(併映は渡辺祐介監督、緑魔子主演のモノクロ作品「牝」)。

オリジナルポスター

会社から「村山と佐久間で1本撮れ。」と言われ、「偽れる盛装」の脚本を渡された村山監督。
京都にも宮川町にも全く縁がなく、脚本を書いた新藤兼人や監督の吉村を訪ねた。
新藤は「京都なんて昔から変わらない」と答えたという。

撮影に京都撮影所の坪井誠を呼び、衣装や踊りには京都から専門家を呼んで臨み、『京都らしさ』の演出は彼らに任せて撮影に臨んだ。

当時の新聞広告

一見華やかな京都の芸者とお座敷の世界。
その実、芸者の犠牲によって成り立つ世界。
狭い世界にいつまでも尾を引く嫉妬。
水商売同士で『格式』を争うみみっちさ。
無理して見得を張った男どもの末路。
その中で、自らの美貌を前面に体を張って男からむしり取る芸者君蝶を佐久間が演じる。

君蝶が生まれついたのは京都宮川町の「お茶屋」(芸者を抱えた店は『置屋』というが、ここでは酒を提供していたから『置屋』ではなく『お茶屋』なのか?)。
母親(丹阿弥谷津子)は舞妓時代に大店の旦那に身請けされた売れっ子だったが、その恩を忘れず、大店が左前になったときに「お茶屋」を抵当に入れて大店の二代目に金を援助するような人。
そんな母親に苛立ちつつ、一方で、妹(藤純子)を市役所に務めさせ、自ら水商売の前面に立つ君蝶。

プレスシートより

和服姿が映える佐久間良子のこれは当たり役の一つ。
若いころのセーラー服、水上文学での長襦袢姿もよかったが。

「偽れる盛装」の京マチ子の、丁々発止の怒鳴りつけるようなセリフの掛け合いはできないが、独特の間があり、それが佐久間良子独特の凄味をじわじわ滲みださせる。
何より美形だ。
すべてが終わった時の、放心したような諦観したような表情もいい。
佐久間良子の「偽れる盛装」として、この作品は成り立っている。

京の都の一見華やかで権勢と金力が飛び交う舞台でありながら、一方の立役者の女達の存在基盤の危うさ、それが崩れたときの悲惨さ。
つまりは京都の宮川町の女たちは実のところ人権もない社会の底辺の住人なのだ。

「警視庁物語」シリーズなどでは、スラム街や水上生活者などの描写を通して社会の底辺を描いてきた村山監督だが、本作では直接的な描写はない。
一見華やかなお座敷や舞台の描写に徹しているが、だんだんそれらのケバケバしさが影を持つように見えてくる。

プレスシートより

宮川町に取材して書き上げたというオリジナルの新藤脚本は、水商売の世界のリアルさの表現として、君蝶や妹に「泥水をすする商売」「こんな商売やめて暮らしましょう」などと言わせてもいる。
案外は中の人のこれが本音なのだろう。

君蝶の母のエピソードで、彼女が援助したかつての旦那に店を訪れ、死んだ旦那の本妻に挨拶する場面がある。
床に伏した老女となった本妻(村瀬幸子)が起き上がり、「(かつて)妾呼ばわりして悪かった」と言いい、母は過去の恩讐を忘れて受け入れる。
名女優村瀬幸子のワンシーンのみの出演だったが、互いの真心が描かれる。
泥水の中にも花が咲くこともあるのだ。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

『どうしょうもない』京都の古い世界で、ドライに徹して男から収奪し続ける君蝶は、ある意味古い社会構造への反逆者だった。
君蝶の度を過ぎた男たちからの収奪に、かつての太客たちは零落してゆく。
自業自得とはいえ、血迷ったかつての太客に逆上され、華やかな踊りの衣装のまま刺される君蝶。
刺されなくてもいずれ衰弱死したであろう芸者の末路。

ラストシーンはお茶屋同士の確執を振り切って、藤純子と江原真二郎の若いカップルが東京へと駆け落ちしてゆく。君蝶が逃げ場を絶たれた遮断機が開いた踏切を渡って。

残された京都は「変わってなんかいない」(新藤兼人)まま続いてゆくのだろうが。

近所の桜散歩

4月初旬は真冬のような寒さでした。
待望の晴れ間となった日に近所を回って満開に近い桜を見てきました。

まずは自宅の裏手の通称・国有地へ。
出かけるときに通る場所でもあります。
ここでは毎年見事な桜が咲きます。
グランドからは蓮休みの子供たちの声が聞こえます。

「国有地」脇の桜
右手のグラウンドからは子供たちの歓声が聞こえる

続いて神代中学校の脇を通ってみます。
うちの子供たち三人が通った中学です。
最近は温暖化なのか、入学式の時期には散っていることが多かった桜ですが、今年は間に合いそうです。

神代中学構内のボタン桜
校庭脇の桜並木

国分寺崖線の坂を下ると野川周辺です。
野川沿いには桜が植えられており、毎年の花見ポイントになります。

野川の遊歩道を歩く人。菜の花が咲いている

この日は久しぶりの晴天で、散歩の人も多く見られました。

河川敷で遊ぶ姿は野川らしい

バーベキューなどの人出で埋まる、武蔵野市場近くの河川敷へ行ってみました。
平日のせいか、バーベキューをするグループは一組ほど。
ファミリーやママ友グループが三々五々シートを広げていました。

武蔵野市場付近の河川敷で花見をする人たち。雪柳も満開

今年も無事に花見の季節を迎えられました。