上田映劇でジャン・ルノワールの「どん底」を上映

我らがミニシアター、上田映劇がまたまたやってくれた。
ジャン・ルノワール初期の代表作「どん底」(1936年)の上映だ。

今回上映された素材は、4Kレストア版というデジタル素材。
輸入したのは川崎市アートセンター。

川崎市アートセンターは同市麻生区新百合ヶ丘にある、小劇場と上映館からなる、「しんゆり・芸術のまち」を標榜する施設。
小劇場ではミニシアター系の作品を連日上映している。

川崎市アートセンターの2023年9月のプログラム
プログラムの見開き。ロバート・アルトマンの再輸入作品の上映もある

海外のデジタル化した旧作は、近年精力的に輸入公開されている。
ベルモンド傑作選と銘打って「カトマンズの男」「リオの男」などが上映されたり、ミムジー・ファーマー主演の70年代のムード漂う「モア」「渚の果てにこの愛を」が公開されたり、マルセル・カルネ監督の歴史的フランス映画「天井桟敷の人々」が再輸入されたことは記憶に新しい。

これらの作品の日本での輸入元は、キングレコードだったり、個人会社だったりするようだが、いずれにせよ版権が存在し、またフィルムの状態では(日本では)存在しない海外の旧作品を、映画館の大画面のクリアな映像で鑑賞できることは、名画座やテレビの映画放送がほぼなくなった現在、大変貴重である。
川崎市アートセンターと上田映劇には感謝しつつ、駆け付けた。

上田映劇の劇場前案内

「どん底」 1936年  ジャン・ルノワール監督  フランス

「ジャン・ルノワール自伝」(1977年 みすず書房刊)でルノワールはいう。
「シャルル・スパークと私が作り上げたシナリオは、(原作者)ゴーリキイの芝居の原作とは大いに違っていた。われわれはこれを原作者の承認を得るために、ゴーリキイのもとに送った。」(自伝 160P)。

また、「ある役の演技に、すぐ形をつけようとする俳優は、陳腐な形にはまり込む危険を冒している。一個の芝居、一本の映画のいかなる部分たりとも、オリジナルな創造たらずんばあるべからずなのだ。」(自伝 161~162P)ともある。

原作者から映画化の同意が得られたことについては、原作者ゴーリキイが映画を芸術としては全く認めておらず、どうでもよく、送られてきた脚本も読まなかった、との話もある。
ロシア人プロデユーサーからの依頼仕事であるこの作品の製作に際し、ルノワールは熟練の脚本家、シャルル・スパークと共同で脚色して臨んだ。

原作にはない重要な役柄の「男爵」には、舞台俳優にしてフランス高等演劇学校の教授、パリ国立劇場の演出家でもあったルイ・ジューベを起用。
場末のミュージックホールからジャン・ギャバンを見出して抜擢し、ジューベと組ませた。

ジューベが演じた没落男爵。
ギャンブルで遺産を食いつぶし、自殺を決心した夜に泥棒に入ったジャン・ギャバンと意気投合する役柄。
ついにはギャバンらが住む、掃き溜めのような安宿に転がりこんでくる。

この男爵、没落する自身を「人生を振り返っても、その時々に着ていた服でしか覚えていない」と回想するほどで、没落してからが我が人生、といわんばかりの達観した人物。

ルイ・ジューベ扮する男爵(右)、安宿の女将(奥)

名優ジューベが演じる浮世離れしたこの男爵を見ていると、ルネ・クレールの「自由を我等に」で、財閥からもとの放浪者に戻った主人公の晴れ晴れとした気分を思い出す。
また、ルキノ・ビスコンテイの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で、無賃乗車した主人公の運賃を払い、しばらくは自らの露天商に同行させて去っていった、放浪詩人のようなキャラクターをも。

ギャバンとジューベと子供たち

安宿の経営者は、強欲な老人で、その妻はギャバンとの通じていたりする。
店子たちはいずれも老齢だったり、社会に不適合な人物ばかり。

この安宿の人物たちは、しかしルノワールが創造、演出すると、悲惨なばかりではなく、ユーモラスともいうべき人間味が加わる。
人間は必ずしもその一面だけの存在ではない、というルノワール流世界観の創出である。

再輸入、再公開にあたってのチラシ

カメラは彼らの芝居を丸ごととらえようと、あるいは邪魔しないように、長回し移動撮影でとらえる。
時にピントがずれるのも構わずに。

安宿のどぶに咲く一輪の花たる、ナターシャが意に添わぬ監督官に誘われてガーデンレストランでデートするシーン。
カメラは、べたべたするアベック客などの様子を捉えつつひたすら移動してゆき、ナターシャと監督官のテーブルに行きつく。
まるで舞踏会で繰り広げられる踊りの渦に迷い込むときのマックス・オフュルス(「輪舞」「たそがれの女ごころ」)の移動するカメラのように。

ルノワールは自伝でいう、「男爵は観客にとって親しみ深い存在となり、観客はギャバンと一体化して、男爵の物語を聞こうという気になるのだ。」(自伝 164P)。

ルノワールの「どん底」は、ルノワールとスパークが創造したルイ・ジューベ扮する男爵の物語でもあり、その人物により照射されるギャバンらどん底に住む人間味ある人物らの物語でもあった。

チラシ裏側

蓼科山登山

数年ぶりに蓼科山に登りました。
10月初旬の単独登山です。

数年前の初登山の時は、まだまだ足に自信がありました。
7月に登りましたが、蓼科山はツアー客やグループの中高年女性達であふれており、山頂には遠足に来た佐久穂町の小学生たちまでもいました。

当時は、9合目からの急な岩場に「降りてこられるかな?」と心配しながら登った山小屋おじさんでしたが、小学生の一団に交じり、ワイワイ言いながら降りてきたのを思い出します。

この日の蓼科山全景

数年後の現在は、前期高齢者となり、体に自信はありません。
果たして蓼科山に登れるのか?
ダメだったら帰ってこよう、と思いなおし、重い腰を上げました。

9時に登山口の7合目出発を目指し、携行食のおにぎりを握ります。
ほかに菓子パン1個と200ミリペットボトル1本の水を持参しました。
外へ出ると寒かったので、用意したヤッケのほかに、ジャージの上着を着こみました。
ジャージは登山中一度も脱ぐことはありませんでした。

出発前におにぎりを握って準備

平日の朝9時、7合目登山口に着くと最寄りの駐車場は県外ナンバーの車両で満車でした。
少し離れた駐車場に軽トラを止めます。

7合目付近の登山客はチラホラ。
夏山シーズンを過ぎた今、団体客はいませんでした。

7合目登山口前駐車場。午前9時

鳥居をくぐり、山頂の蓼科神社の参道でもあるのでしょう、歴代に渡って踏み均された登山道を歩きます。
夜の寒気が残った登山道はとても寒く、立ち止まると震えるほどなのでひたすら歩き続けます。
マツやシラカバの天然林が取り囲む登山道は光がほとんど射しません。

登山口には蓼科神社の鳥居が立つ
雷に打たれた?巨木が立つ登山道
登山道には山頂にある蓼科神社への道しるべも

やがて眼下に視界が開けてきます。
女神湖が遥か眼下に見えます。木々は紅葉し始めています。

登山道は大きめの石が転がる急な道になります。
足を取られないように坂を斜めに歩きます。
このルートの最初の難所です。
前を行くのは中高年夫婦。
山小舎おじさんとは同じペースです。
早い登山者は我々をいとも簡単に追い抜いてゆきます。

視界が開け眼下を望む。紅葉越しに女神湖が見える
高山植物が目を楽しませる
日陰には霜柱が残っていた

ゴロ場を抜けると将軍平。
山小舎が開店しています。
9合目に到着です。
ここまで約1時間かかりました。

9合目、将軍平の山小舎。土産物が並ぶテントも立っている

山小舎前のテントにはキーホルダーやTシャツなどをデイスプレイし、髪を後ろで結んだお兄さんが山小舎を切り盛りしています。
頼めば食事も出ます。
有料のトイレもあります。
今朝はマイナス2度だったとのこと。
登山客はここで休憩し、最後の岩場の登りに備えます。

最後の岩場へ向かいます。
文字通り手足を使ってよじ登らなければならない急坂に大きな岩が重なっています。
健脚でバランスのいい人はひょいひょい登ってゆきます。
岩と岩をひょいひょい伝って下ってゆく人もいました。
健脚でもあり山で鍛えられている人です。

9合目からは岩場になる

急な岩場の登り体力も消耗します。
自分のペースを意識しますが時々立ち止まらざるを得ません。

思い出してナンバ歩きをやってみました。
ナンバとは日本古来の体の使い方で、足と手を同時に出す歩き方などを言います。
本で読んだだけのニワカですが、例えば下半身の動きを足から下の筋肉にだけ任せるのではなく、骨盤や上半身とも連動させて行うことだとすると、こういった急坂の上り下りには有効だと思いました。
大きめの段を下りる時など、自然に足と手を連動させますが、ああいった動きのことだと思います。
心持、登る速度が上がったような気がして、励みになる山小舎おじさんでした。

急な岩場には鎖も
岩場から眼下を望む

山頂に至る岩場は、崩れる心配もなく大勢の登山客の足場になっています。
昔から昇りやすいよう、岩が崩れないように整備されていたことがうかがわれます。
先人たちの思いと努力に感謝です。

頂上が見えてきた

ようやくの思いで山頂に着きました。
標高2530メートルの山頂は風が強くて寒く、大きな岩がゴロゴロしています。
ここでおにぎりを食べるのは早々に諦めます。
10月の天気はあくまでも天高く、八ヶ岳の山並みや眼下の町々がクリアに見えます。

頂上に建つ山頂ヒュッテ
頂上から八ヶ岳連峰を望む

三角点まで行って記念撮影していると、次々に撮影を頼まれます。
その中の舞鶴から来たという60歳過ぎの男性と話しになりました。

頂上から下り、将軍平の山小舎前の陽だまりでおにぎりを食べながら改めて話しました。
この男性は、退職後の趣味で登山をしており、今回は木曽駒ケ岳などに行ってきたとのこと。
退職後の第二の人生についての話しになったので、三々五々、此方の現状も伝えると、男性は山小舎おじさんの単独田舎暮らしに驚き、「奥さんの理解がなければできませんねえ」といいました。
「お互いやりたいことはできるうちにやろう」とエールを交換して別れました。

頂上の岩場を三角点へと向かう
頂上の三角点に建つ標識

下りは体に負担がかかりました。
将軍平でのおにぎりの後、山小舎でコーヒーなど飲んで休養をたっぷりとったのですが、ほぼ休みなしで歩いた下りは足腰にきました。
最後は足の筋肉が言うことを聞かなくなる寸前でした。

同行者がいるなど目的や気晴らしがないと登山は楽しくないこと。
自分に合ったペースを守ることもさることながら、たっぷり休憩を取らないと体力が回復しないこと、を痛感しました。

軍手が必要だったことにも気が付きました。
登山では、態勢を崩したりして砂利や岩に手を突くことがあります。
素手で登った山小舎おじさんは、手が傷だらけになりました。

足の筋肉が悲鳴を上げた蓼科山登山でしたが、滞留していた体内の気がすっかり一巡したような爽快感を得られたことも事実です。

ヘチマでたわしを作る

畑に2本ヘチマがぶら下がりました。
今年初めて植えてみたヘチマです。

収穫しました。

ヘチマの利用方法は・・・。
実ができたツルから樹液を採ってヘチマ水にする。
実を乾かしてたわし(スポンジ)を作る、しか知りません。
たわし作りにチャレンジすることにしました。

ネットで作り方を調べました。

先ず、適当なサイズにヘチマをカットします。
たわしやスポンジになった時に使いやすいサイズです。

次いでカットしたヘチマを煮込みます。
皮つきのまま自然乾燥させても、あるいは水につけて皮が腐るまで放っておいてもできるそうです。

煮込んだヘチマを自然冷却させて皮を取ります。
よく煮込むと皮はするっと取れます。
煮込みが弱いと、包丁などでむかなければ皮は取れません。

皮の緑色が色濃く、またワタに種をたっぷり仕込んだヘチマが出現します。
このまま乾かすわけにはいかないので、水にさらします。

何日か水に漬けておくと、だんだんに色が抜けてゆきます。
水を取り替えるたびに種が出てきます。
繊維が思ったより強いのでびっくりします。
十分たわしやスポンジになりそうです。

そろそろ色も抜けて、種も出きったようです。
明日から水気を絞って天日乾燥させることにします。

薪割り機出動!

畑が一段落し、暑さも収まった10月。
薪づくりの季節です。
玉に切った丸太を割る仕事の開始です。

今年も薪割り機を借りました。
ちょくちょく斧で手割りしているのですが、手割りだと全部割り終わるのがいつになるのか見当がつきません。
これからは大量の玉を割る時には薪割り機が必要です。

重たい薪割り機をラダーレールを使って軽トラに積込み、山小舎に持ってきました。
2か所にまとめた、玉のそばに薪割り機を移動します。
スターターを引いてエンジンの始動です。

エンジン式の薪割り機の馬力は強力です。
よほどの節でもない限り、ぐいぐい割ってゆきます。
エンジン音がうるさいので、ご近所に気を配り、昼1時間は稼働停止、夕方も4時までには切り上げます。

今日一日で、薪棚にして3列弱の薪ができました。
ナラ材とその他(カラマツ、シラカバ)に分けて積みました。

あと1日やれば、玉はほぼ処理できそうです。

食用ほおずき

酷暑が終わり寒暖差が大きくなった畑で食用ほおずきが伸びている。

夏の暑さと乾燥で苗の伸びがイマイチだった食用ほおずき。
出荷先での評判がいいので、今年は8本ほど苗を植えていた。

9月に入り、樹が伸び始めていたが、成長の遅れは明白で、収量は期待していなかった。
ほおずきの収穫期は初秋。
枝に花が付き、ほおずきの袋がつり下がってくる。
袋が枯れた頃、実が熟する。
熟した実は、甘いだけでなく、酸っぱいだけでなく、独特の味の複雑さと上品さを持つ。
ほおずきの直売所などでの売値は安くはない。

食用ほおずきの実

10月に入った頃の畑でほおずきが伸びていた。
幹は太く重くなり、枝枝が四方に伸びている。
土に付かんばかりに垂れ下がった枝には無数の袋がつり下がっている。

熟するのを待つほおずきの実の数々

これは豊作だ。
このまま幹と枝を放置しておくと今後の着果に影響しかねない。

ということで幹と枝を管理する。
支柱を立てて、改めて幹を縛り付け、枝を支える。
幹は硬く、太く、枝は重い。
時間をかけてくくり直す。

伸び放題のほおずきの枝を管理する

この日は若干の収穫もあった。
10月の第一弾として出荷する。

試食したほおずきの味は例年にも増して独特の味わい。
これはいい!

この日収穫したほおずき

実りの秋

令和5年も実りの季節を迎えました。

暑かった夏。
暑すぎて外出する気にもならなかった8月、9月ですがその間にも季節は進んでいました。
田んぼはいつの間にか黄金色に波打っていました。

刈り取った稲をハザに干す風景があちこちで見られるのも信州ならでは。

直売所やスーパーには早くも新米が出ています。
あちこちの畑では夏野菜の終わりの時期を迎え、秋物の大根が育っています。
山小舎おじさんは夏の暑さにやられて、今年は秋野菜の作付けはできませんでした。

手前にコスモス、後ろにハザの風景

信州はいよいよ実りの時期の最終章を迎えます。
お米が採れてリンゴの収穫期を迎えるといよいよ実りの季節の終わりです。

第26回蓼科高原映画祭 「秋日和」と岡田茉莉子

今年も蓼科高原映画祭が開かれた。
毎年、茅野市の2会場で1週間ほどに渡って開かれる映画祭。
蓼科の別荘でシナリオを練った小津安二郎を記念して開催され、小津作品出演者などの豪華ゲストが訪れる。

第26回蓼科高原映画祭のプログラム

今年のテーマは、蓼科と野田高梧・小津安二郎。
例年にも増して小津作品を多数上映し、メイン会場の茅野市民館では蓼科の別荘と野田、小津の写真展が開かれるなどした。

上映スケジュール

今年のゲストは岡田茉莉子。
出演作「秋日和」の上映後にトークショーがあるとのこと。
メイン会場の茅野市民館に駆け付けました。

茅野駅から続くコンコースに葉映画祭の幟が

ロビーにはボランテイアの茅野市民が受付などに展開、中庭には「もてなし」のテントも張られています。
諏訪地域でいう「もてなし」とは、御柱祭の山出しなどの時に沿道の住民が祭りの参加者に差しれる風習を言います。
この日のテントでは、コーヒー、ポップコーンのほか、寒天菓子、豚汁などが無料でふるまわれていました。

茅野市民間受付のレイアウト

立派な舞台を持つ市民館のホールに入場します。
例年、ゲストのトークショーは盛況で、かつて市内の現存映画館・新星劇場で行われた司葉子さんのトークショーは満員だったのを思い出しましたが、市民館のホールは収容人数が多いのか、この日は7,8割の入場者でした。

舞台では短編映画コンクールの入選作品とその監督の紹介が行われていました。
最後にコンクール審査委員も舞台に出てきて、審査委員長の伊藤俊也監督も登壇しましたが、姿勢がすっかり老人となっており時間の経過を痛感しました。

受付横の手書き看板

「秋日和」上映の前に関係者のトークショーがありました。
小津監督の甥の長い秀行さんと、「秋日和」の撮影助手だった兼松さんの対談です。

寡聞にしてお二人のことを知らなかったのですが、兼松さんは松竹撮影所で小津組の「専属」だった厚田カメラマンの助手として「彼岸花」以降の小津作品に参加したとのこと。
既に高齢で杖をお使いながらも、撮影所育ちの活動屋の匂いを感じさせる方。
スタッフ思いで、ユーモアのある小津監督のエピソードを語ってくれました。

市民館ホール入り口の様子

「彼岸花」 1960年  小津安二郎監督 松竹

そして「彼岸花」の上映。
デジタル修復版で色彩も完璧に再現されている。

原節子の小津作品最終出演作であり、東宝の司葉子の小津作品初出演。
また重要な役を演じる岡田茉莉子の小津作品初出演作でもある。
端役ながら岩下志麻も出ている。

豪華絢爛な女優陣を他社からも招き、自社の若手を厳選してのカラー作品。
小津作品のこういった傾向は「彼岸花」(1958年)からなのではないか。
山本富士子(大映)、久我美子(フリー)、有馬稲子、田中絹代(ともに松竹)らを並べたカラー作品「彼岸花」の華やかさは今でも忘れられない。

対する男優陣。
晩年の小津作品には自らを揶揄したような初老(といっても当時の実年齢は50代の設定と思われる)の社会的地位のあるおっさん方が数人出てくる。
「秋日和」では佐分利信、中村伸郎、北竜二の3人。
それぞれ会社重役だったり、大学教授だったりする。
大学時代(東大)からの仲間の未亡人と娘(原節子、司葉子)と七周忌で再会した場面から話が始まる。

適齢期を迎えた亡友の娘を心配し、未亡人となった大学時代のマドンナの再婚を気にするおっさん達。
類型的な心配ではなく、老いて未だに心残りな若き時代のマドンナに対する私的心情が混じってのことである。
要は暇な爺たちのエロ話がこの作品の一つのテーマなのである。

こういったテーマを庶民的に、あるいは通俗的に処理すると、みじめだったり生臭かったりするが、演劇界の重鎮(中村)や正統派の二枚目(佐分利)にやらせ、かつ設定も中流上の悠々自適な人物設定なのだから、そこは生臭さとは無縁。
かえって小津独特のユーモアが生きてくる。

また、爺の価値観にべったりではなく、分析・批評を加えるのも小津流。
「秋日和」では司葉子の友人役で起用した岡田茉莉子がその役割を担う。
岡田は爺たちの、悪意こそないが勝手な振る舞いに翻弄される友人(司)を見かねて、爺たちの本拠(会社の重役室)に乗り込み、ストレートに言いたいことを言って最後は爺たちに謝らせる。

ここのシーンは、岡田茉莉子らしい歯切れのいいセリフの連発で、観客からも同感の笑いが起こる。
爺たちの退屈まぎれの勝手な振る舞いにうんざりしていた観客の気持ちをすっきりさせるとともに、小津自身の自身に対する客観性をうかがわせる大事な場面である。

当時の地位のある爺たちのふるまいに関しては、例えば「彼岸花」での佐分利信の着替えシーンが思い浮かぶ。
会社から帰ってきた佐分利は、結婚前の娘(有馬稲子)の行動に上から目線で文句を言いながら、背広、ズボン、ネクタイと畳の上に脱ぎ捨てる。
着物姿で片ビザついて控える妻(田中絹代)がかいがいしくそれらを拾ってはハンガーにかけたりする。

昭和時代に育った山小舎おじさんでもそういった爺の姿を実見したことがないのだが、中流上の家庭では、そうだったのかもしれないと思わせる、昭和の時代の爺たちを分析するに足る描写である。

「秋日和」でも中村伸郎が帰宅後、背広とズボンを脱ぎ捨て、ハンカチを取り出して放り捨てる。
片付けるのは妻の三宅邦子の役目なのだ。
山小舎おじさんの世代でそんなことをしても、翌日まで服はそのままの姿で残っていただろうし。
さらにその下の世代となると、妻(パートナーといわなければならない)から不思議そうな顔をされるのが落ちなのであろう事実に時代の流れを感じざるを得ない。

そして小津作品永遠のテーマである家族の崩壊。
「晩春」「麦秋」「東京物語」。
紀子三部作といわれ、原節子が主演してきた小津の代表作のテーマはいずれも、家族の崩壊を通して描く、人間はしょせん一人だという、寂しく残酷な人生の真実だった。

「秋日和」では娘の結婚で残された未亡人の孤独が余韻となる。
紀子三部作ではいずれの作品でも、自分が出て行く(残された家族の崩壊が想定される)側の人間を演じた原節子が、残された側を演じている。

日本映画全盛期の文化遺産のような作品。
こういった作品を残してくれた小津安二郎と松竹撮影所に感謝したい。

映画祭プログラムより、上映する小津作品の解説

岡田茉莉子トークショー

「秋日和」の上映が終わり、岡田茉莉子のトークショーとなった。
果たしてどんな岡田さんが出てくるのかと少し心配した。
杖もなく歩いて壇上に現れた。
思ったより小柄である。
歩き方は少しよちよちしている。

トークの相手は、10年前の小津没後50年を記念したNHK番組を演出したデレクターで、その際にも岡田本人と、存命だった吉田喜重監督にインタビューした関係とのこと。
岡田単独でのトークはもう無理かもしれない。

耳がかなり遠くなっており、質問が伝わるまでに時間がかかったりしたが、いざ話となると立て板に水のようにスムースで内容的にも焦点のあった話ぶりだった。

「秋日和」のセットでは元気よく挨拶して明るく振舞ったこと。
本作の共演者で演技的に感心した人はいなかったこと。
小津作品では小津監督の演出以上のことをしてもダメなこと、ただしセリフのテンポだけは自分で工夫して事。
「秋日和」で爺さんたちをやりこめる場面は自分でも好きなシーンなこと。
小津本人から小津組の1番バッターだといわれてうれしかったこと。
当時の松竹大船撮影所は同時に6作品を制作しており、計600人ほどのスタッフが常に駆け回っており、活気に満ちていたこと。
松竹は監督にも物言える雰囲気で家庭的だったこと。等々

最後に今後とも映画をよろしくお願いします、と言い残した岡田さん。
映画女優としての矜持、プライドを全身にまとい、また映画全盛期を知る女優の言葉として重みがありました。

市民館中庭でのもてなしテント
もてなしのコーヒーを飲みながらアンケートに記入

スキー場跡地の草苅

山小舎がある姫木別荘地の中央の斜面にはスキー場の跡地があります。
既にリフトやロッジなどは撤去され、斜面のみが残されたスキー場跡地です。
初夏にはわらびの採取地となりますが、それ以外は、景観的にも実利的にも何の貢献もなくたたずんでいます。

姫木管理事務所では毎年秋に、スキー場跡地の草刈りを行います。
1年ほおっておいたスキー場斜面はススキやその他の雑草に覆われています。
その丈は1メートルほどにもなるでしょうか。
数年ほおっておくと灌木が生え始める草原です。

毎年春から夏にかけて、別荘地の道路側溝の落ちが除去や、初夏からの草刈り作業に出ている山小舎おじさん。
おじさんにとって作業バイトは、貴重な住民間のコミュニケーションの場であり、体力増強の機会であり、現金収入の手段でもあるのです。

とはいっても毎年8月を過ぎると、バイトへの意欲と体力も失せていた山小舎おじさん。
毎年9月過ぎに行われる、スキー場の草苅は今年が初めての参加でした。

下から見上げるとススキが原は昨日までの作業で刈られた跡が段になっています。

斜面の草刈り作業は、下半身の安定と草刈り機の動作の連動が必要な高度なものであることに思いがいたります。

草刈りの時期を迎えた姫木スキー場跡地

標高と水平に谷側に向けて刈り落してゆくのですが、慣れるまでは大変です。
平地で行う草刈り以上に、足腰に負担がかかります。
おまけに9月とは思えない日差しが降り注ぎます。

40分に一度、15分の休憩がある、老人には優しい労働形態なのですが、この日ばかりは休憩が待ち遠しいこと。

休憩時間は草刈り機とヘルメットを置いて一息

それでも休憩時間に見上げる空の高さは信州の田舎ならでは。

バイト仲間との情報交換も貴重。

前半はひたすら苦しく重かった体も、夕方にはひと汗かいて軽くなったような気がしました。

9月とは思えない青空と積乱雲

加工用の梨

直売所で加工用として売っている梨を一袋入手しました。
小型の梨が11個入って300円です。

品種は秋水。
確かに小さく、形が悪く、熟れてもいず・・・でスーパーはおろか無人スタンドにも出荷できないような実です。
それでも梨は梨。
加工すれば十分食べられるはず。

実はこういったB品が大量に安く入手できるのが生産地に近い田舎の良いところ。
近年高価な果実の旬の風味を、ジャムやコンポートの姿で保存できるチャンスなのです。
ジャムの原料に生で美味しいA品はいりません、何より高価です。

実は、田舎の直売所には、季節によっては、青いトマト(漬物にする)、採り遅れた巨大なズッキーニ(料理すれば食味は同じ)なども売っており、スーパーでは見かけない食材の宝庫でもあるのです。

というわけで梨を加工します。
7個をコンポートに、4個をジャムにします。

コンポート用の梨は切って剥いた後、実だけを少量の水を加え砂糖で煮ます。
透明になり砂糖が染み込むまで。
そのあとシロップ液に入れ加熱して出来上がりです。

ジャム用の梨は、さいの目に切ったものにおろした梨を加えて砂糖で煮ます。
とろみが出たら出来上がりです。
この作り方はネットで見て覚えました。

11個あった梨も加工するとぐんと量が減ります。
コンポートが中瓶と小瓶に各1個。
ジャムが小瓶一つでした。

今年の梨の風味も無事保存できました。

山小舎に秋の気配

暑かった令和5年の夏。
9月下旬になりました。

空高く

大気の入れ替えで山小舎周辺の空気が秋の空気に替わりました。

朝晩はストーブをガッチリ焚いています。

昼間は日差しが強い日でも、午後2時を過ぎると冷たい空気が吹き始めます。
雨が降ると肌寒くなります。

鹿も稼ぎ時

木々の葉も成果のころと比べると勢いがなくなりました。
紅葉の季節がすぐそこです。

暑かった夏が懐かしく

屋外の活動がしやすいころとなりました。

今のうちに仕事を進めておかないと、屋外活動が寒かったり、冷たかったりの時期があっという間にやってきます。