DVD名画劇場 追悼・イタリアの名花 クラウデイア・カルデイナーレ

クラウデイア・カルデイナーレ

1938年、チェニジア生まれ。
両親はギリシャ出身のイタリア人だという。

地元の美人コンテストを経て映画界入り。
美人コンテスト出身のイタリア女優には、シルバーナ・マンガーノ、ルチア・ボゼー、ソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジーダなどそうそうたるメンバーがいる。

「山猫」(1963年 ルキノ・ヴィスコンテイ監督)では貴族の令嬢役

58年に映画デヴュー。
60年代に入ってからは、「鞄を持った女」(61年 ヴァレリオ・ズルニーニ監督)、「ブーベの恋人」(63年 ルイジ・コメンチーニ監督)などの主演作品で人気を博し、63年には「山猫」、「8・1/2」とヴェスコンテイ、フェリーニの両巨匠作品に抜擢されて大女優への道を歩んだ。
「ピンクの豹」(63年 ブレイク・エドワーズ監督)以来ハリウッドにも進出した。

「山猫」はフェリーニの「8・1/2」と掛け持ちでの出演だったという。アラン・ドロンと。

筆者が見たカルデイナーレ出演作品は「若者のすべて」(60年 ルキノ・ヴイスコンテイ監督)、「大盗賊」(61年 フィリップ・ド・ブロカ監督)、「熊座の淡き星影」(65年 ヴィスコンテイ監督)、「ラ・スクムーン」(72年 ジョゼ・ジョヴァンニ監督)、「フィツカラルド」(82年 ヴェルナー・ヘルツォーク監督)と少ない。

が、カルデイナーレというイタリア人女優の、若い時の初々しく、土臭く、気が強そうな表情と、庶民的で人懐っこい笑顔は強く印象に残っている。

「リオの男」「カトマンズの男」などの名コンビ、ド・ブロカ監督とベルモンドが再び組んだフランス製時代劇「大盗賊」では、ベルモンド扮する義賊を助け、彼に殉ずる活発で心優しいヒロインを演じていた。
こういう女性が身近にいたら男としては身を捨てて張り切るだろうし、この上なく勇気づけられるだろうと思わせるヒロイン像だった。

姉弟間の狂おしい愛情を基調とする、舞台劇のような「熊座の淡き星影」は、場面も少なく、ひたすら暗い画面でセリフのやり取りが続いていたが、一方で、カルデイナーレの頼もしい肉感性がもう一つのテーマであった。

70年代以降の作品では、札幌狸小路の1本立て洋画二番館・ニコー劇場で見た「ラ・スクムーン」がある。
フランスの人間国宝・ベルモンド主演の一ひねりしたギャング映画だったが、カルデイナーレが出てくると圧倒的な色気と貫禄が画面を制していた
洋画雑誌のグラビアで彼女のピンナップや過去の代表作のスチールに接するしかなかった世代の筆者にとって、年を経たとはいえ、その女優さんとリアルタイムのスクリーンで対面したことの歓びを感じた記憶がある。

「映画の友」1964年12月号の巻頭グラビアより。ハリウッド作品「プロフェッショナル」(66年)の撮影後
「キネマ旬報」1966年10月号増刊の表紙より。「大盗賊」(61年)撮影当時のもの

彼女の追悼として手許にあるDVD2作品を見た。

「暗殺指令」  1960年  エンツイオ・プロヴェンツアーレ監督  イタリア

イタリアのLUX FILMという製作会社の製作・配給、プロデユーサーはのちにカルデイナーレと結婚するフランコ・クリスタルデイ。
カルデイナーレがスターダムに登る前の初期作品で、その初々しくぎこちない演技の、後の大女優の若きを姿を見ることができる。

監督は、社会派フランチェスコ・ロージ作品の脚本メンバーだというが、監督作品はこの1本だけらしい。
シチリアを舞台にし、マフィアに実権を握られたかの地の後進性を、それに反抗した挙句葬られてゆく若い恋人たちを通して描くこの作品。
シチリアを舞台に、戦後イタリア社会の貧困を描くことの多かった、イタリアンネオレアリスモ及びその流れをくむ作品群と共通するところが多い。

「映画の友」1961年4月号に掲載の本作広告より。上半分は「ローマで夜だった」の広告の一部

舞台はシチリア島の寒村。
主人公は兵役から帰った失業若者。
設定は撮影当時の1960年のようだから、大戦時の帰還兵が役柄だった「オリーブの下に平和はない」や「にがい米」のラフ・バローネのように汗じみた着た切りスズメ、髭ボーボーの風体ではない。
本作の帰還兵アントニオ(レナード・カステラーニ)は、やや現代風にこざっぱりしている。
のちに出てくるシチリア島最大の町パレルモは若者がおしゃれして闊歩するほどに賑わっている復興の時代。
同じく敗戦国の日本が、1961年の厚生白書で『もはや戦後ではない』と晴れやかに?宣言し、復興と高度成長期の活気を見せていたかのように。

一方、シチリア島の深部、塩田を主産業とする海辺の寒村の領主はいまだに伯爵一家。
妻を自殺で失った訳ありありの伯爵一家の妹娘グラツイア(クラウデイア・カルデイナーレ)が心を閉じて暮らしている。
グラツイアは、後にアントニオとともに因習まみれる故郷を脱出し、つかの間の青春を謳歌しながらも悲恋の定めに沈んでゆくヒロインとなる。

妹グラツイアの日記を読んで嫉妬する姉

封建的な父親の侯爵、過去を引きずり自由を目指す妹に冷たく復讐する姉。
閉ざされた家庭から自由を求めて船出するグラツイア。
一方、父の代からのしがらみでマフィアの暗殺命令を拒めず、塩田の村で侯爵の暗殺を試みるが果たせず、その後はマフィアの追跡から逃れて、パレルモからイタリア本土へと流れるアントニオ。
二人が脱出の小舟の上で邂逅する。

若い二人の逃避行。
ローカル列車の座席でまどろむグラツイア。
トランクを下げバス停から駅へとシチリアの田舎の草原をさ迷う。
パレルモの駅で心細そうなグラツイアと、その日の本土行きの船をあきらめて彼女のトランクをもって同行するアントニオ。

貧しい庶民出身の、しかし心に太陽のような情熱を秘め、愛する男に尽くすイタリアの若い女の純情、が当たり役となってゆく頃のクラウデイア・カルデイナーレの、初々しい姿が絶品だ。
やはり彼女は貴族より庶民が似合う。

パレルモについた二人のつかの間の幸せ

二人のパレルモの町でのデートシーンが好ましくて涙が出る。
しかしこの喜びも長くは続かない。
追跡するマフィアと逃げるアントニオ、取り残されるグラツイアのすれ違いが、もどかしくも巧みな脚本で描かれる。

アントニオは有力者の名付け親に助けを求めるが取り合ってもらえない。
かえってマフィアに通告される。
グラツイアは貴族の従弟と、その使用人からマフィアに向けての情報が筒抜けだ。
マフィアはシチリアの村民を制圧しているだけっではなく、有力者や支配階級とも持ちつ持たれつの利権関係を結んでいるのだった。

アントニオはホテルの部屋で偽りの告白をして彼女にもとを去る

単にマフィアの支配と田舎の封建性だけを描くのではなく、マフィアと切っては切れない支配階級の腐敗も盛り込んで、シチリアのイタリアの問題に切り込んだ作品。

何よりもクラウデイア・カルデイナーレの初期の出演作として、後の彼女の役柄となった、純情で、貧しくも、しっかりした、太陽のようなヒロイン像の原型がここに見られた。

「ブーベの恋人」  1963年  ルイジ・コメンチーニ監督  イタリア

LUX FILM製作、プロデユーサーはフランコ・クリスタルデイと「暗殺指令」と同じ布陣。
クレジットのトップにパラマウントのロゴが出てくるのは、世界配給を同社が行うのだろう。
資本も入っていると思われる、キャスト等の意向も。
ジョージ・チャキリスの起用はパラマウントによるものだと思われる。
出来上がりはシッカリとイタリア映画だった。

カルデイナーレとチャキリス

1944年、アメリカ軍が進駐してくる。
大歓迎する村の娘たち。カルデイナーレ扮するマーラもその一人。
父はパルチザンのシンパ。
兄の死を伝えに来たパルチザンの同志ブーベ(チャキリス)。
マーラはブーベを一目見て恋に落ちる。

アメリカ軍がイタリア本土に上陸したとはいえ、国内はドイツ軍が支援するファシスト派と抵抗するパルチザンが内戦状態のイタリア。
教会はドイツ・ファシストに組みし、パルチザンは国内の警察組織にも追われている。
分裂状態の民衆は、ある時はファシストに組した司祭をリンチ寸前にまで追いつめるし、また息子をゲリラ戦で亡くした母親はパルチザンに拒否感を示す。
ドイツや日本と違い、戦争中でも国内が一致団結せず、対抗勢力同士が武力で衝突するイタリア。
民衆レベルでもそれぞれが四分五裂しており、映画はその現実をさりげなく描き込む。

二人は村のカフェでデートする

マーラが待ちくたびれた頃、ブーベが村にやってくる。
ブーベのズボンのほつれを縫うマーラ。
パラシュートの生地を持ってくるブーベ。
マーラはその上等な絹の生地でワンピースを縫う。
戦時中の貧しい恋人たちの逢瀬。
実年齢25歳になるカルデイナーレにマーラの役がよく似合う。

飲み屋で憲兵親子とけんかになり、仲間が射殺された後、憲兵親子を殺害し、追われるブーベ。
パルチザン組織に匿われ、マーラとの逃避生活を過ごす。
突然、別の場所に移動が決まり、車で去ってゆくブーベに追いすがり、かろうじて別れのキスをするマーラ。

ここら辺の不安定だが、初々しくもみずみずしい二人の関係と、突然の分かれのドラマチックな演出は、コメンチーニ監督はうまい。
社会派そのものではなく、社会的良心を背景にした作風の職人監督、としての面目躍如だ。
パラマウントが出資し、口を出してくる、いわば合作映画をこれだけまとめ上げるのだから上出来だ。

カフェでの二人。行き違いの気配が

別れた後の二人は、留置所でのブーベとの面会、裁判での証言で顔を合わせるだけの年月が過ぎてゆく。
この間、町で働き、まじめな男・ステファノのアプローチに対し受け入れ寸前まで行く。
マーラとて生身の女なのだ。
その時の正直な気持ちは新しい愛情を受けれることなのだ。

公開当時のパンフレット

こういった気持ちの動きをしつこく、重厚に描くのがイタリア映画流。
「ひまわり」(70年 ヴィトリオ・デ・シーカ監督)でのソフィア・ローレン演じる主人公もそうだった。

よろめくマーラ。
裁判でも気の利いた証言はできない。

懲役14年の判決があった7年後、駅には27歳になったマーラの姿があった。
ステファノが偶然見かける。
マーラはブーベのもとに月2回、列車に乗って面会に行くのだった。
『7年後は34歳、まだ子供も産める。これまでの7年間はあっという間だった』と、ステファノに告げながら。

これこそイタリアの女性。
軽そうに見えながら(イタリアの男はそうだろうが)、信じるものには一直線、容易には見放さない、土着的で目端は効かないが。

すでに映画にも慣れ、自らの主演を楽しそうに、自由に演じるカルデイナーレの姿が見られる。
チャキリスは演技ができないので役不足だが、戦時中の青年の貧しさは出せたと思う。

戦争中のイタリア社会、庶民の断絶とぬぐいきれない傷跡を背景に、当時の若者たちの一途な恋の変遷を描いた作品。
基調にはどっかりとイタリア女性の逞しさが横たわっている。

煙突掃除でDIY!

今年やっと煙突掃除をしました。

毎年春頃に行っている煙突掃除。
薪ストーブを炊いている住まいに住むものとして、煙突を設けている住まいに住むものとして、定期的に行わなければならない仕事です。

屋根にかかる垂直煙突
煙突の室内を通る平行部分

古い道産子として、昭和の時代の冬の北海道で過ごしてきた山小舎おじさんは、小学生の頃の石炭ストーブだった自宅では、ストーブを焚く冬の間は毎月一回、父親が煙突掃除をしていたのを思い出します。
晴れた日曜日などに、火を焚く前の煙突を外し、外に出てブラシで煙突の内部をこすってススを出していました。
そのあとはストーブの吸い込みがよくなったものでした。

あの時代の北海道の冬はまた、低く垂れこめた大気にススの匂いが、漂っていたのを思い出します。
長く積もった雪の表面にススが黒く積もっていたことも。
そしてその匂いが1982年冬のポーランド南部の地方都市・カトビツエの空気を吸って思い出したことも。

さて、なんやかんやで引き延ばしていた煙突掃除。
10月の晴れ間、時間と気持ちに余裕のある午前中にやっと始めました。

毎年行っている作業ですが、屋根に上がること、ススがどさっと出てその処理に準備が必要なことに気を付けて作業開始です。
まず、屋根に上がって煙突の垂直な部分の底を塞いでいるポケットを開けます。
ポケットの内側にどっさりついた、濡れたススに驚きます。
水気さえ滴っています。
これだけ生木を燃やしていたということです。

垂直ポケットを開けるとススがどさっと落ちる

水平部分を塞ぐポケットは2階の室内から外します。
ここからブラシを入れて往復すると、ススが屋根の上と、ストーブの内部に落とされます。
これをバケツに受けます。

並行ポケットからブラシを通す

ススの入ったバケツと、2枚のポケットをもって外に出ます。
乾いたススを捨てるとともに、ポケットについた濡れたススをホースで洗い流します。

ついでに屋根にぶちまけられたススと灰を下からホースで洗い流します。

ポケットを2枚煙突に取り付け直します。
ストーブ内部に落ちたススをスコップで掻きだしバケツに入れて捨てます。
完了です。

掃除終了
ストーブの吸い込みがよくなった

10月に入って夏が終わったどころか、雨の日などは長袖を着て、ストーブを焚かなければ寒い日がある山小舎です。

この日はぽかぽかの日差しの中、ゆっくりと作業ができました。
しばらくはストーブの吸い込みがいいでしょう。

モミの木オイルとネパールカレー

長野日報に載っていた『地元産モミの木から作った精油』を求めて、出荷先の諏訪大社本宮東参道のカフェを訪れたけれど、発売開始が翌日からだったり、再度訪問の際にはカフェが定休日だったりの話は、本ブログでお伝えした通りです。

10月に入ったばかりの金曜日に、気になっていたモミの木精油を追い求め、改めてカフェを訪れました。
カフェは開店していました。

本宮東参道のカフェ

店には若いマスターが一人、愛想のよかったママさんは不在、客はいません。
マスターに確認すると、モミ精油は販売されていました。

モミの木を蒸留したエッセンシャルオイルとそのオイルを水で割ったウオーターの2種類が主な製品です。
値段はスプレー瓶が2000円、ミニボトルが600円。
それぞれテイステイングができます。
手首にスプレーして匂いを嗅ぐと、鮮烈な木の香りが頭の底まで響きます。
精気漂う深山の森に連れていかれたようです。

オイルとディフューザー(オイルを数滴たらして部屋につるすなどの道具)のセットを購入しました。
都会で暮らす山小舎おばさんへのプレゼントです。

モミの木エッセンシャルとディフューザーのセット、1200円

店内には県内のニッチな産物がプレゼンされています。
竹炭があったり、アカマツのエッセンシャルがあったり、黒曜石やコケをレイアウトした置物なども。
それぞれ、生産者がいたりデザイナーがいるとのことでした。
山小舎には黒曜石はたっぷりあるので、空気の浄化用?に竹炭を一袋求めてみました。

モミの木精油製品

併せて諏訪大社の歴史を学べることもこのカフェのテーマの一つ。
関連本がずらりと並び、大社の古地図の複製が展示されたりしています。

マスターと大社について雑談しつつ、コーヒーを頼みました。
小型の焙煎用具で炒って淹れる『本日のおすすめ』コーヒーは飲みやすく飽きの来ない味でした。

カフェで一服

マスターに神長官守矢家のことを聞きました。
『当代の守矢早苗さん(独身)がなくなると断絶だね』というと『跡継ぎがいるそうですよ』とのこと。
適格者がいれば養子をとって歴史をつないできた神職の家系にはそういう手があったのですね。
ただミシャクジを下ろす呪文(口伝)については、現当主の祖父の代を最後に、伝承が途切れているそうです。

カフェ内部
カフェにはいろいろな情報のパネルが

マスターに昼食のおすすめ店と、立寄り湯の情報を聞きました。
美味しいカレー屋が近くにあるというので寄ってみました。

東参道から大社方面へ歩き右折、表参道と並行して進む道沿いの民家が目指すネパールカレー店でした。
民家に似つかわしくない旗がひらめいています。
恐る恐る入ると玄関は古民家風です。
靴を脱いで上がる店内は畳敷きの部屋にテーブルが10席ほど、すでに数組が飲食中です。
チャイを頼んで読書をする若者もいます。

民家を再利用したネパールカレー店
入口
築100年の玄関内部

オーナーらしき女性がオーダーを取りに来ました。
チキンダルバードを頼みます。
チキンカレー、インデイアカ米、ダルスープ、ヨーグルトに副菜が数種類付いた定食です。
ご飯とダルスープはお替り自由とのこと。

チキンダルバート1300円
店内にはネパールグッズも

店内にはネパール人の男女も数名働いていました。
カレーとダルスープは上等。
インデイアカ米はやや硬い炊きあがりに感じました。
一度お替りして満腹、満足しました。
立寄り湯には寄らずに買い物して帰りました。

(おまけ) ネパールでのカレーの思い出など

1981年の4月から5月にかけて1か月ほどネパールにいたことがあります。
カトマンズでは地元の定食屋に出入りしました。

ネパールには、チベット料理の流れを汲む麺やギョーザ(モモ)、水牛料理などもありますが、一般的に食べられるのはダルバードと呼ばれるカレー定食です。
これはインドとも共通します。
人々はこれを右手の指で上手に食べます。
外人客にはスプーンを出してくれます。

給仕はカンチャと呼ばれる少年が行っており、呼ぶとごはんやカレーのお替りをよそってくれます。
客は食べたいだけお替りし、いらなくなると途中でも(ご飯などが残っていても)食べるのをやめて立ち上がります。

カレーの具はチキンが多かったように記憶しますが、日本で食べるネパールカレーのように肉がゴロゴロ入ったカレーは(ホテルのレストランでもなければ)出てきません。
屋台でマトンカレーを頼んだことがありましたが、骨とそこにへばり付いたスジが入っていました。
また、庶民的食堂や屋台では、具が一種類だけのことが多く、玉ねぎだけ、ジャガイモだけのカレーが一般的で、肉のダシが効いたコクのある味のカレーは食べたことがありませんでした。

定食屋でトイレに行くと、隣でカンチャが人懐っこい笑顔で食器を洗っていました。
インド、ネパールでは、生まれながらに井戸水で鍛えられた昭和の日本人でも、あっという間に腹が下ったのでした。

ある時、カトマンズ近くのバス停脇の屋台でドーナツ状の揚げパンを食べていました。
視線を感じるので振り向くと、祖母らしき老婦人に連れそった少年が半分口を開けて恨めしそうにこちらを見ています。
少年は、屋台のテーブル席を独占して賑やかにふるまう白人グループのお大尽ぶりには眼もくれず、ぼそぼそと揚げパン1個をほおばる日本人の口元のみをひもじそうに見ています
思わず揚げパンをほおばる日本人の口も半開きのままで停止しました。

しかしながらここで少年と揚げパンを共有した(少年に揚げパンを恵んだとして)、その後の展開はインド、ネパールを旅してきた日本人にとって容易に想像がつきます。
同伴の老婆(のみならず周りの人も)が、わたしにもくれと要求してくるのです。
ただ間近でこちらを眺める少年の無心な目には、擦れてきた旅人も負けました。

揚げパンの食べかけの部分を手折ると残りを少年に贈呈し、その後に起こるであろう事態に対処するため、急いで立ち上がって逃げるように移動しました。
その刹那、テキもさる者、私にもくれと唇に指を当てて迫る老婆の姿が目の隅にありました。

DVD名画劇場 特集「妄執、異形の人々」 (第3集) ”サイコパス”ロバート・ミッチャム

ロバート・ミッチャム

この俳優は1940年代以降のハリウッド映画のタフガイとして活躍した。
「天使の顔」(1952年 オットー・プレミンジャー監督)では救急隊員役として、ヒロインであるジーン・シモンズの相手役だった。

50年代に入って、役柄を広げたのか、適役を演じることのなったのか、「狩人の夜」(1955年)と「恐怖の岬」(1961年)の2本の映画に出演した。
どちらもタフガイというヒーローではなく、敵役である。
これらの作品でミッチャムは、定型の悪役ではなく、怪演技ともいうべきサイコパスぶりを披露し、彼本来の資質を開花させるとともに、映画史に残る悪役のひとつの型を作った。

ロバート・ミッチャム

「狩人の夜」   1955年  チャールズ・ロートン監督   ユナイト

映画史に残るカルト作品。
この作品の功績は、原作を発掘し、製作にこぎつけた製作者のポール・グレゴリーと監督のチャールズ・ロートンに第一義的には譲るものの、独特の世界観を作品にもたらした撮影のスタンリー・コルテスとともに、配役のロバート・ミッチャムのサイコパスな演技に負うところが多い。

オリジナルポスターにはミッチャムにすがるネグリジェ姿のシェリー・ウインタースが

大恐慌下の30年代のウエストバージニア州の田舎町。
銀行強盗の末に息子に1万ドルの隠し場所を託して刑死した父親(若き日の「スパイ大作戦」、ピーター・グレイブス)。
獄中でこの話を知り、牧師に身を偽って残された家族に接近するパウエル(ロバート・ミッチャム)。
未亡人(薄幸の女性役が似合っていた頃のシェリー・ウインタース)と偽りの結婚をし、幼い兄妹から金の隠し場所を聞き出そうとする。

物を盗んだり、人を殺すことを何とも思わないパウエルは、ストリップ小屋での観劇中に自動車盗難で警察に捕まる境遇がよく似合う。
左手の指の甲にHATE、右手にLOVEと入れ墨をしており、これだけでも十分サイコ野郎なのに、その手を絡ませて善悪の戦いと善の勝利を田舎の善民に説き喝采を受けるその牧師姿は、単なる悪の具現化を超越した怪物性を際立たせる。
これ以上ない悪であり、俗物であり、サイコパスなのだ。
ロバート・ミッチャムの個性とパウエルの怪物性が融合し、この先の悪夢をもたらす。

カルト映画史に燦然と輝くサイコヒーロー、パウエル

パウエルの正体を見破り殺された未亡人(ご丁寧に、湖底に自動車とともに沈んだシェリー・ウインタースを映画は美しいもののように丁寧に描写する)。
いろいよ金のありかを巡って虐待を繰り返すパウエルから逃れ、母を殺された兄妹は小舟に乗って川を下る。
兄の方は最初からパウエルを信用していない。
農夫を殺し馬を奪ったパウエルは、彼のテーマソングである讃美歌を歌いながら、兄妹を追跡する。

作品に、寓話性と十分な悪夢をもたらすカメラが川を行く兄妹を捉える。
プラネタリウムのように不自然に光る夜の星と三日月。
明らかに太めのひもで作ったクモの巣。
不自然にカメラの前に置かれたカエル、ウサギの背景に兄妹の船が流れる。

川に沿った土手を白馬にまたがってゆくパウエルはシルエットで捉えられる。
この悪夢に彩られた童話のワンシーンのようなカットが作品の一つのハイライトでもある。

そういえばこの男、獄中での登場シーンは二段ベッドからさかさまに現れたし、兄弟の家へ現れる際はシルエットでの登場だった。
ショック効果というよりは、この男の異常性を表現してのものであろう。

疲れ果てた兄妹がたどりついたのは、孤児3人を育てる老婦人(リリアン・ギッシュ)のもと。
農場の生産物を孤児とともに売って自立する老婦人。
この御仁もキリスト教信者。
孤児たちに愛を注ぐが、家を出て帰らない実の息子には未練を持っている、生身の人間でもある。
彼女は現れたパウエルの偽牧師ぶりを見破り、その異常性に対しては銃をもって対抗する。

パウエルの襲来に毅然と銃を構えるリリアン・ギッシュの雄姿

孤児のうち最年長の娘がパウエルに雑誌とアイスで誘惑される。
これを知った老婦人は娘をかき抱き悪人に誘惑される愚を説く。

このシーンのリリアン・ギッシュの存在感に圧倒される。
これがサイレント時代にグリフィス作品でヒロインを務めてきた大女優の力量なのか。
テクニカルな面の目立つこの作品のカメラも、固定したフルサイズの長回しでギッシュの演技に敬意をしめす。
作品のテーマの一つでもある、ロバート・ミッチャムとの「善悪対決」でも勝負前から決着がついたかのようだ。

ギッシュはパウエルに利用された年長の娘を諄々と諭す

一度追い返されたパウエル(もうロバート・ミッチャムそのものといったほうがいいか)が夜になって再びやって来る。
例によって讃美歌を口ずさみながら。
それを聞いた老婦人も思わずその一節を口ずさむ、寝ずの番で銃を携えながら。
善悪の共通点はキリスト教にあるということか。

悪は一瞬にして駆逐され、みじめにパトカーに押し込まれる。
映画はあれだけ偽牧師を絶賛した田舎の善民たちが一転して、彼を吊るせと押し寄せるさまを捉える。
老婦人の年長の孤児が最後まで、自分を女としてかまってくれたパウエルを、いい人だったとつぶやく様も。

圧倒的な善であるリリアン・ギッシュが、小物のサイコパス、ロバート・ミッチャムを一瞬で叩き潰した、というのが映画のテーマの一つ。
もう一つのテーマは、善も悪も表裏一体、生身の人間同士だということ。
生身の大衆はまた、即物的だし、簡単に騙されて反省もしないということ。

俳優として名高い監督のチャールズ・ロートン。
この作品が公開時にはヒットせず、理解されるまで20年以上かかったこともあり、監督作品はこの1作だけだった。

実はロリコンだったというチャールズ・ロートンと、ねっとりとしたカメラのスタンリー・コルテス、麻薬で逮捕歴のあるロバート・ミッチャム。
3人のサイコ野郎の本質に近いものが集結した極め付きのカルト作品だった。

「恐怖の岬」  1962年  J・リー・トンプソン監督  ユニバーサル

ロバート・ミッチャムという俳優、タフガイの役でも、どうしょうもないクズの役でも、たたずまいが変わらない。
それがいいのかどうかはわからないが、役柄を問わず、”そこにいるのはもれなくロバート・ミッチャム”という存在なのだ。

この作品は60年代の入ってからのもので、暴力描写や性的(なものをうかがわせる)描写がより直截的なものになっており、ミッチャムのサイコな凶悪ぶりもより激しく表現されている。
思わせぶりな神秘性は全くなく、わかりやすいサスペンスに徹した画面作り。
そこには、”現実”の救いのなさのみが醸し出される。

自分の婦女暴行事件の証人となった弁護士のサム(グレゴリー・ペック)を8年間の入獄中、逆恨みして、出獄後にサム一家にストーキングし、自らのサデイズム趣向に基づいた復讐を図るケイデイ(ロバート・ミッチャム)。
サム一家の住む町に現れ、サムが弁護士として働いている裁判所に歩を進めるミッチャムの”崩れた”風体は、いつものロバート・ミッチャムの”ヨタッた”姿そのもの。
それが演技なのか地なのか?

家族でボーリングに興じるサム一家に近づくケイデイ。手前が娘のナンシー

60年代に入ったアメリカの町は一見すると繁栄に彩られており、サム一家の邸宅は広大な庭に囲まれ、黒人メイドを使っている。
しかし、映画は、来るべき70年代の挫折と断絶を予見させるがごとく、サム一家の暗い危うさを見逃がさない。

一人娘のナンシーのショートパンツ姿は、「ロリータ」(62年 スタンリー・キューブリック監督)のスー・リオンを思い出させる。
母親は、ナンシーの下校を車で迎えに来ているにもかかわらず、着飾って買い物に興じ、車から離れて娘を危機に陥らせるし、最終局面のケープ・フィアーでのハウスボート上でケイデイに迫られ、恐怖とも歓びともつかぬうめき声をあげる。
二人とも隙だらけで、来るべき時代の危機に無警戒なのだ。

ケープ・フィアーのハウスボートでサムの妻に迫るケイデイ

町の酒場には夜の女がいて、その女は生まれ故郷から流れてきた女で、ケイデイの誘いに応え自室に招いた挙句、彼のサデイズムの洗礼を受けて恐怖のあまり、あわてて町から長距離バスで去る。
警察からの捜査協力依頼を拒否して。
このエピソードはケイデイの常軌を逸した変態ぶりを描くとともに、60年代にはアメリカ社会の底辺に一般的だった、”町々を流れ歩く売春婦”の存在を描いてもいる。
「裸のキッス」(64年 サミュエル・フラー監督)は、”カツラを自ら吹き飛ばし、スキンヘッドとなった女が客の男を殴り倒す”、という冒頭シーンが有名だが、その女は洋酒のセールスウーマンを装った売春婦が町に流れてきたという設定だった。

60年代にはアメリカの病巣がかなりの部分で出そろっていたということだ。
そうした60年代のアメリカ社会の腐敗の萌芽とそれが招く暗さ、人々の危うさがこの作品の基調でもあった。

当時の近未来に対する予想もできない恐怖を象徴的に表したのがケイデイというキャラクター。
恐怖や悪に対抗する価値観としての宗教性はすでにない。
悪に対するのは法律だけ。
正義を担保するべき警察力も法律に縛られていて、悪を超絶的に発揮するサイコパスに対しては無力だ。
サイコパスに対する常識・理屈の無力を描いたという点では時代を先取りした作品だ。
サイコパスに対する一般人の無防備、トンチンカンぶりを徹底して描いた点も先進的だ。

パナマ帽と葉巻がケイデイのトレードマーク

法律や合法的手段ではケイテイに対抗できないと悟った後のサムがいい。
それまで、どこか他人事のように構えていたサムが、”極悪非道なクラントン一味と実力で雌雄を決しようとするワイアット・アープ”のように覚悟を決める。
実力(暴力)で決着をつけることを決めた後のグレゴリー・ペックは、最低限の支援を警察に求め、家族の協力のもと一人でケイデイに挑む。
ペックが黙々と独力で実力を行使する役は、「日曜日には鼠を殺せ」(64年 フレッド・ジンネマン監督)での、”自らの信念に基づきスペイン内戦後の祖国に戻るため、一人ピレネー山脈を越える元戦士”の役を思い出させる。

最後の最後で実力行使に出るサム

ロバート・ミッチャムの演技は、「狩人の夜」よりもさらに深化し、60年代のアメリカ社会の病巣を先取りするサイコパスぶりを発揮。
そのキャラクターは、凶暴性、変態性に加え、法律にも強い理屈が加わっての最強ぶりだった。
ペックとの最終決戦の場・ケープフィアーに現れ、ペックの妻が残るハウスボートのドアを開けて姿を現す場面は、”キング・オブ・クズ野郎”の最終降臨シーンとして映画史に残りそうな出来栄えだった。

ペックと親友の警察署長にマーチン・バルサム。
私立探偵にテリー・サバラス。
60年代アメリカ中流家庭夫人の虚飾と小市民性と隠れた背徳を演じて印象的だったのはポリー・バーゲン。

本当の”サイコパス”は60年代のアメリカ社会そのものだったのかもしれない。

令和7年畑 9月下旬になりました

夏の来客や帰省旅行などが終った9月下旬、まことに久しぶりに畑を訪れました。

ざっと草を刈った後の畑。ヤーコンが元気

草ボーボーを覚悟していたのですが、真夏の猛々しい雑草の勢いはすでにありませんでした。
鹿よけのフェンスに巣を張ったクモが出迎えてくれます。

立派なクモが巣を張っていた

草刈り機を持って行ったので、畝の周りを刈ってゆきます。
雑草よりも灌木の枝が邪魔で、細い枝を刃で切り落としました。

出荷用の収穫は後日として、山小舎に持って帰り加工用とするための収穫を行います。
まずはトマトです。
真夏に豊作だったトマトも終了です。
使えそうなトマトの実を、食用、加工用に採ってゆきます。

トマト最後の収穫

次にハックルベリーです。
ベリーといっても、ガーデンハックルベリーというナス科の植物です。
食用ですがそのままでは渋いのでジャムにします。
強い植物なので放っておくと11月くらいまでも実をつけ続けます。
今年の実は既に十分熟しているのでいいジャムができるでしょう。
去年は孫たちが収穫して、実を煮だした紫の液で草木染をしていました。

枝が枯れた完熟ハックルベリー
収穫した実

この後の畑は、ナスとピーマン、とうがらし、ヤーコンくらいでしょうか。
ほおずきが袋の実をつけていますが、収穫時期を外してしまったので、袋の中の実入りには期待できません。
落花生も地上部は成長しましたが、地下の豆がどうなっているのかは掘ってみないとわかりません。

白ナスはまだまだ元気
色づいたトウガラシ
ほおずきは実(袋)をつけているが・・・

今年はトマトを飽きるほど食べられたし、別荘地内の知人にたくさん配られたし、十分に楽しませてもらいました。畑にいるだけで汗がしたたり落ちた夏の畑仕事が終わりました。

里の稲刈り ハザ架けの風景

長和町の田んぼで稲刈りが進んでいます。

長和町の稲刈り待ちの田圃

最近話題のコメ問題。
長和町では例年通りの田圃の作付けが見られました。
暑い夏が過ぎ、9月下旬は稲刈りの季節です。

刈った稲をハザ架けで干す風景が、いまだによく見られるのが長野県です。
昔ながらの乾燥法で、食味が良く仕上がるといわれています。
稲わらも自給できます。
手がかかるので、家族総動員で行っている風景も見られます。
農協への出荷分ではなく、自家用、縁故用、もしくは直売所に「ハザ架米」とラベリングしての出荷用でしょう。

ハザ架け風景
ハザ架けの背後に稲刈り待ちの田圃

また、最近は法人による稲作が流行っているといわれますが、法人が稲刈り後、ハザ架けなどするわけがないので、田んぼの所有者が個人で作付けしている田圃でのことでしょうから、まだまだ農家は自分の田圃を自分で耕している例が多い、ということなのでしょう。

田圃の向こうに野焼きの煙が見える

いずれにしても秋の田んぼの風景は、まだまだ主食の自給が自分の国で行われているという証でもあり、日本の農村ならではの風景として、この上なく郷愁と肯定感を感じさせるものです。

「葡萄の国」小布施

北信地方の小布施は、県内の町おこしの成功例として知られます。
葛飾北斎ゆかりの地として寺院にその絵が残り、秋には栗の産地として有名。
休日ともなると全国から観光客が押し寄せ、広くない町内の和菓子屋、蕎麦屋に並びます。
また、ここは隣の須坂などと並んで葡萄の名産地としても名をはせています。

そのことを知ったのは、前年に家族とともに小布施の道の駅に寄った秋の日のこと。
休日の道の駅は駐車場も満車になるくらいの人が押し寄せ、農産物の直売所には葡萄を中心とした秋の農産物で文字通り溢れんばかりの豊作ぶりを目の当たりにしたからです。

その時に買って帰った葡萄の味が忘れられず、家族ともども、小布施の葡萄は美味しいと評判でした。
今年も葡萄の季節となりました。
小布施の道の駅の盛況ぶりが目に浮かびます。
9月のお彼岸を過ぎた日曜日、軽トラを駆って長駆、小布施を目指しました。

8時に山小舎を出発。
真田から菅平を越え、須坂を経て小布施の道の駅に着いたのが10時過ぎ。
既に駐車場は満車に近い勢いでした。

道の駅オアシス小布施の駐車場

道の駅の母屋から道路を挟んだ直売所にはすでに人が並んでいます。
手に手に野菜や果物が入った籠を持っています。
観光客というより、近隣の地元客が詰め掛けている様子です。

直売所のレジに並ぶ人の列。地方では珍しい人が並ぶ光景

テントの下に、これでもかと展開されている葡萄を、人々をかき分けながら物色します。
この日の目的は自宅用と、帰省時にお世話になった札幌の親戚用の贈答用2ケースを買って発送することです。
すぐに贈答用の箱の山が見つかりました。
3房の詰め合わせ、6房が入ったものもあります。
家族からは、ナガノパープルとシャインマスカットのリクエストがあったのでそれらが入ったものを、親戚にも同様なものをチョイスし、レジへ持ってゆきます。

葡萄中心のテント
贈答用詰め合わせの箱
自宅持ち帰り用パックは売れ行き好調

レジのおばさんは、「北海道?それなら冷蔵便だね」、「東京宛にも巨峰が入っているから冷蔵の方がいいね」。
との反応です。
地方の直売所ではレジのおばさんとの会話が楽しい時がままあります。
フランクで、地元ならではの情報に溢れたおばさんがいると会話が盛り上がります。

レジのおばちゃんたち

山小舎用に洋ナシ、プルーン、イチヂクのパックも買いました。
洋ナシ、イチヂクはコンポートなどにします。

相変わらず直売所に列が続いています。
道の駅母屋の土産品コーナーや食堂にも三々五々、客が詰め掛けています。

加工用などに、イチヂク、プルーンなども購入
道の駅の母屋
道の駅からは公園に続いている

この後は高山村の選果場へ寄って、紅玉シードルを買いましょう。

高山村のJA選果場で紅玉一袋も

昼食は、帰り道がてら松代の地元食堂・ニュー街道一にでも行ってみようか、と秋晴れの小布施を後にします。
来年から9月末の小布施での葡萄仕入ツアーが恒例になりそうです。

薪仕事2025 玉切り進む

山小舎の隣の空き地に積んである丸太の玉切りをしました。
夏に運ばれたまましばらくたっていました。
チェーンソーによる玉切りは騒音のこともあり、毎日はできません。
ついつい後回しになっていました。.

それでもチェーンソーに燃料とオイルを満タンにしてそれが尽きるまで、約30分ワンクールの玉切り作業を暇を見つけては行ってきました。
気が付くと残った丸太は2本になっていました。

切った玉は次の薪割りの作業のことを考え、薪割り機が置かれる道路端に運びやすいように並べておきます。
斜面の下の玉は、あとで軽トラに積んで道路端まで運び上げることにして、とりあえずまとめておきます。

チェーンソーは故障もなく順調に働いてくれています。

丸太そのものはもちろん、切った玉でも生の木は重いのが難点で、疲れているときなどには持ち上げる気にもなりません。
それでも薪仕事は山小舎にはつきものです。
昨今では朝夕はもちろん、山小舎滞在時にはストーブの火は欠かせません。
薪の在庫はまだまだありますが、乾燥台に空きが出てきて、来年以降のための薪仕事は必須です。

今回の丸太仕事については、あと2本と残りの枝類の処理となります。
あと2,3日分の仕事です。
そのあとは薪割り機を借りての薪割りと、乾燥台への積み込みです。

お墓参り㏌北海道

今年も北海道にお墓参りに行きました。

結婚以来の毎年の行事として、夏の北海道帰省をしています。
両親が亡くなり、実家が人手に渡った後も、墓参りを兼ねて年に1回の帰省をしています。

3人の子供は生まれて以来の毎年の北海道体験のおかげで、札幌の地理にも慣れています。
帰るたびに歓迎してくれる親戚との一席も楽しみです。
墓参のお寺は両親の時代からのお付き合いで、勝手知ったる場所です。

エスコンフィールド北海道

今年の墓参は3泊の日程、先ずはすっかりファンになったボールパークでファイターズの終盤戦を観戦します。
満員の観客と人の流れが絶えない通路。
デーゲームの館内は、ここが北海道とは思えないほど賑わっています。
駐車場が取れなかったので、なんと息子が北広島にレンタカーを駐車してバスでこの場所と往復です。

エスコンフィールド場内の賑わい

昼間なのでビールは1杯程度にとどめて熱気に包まれる館内でファイターズを応援。
いつ来ても明るく近代的な球場です。

ファイターズの攻撃場面
場内のビジョンに映えるファイターズガールのキツネダンス

ゲームはファイターズの完勝。
相手はライオンズでした。
駐車場への往復時間等で最後まで観戦できませんでしたが、逆転優勝に望みをつなげていた当時のファイターズの熱気が感じられました。

満員の観客席

支笏湖丸駒温泉

第一泊目は支笏湖畔の恵庭岳の麓の一軒宿、丸駒温泉で。
大正時代に発見され、しばらくは苫小牧側の温泉街から船で支笏湖を渡ってたどりついたという温泉です。
今では湖畔を半周する道路も、札幌方面から峠を越える道路もあります。

丸駒温泉のフロント
歴史を示す展示物

今でも電気、水道が通じていないというこの旅館。
滞在中に不便は一切ありませんが、客室から望む支笏湖の景観と併せた秘湯ムードが漂います。
何よりも泉質が抜群です。
朝食バイキングも、大型ホテルのものと異なり手作り感あふれたもので好感が持てました。

客室からの支笏湖
9時ころの朝食ロビー

美笛峠→大滝→壮瞥→伊達→登別→白老

翌日は暑いほどの快晴。
支笏湖畔道路を南下し、美笛峠を越える山道ルートを行きます。
右手に支笏湖が見え隠れする峠道は集落も人家もありません。
大型車両の通行だけがなぜか盛んです。

旧大滝村に来て人家と集落に出会います。
カフェで、さらっとして100%牛乳由来のソフトクリームに出会って英気を養います。

そのまま伊達方面に下り、途中の壮瞥町(北の湖出身地)の道の駅へ。
新米が出ていました、またナシなどの果物やキノコが名産のようです。

伊達では地元に人気の回転寿司やでランチ。
噴火湾さんのソイなどがおすすめでした。

登別で立寄り湯?のはずが、大雨のせいで湯元の機械が故障したとのことで休館中、そのままこの日の宿泊地苫小牧を目指します。

白老のウポポイというアイヌ文化の展示パークへ寄ってみます。
修学旅行生も訪れていたウポポイ、全国的な観光スポットのようです。
いわゆるアイヌ新法の施行と同時に、法令の予算執行の場として形作られたのでしょうか。
ともかく全国の博物館などに分散されていたアイヌ関連の資料を一堂に会した意味は感じられます。

とにかくきれいに作られた場所なのです。
庭園にはミニバスのような乗り物まで走っています。
案内人の数だけでも予算の大きさがわかります。
もともとあった白老のアイヌ部落はどうなっているのでしょうか。
阿寒湖畔のアイヌコタンと称する土産物屋群とも併せてみるにつけ、すっかり様変わりした(これが時代の変遷なのでしょうが)アイヌを巡る風景を感じるのは、古い道産子の習性なのでしょうか。

白老ウポポイのアプローチ
館内の展示物

苫小牧港マルトマ食堂

苫小牧に泊まったのは翌朝のマルトマ食堂のためでした。
魚港に設置されたこの食堂ではホッキを使ったメニューが有名で、観光客が詰め掛けます。
近くには海産物を売る場外店舗が並びます。

食堂の玄関
苫小牧のキャラクターをラッピングした自販機

1時間ほど並んで店内に入ると壁一面に有名人の色紙が並んでいます。
ややあって出てきたホッキ飯は、炊き込みご飯の上に大粒のホッキが並んでいます。
家庭で炊くホッキご飯よりはずいぶん濃い目の味付けでした。
息子はこれまた名物のホッキカレーを食べていました。

食堂の入り口
ホッキ飯

札幌での一日

苫小牧から札幌へ直行し、円山にある六花亭のカフェで一服します。
9月になったのでアイスは土日限定となっていたのが残念でしたが、コーヒーがなくなるとウエイトレスがどんどん注ぎに来てくれるのが相変わらずうれしい六花亭カフェです。

お寺に向かい、近くのスーパーでお花と供物を買います。
毎年の習わしです。
数十年間、自宅の仏壇にお経をあげてくれた前住職が亡くなり、そのお孫さんがお経をあげてくれたことにも感謝です。

夕方には亡くなったおじさん宅に顔を出し、その晩は義理のおばさん、従兄夫婦を交えて、琴似の居酒屋での一席。
1年ぶりの再会で盛り上がりました。

充実した平成7年の墓参旅行でした。

薪仕事2025 ご近所に薪を持ってゆく

ご近所に薪を持ってゆきました。

持って行った先はバイト仲間の御宅。
去年から草苅バイトに参加した、山小舎おじさんと同年生まれの滋賀県出身者の家。
20年ほど前からログハウス風の立派な別荘を建てて、滋賀県から通っていたが、仕事からの完全退職を機に奥さんともども姫木に定住を始めたとのこと。
1000度以上の熱にも耐える立派なストーブを持ってはいるが、自分では薪づくりはしない。
薪を買ってはストーブの燃料にしていたが、費用がバカにならないし、存分に燃やせない。
去年には、同じくバイト仲間で薪づくりのベテランのお隣から薪をもらい始めていた。
それを聞きつけ、山小舎おじさんも去年、軽トラ2台分ほどの薪を持って行った。

感想2年目の薪を荷台に積み込む

りんごバイトにも夫婦で参加する人たちで、野菜などを持ってゆくと喜ばれる。
自宅に浄化槽設置をしており、そのことでいろいろ教えていただいた。
薪についても「(山小舎おじさんのおかげで)去年は薪をぼんぼん焚けた」と挨拶を欠かさないところは、さすが滋賀県民のスキのなさ。
今年もすでにお隣さんから一山貰って暖房対策を開始している。

荷台に軽く一杯の分量

バイトの合間の雑談で、今年も薪を頼まれた。
薪の乾燥台が飽和状態の山小舎おじさんにとっても渡りに船。
冬を前に暖房の準備が心もとない不安は、古い道産子として他人事とも思えない。
これからの山小舎での、薪割り→積込み作業を前にして、積み台のスペースを開けるためにも、薪を持って行った。

先方のログハウスの軒下に積み込む

ふた夏を乾燥させたナラ、カラマツ、シラカバなどの薪を、乾燥台から軽トラの荷台に放り込む。
山盛りになったら出発。
出てきたご主人とともに軒下に積み込む。
積み込んでみると軽トラ1台の荷量は大したことはない。
冬の前にあと1~2台分はもってこよう。

1週間分ほどの量にはなったか

同時にせっせと薪を作って、空いた乾燥台を埋めなければならないが。