軽トラ流れ旅 蓼科~白駒池~小海 秋と渋柿を探して

10月も下旬に近くなりました。
秋を探して軽トラで旅に出ました。

八ヶ岳周辺の紅葉はどんな様子か?
また、東京の山小舎おばさんからの「渋柿があったら送って」のリクエストに応えるために。

コースは、大門峠からビーナスラインで蓼科別荘地方面へ。
メルヘン街道に合流し、麦草峠を越えて白駒の池へ。
小海町に下って佐久経由白樺湖へ戻るルート上の道の駅や直売所で渋柿を探す。

ビーナスラインを通って秋を探す

ビーナスラインを走ります。
池の平遊園地の駐車場は平日ながら満車状態、白樺湖の周辺も紅葉で色とりどりです。

スズラン峠を越えた蓼科山登山口の駐車場にも車がチラホラ。
ここからの蓼科山登山コースは一番きついとのこと、おそらく将軍平の山小舎を通らない山頂直行コースなのでしょう。

そのままビーナスラインをたどります。
対向車はチラホラ、天気は秋晴れです。

携帯のナビでメルヘン街道への最短距離を探します。
北八ヶ岳ロープウエイへの分かれ道を過ぎて、蓼科高原別荘地に入った頃、左折して別荘地を抜けます。
登坂の急な別荘地です。
紅葉がきれいに色づいています。

蓼科別荘地内の紅葉

複雑なルートを抜けてメルヘン街道に合流、ここからは一本道です。
途中の展望台で駐車。
北アルプスから八ヶ岳までが展望できました。
麓の山々のカラマツの紅葉も見事です。
観光客が三々五々展望台に駐車してゆきます。

展望台より望む北アルプス
八ヶ岳連峰
蓼科山

八ヶ岳横断道路であるメルヘン街道の最高標地点、麦草峠を通過します。
ここからは小海町や佐久穂町といった佐久側のエリアに入ります。
というかここまでが茅野市のエリアだったのです、北八ヶ岳の西側の広大なエリアが茅野市(諏訪側)のエリアに分類されているわけです。

白駒の池

麦草峠を佐久側に下ると白駒の池の駐車場があります。
広い駐車場です。
普通車600円の料金を払います。
この日は半分ほどの駐車料、夏のシーズンは満車になるのでしょう、周辺道路には路駐禁止の看板が立っています。

道路際に白駒の池への入り口と案内図があります。
観光客が出入りしています。
登山スタイルの人と、普段着の人が半々ほど。
広めの木道が白駒の池まで続いています。

白駒の池への入山口
白駒の池までの間の森林

周りの森はうっそうとしており、地面にはコケが生えています。
人気が多いこともあり、深山の鬱蒼さの度合いは、蓼科山の7合目からの方がより強いような気がしました。

登りが終わって少し下ると、木々の中に目指す白駒の池が見えてきました。
売店というか山小舎があり、チェーンソーと斧で薪割りをする姿も見えます。
湖面の船着き場には観光用のボートが係留されています。

売店では越冬用の燃料づくりが
売店横にはボートが係留

山の中にひっそりたたずむ神秘の湖をイメージしていた山小舎おじさんは現実の白駒の池の姿に軽いショック。
よく言えば観光客を迎える体制の整った姿、悪く言えば俗化した観光地、それが白駒の池でした。

人気を離れると神秘さが増す白駒の池

池の周りをたどって、もう一つの山小舎がある白駒荘周辺にも行ってみました。
こちらは宿泊も可能な本格的山小屋のようです。

湖畔の宿、白駒壮

白駒の池は本格的登山客の目的地ではなく、ここから様々なコースへの登山の中継地点のようです。
本格的な登山客にとっては、休憩地としての白駒の池周辺の山小屋は大いに必要なものなのでしょう。

案内図を見ると白駒の池を中心に登山コースが伸びている

次々にやってくる観光客の姿を見ながらそんなこと思った山小舎おじさんでした。

小海町から佐久へ、渋柿を探して

白駒の池を出発してメルヘン街道を小海町方面へと下ります。
途中の追分を右折して松原湖を通って国道141号線を目指します。
松原湖周辺の紅葉も見事でした。

たどりついた141号線は、野辺山方面と作を結ぶ幹線道路で、小海町の中心部を通ります。
この道をとおると必ず寄ってしまう、高原のパン屋さん、スーパーナナーズなどが点在する山小舎おじさんの大好きなルートです。
大盛でドライバーやライダーに有名な食堂・風とりもあります。

この日のランチはナナーズの弁当です。
全国各地の地元スーパーの自社製造の弁当は山小舎おじさんのおすすめです。
ナナーズは佐久地方限定のスーパーです。

この日はヒレカツ弁当を買って車中ランチ。
コンビニ弁当に比べて食後の満足感が違いました。

ナナーズ小海店謹製ヒレカツ弁当で車中ランチ

食後の目的は渋柿探しです。
141号線沿いの直売所をのぞきます。
セロリ一束と紅玉リンゴ一袋を買いましたが渋柿はありません。
店長のお兄さんに聞くと、春先の遅霜でカキの成りが悪く、例年の出荷元からも出荷がないとのことでした。

渋柿は、この先の道の駅ヘルシーテラス佐久南でようやく一袋探し出しました。

様々な直売所を巡ったおかげで、白菜やビーツ、サツマイモなどを手に入れることができました。
いずれも山小舎で加工するなり、東京で利用するなりして活用したいと思います。

この日唯一手に入った渋柿。まだシーズンには早い?

紅葉シーズンの北八ヶ岳一周の旅でした。

機織り機解体

山小屋のベランダで保存していた機織り機を解体しました。

7年以上にわたりシート掛けで保管されていた機織り機

この機織り機、山小舎の先代住人(甲州街道金沢宿にあった古民家を現地に移築した方)が茅野の家からもらい受けて保管していたもの。
その家では当時健在だったおばあさんが機織りに使っていたというもの。

山小舎おじさんが来た頃はベランダに放置されていて、その後7年に渡りそのままでした。
山小舎おばさんのリクエストにより、保管していたのです。
山小舎おばさんとしても、機織りの技習得への意欲は当時あったようでした。

7年ぶりにシートを外した機織り機

今般、山小舎おばさんのお許しが出て解体撤去のこととなりました。
これまでもベランダの範囲の中で、一番奥だったり、手前だったりに機織り機を移動させたことがありました。何せ重いし、ガラも大きいので解体に際しては、家族来訪時に手伝ってもらおうかなと思っていました。

10月の晴れた日、自力でやってみるか、と機織り機を覆っているシートを外しました。
チェーンソーでも使って切り外して解体しようか、と思ってのことです。

改めてみると、機織り機というものの構造。
外枠のしっかりした枠組みのほかは、ほとんど空間の作りです。
経糸を張る仕組みがあるくらい。

つまり、外枠さえ解体すればよさそうなのです。
そして全体の枠組みは、釘などで打たれているのではなく、組み合わせにより行われているのです。
その組み合わせを、トンカチなどで叩いてほどけば解体できるのです。

トンカチとバリ、ペンチを持ってきて解体を始めます。

照明に使われている蛍光灯を外します。
経糸の保持と操作にかかわる細かなパーツ類を外します。
日本古来の工法によって組み立てられている機織り機は、後付けの部品を除き、釘やねじは使われていません。非常に効率よく解体が進みます。

後付けされた照明用の蛍光灯をを外す
経糸関連のパーツを外してゆく

機織りの命である経糸はセッテイングされたままでした。
これを撤去します。
経糸を取り外された機織り機は、その使命が完了しました。

経糸を外し終わる
外したパーツ類

外枠は頑丈な木材が使われています。
ホームセンターはおろか、材木店に注文しても現在では入手できるかどうか、と思われる硬く丈夫な材質です。これもトンカチ一つで解体できました。
組み合わせのホゾやなにかもきっちりと正確に細工されているからです。
昔の職人さんの仕事の正確さが偲ばれます。

残りの外枠
組み合わせ部分を外す
きれいに掘られたホゾ

次々と廃材が集まってゆきます。
パーツ類、角材、垂木などに分類します。

角材、太めの垂木は貴重な材質なので保存することにします。
組み合わさったままの部分は、もったいないのですが薪台に使おうと思います。

解体した外枠の角材
外枠に使われた垂木
組み合わさったままの土台部分

機織り機よ、長いことご苦労様でした。

同類の友は各地の郷土博物館でたくさん余生を送っていることでしょう。
中には現役で働いているものもあるでしょう。

機織り機が撤去されたベランダ

スペアリブ

山小屋の自炊料理の紹介です。

家族や、孫たちが来訪するときに準備する料理にスペアリブがあります。

スペアリブは豚のアバラ肉のこと。
漬け込んだスペアリブをバーベキューで焼いたりします。

山小舎ではスペアリブ肉を煮込みます。
よく煮込むと、味が染み込んだ肉がホロホロと骨から外れる絶妙な一品となります。

茅野のAコープでスペアリブのパックが売られています。
ここで売られている信州豚は、例えば肩ロースをスライスして炭火焼きにしたり、バラブロックを角煮にしたりすると絶妙なのです。

買ってきたスペアリブをニンニクを転がした油で焼き付けます。
外側が焦げるくらいに。
にんにくは焦げるので取り出しながら。

焼いた後の油とニンニクごと、スペアリブを、ひたひたより少なめの水とともに鍋に入れ煮込み開始です。

鍋を火にかけると同時に調味料を投入です。

赤ワイン、しょうゆ、チャツネ、焼き肉のたれ、黒コショー、塩麴、ケチャップ、セロリなど思いつく西洋煮込み料理の調味料を投げ込みます。
コクを出すため牛乳かヨーグルトも入れてみましょう。
隠し味の味噌もいいかもしれません。

調味料を投入しつつ煮込み開始!

山小舎独自の調味料としては、スペアリブによく合う柑橘系のジャム(マーマレードなどのジャム)と、玉ねぎのすりおろしが欠かせません。
トマトとともに、玉ねぎは西洋系料理のダシとして欠かせないのです。

おもむろに玉ねぎのすりおろしを投入

肉本体から出るダシ、玉ねぎとトマトから出るダシ、しょうゆなど発酵系調味料の味、これらが混然一体となって鍋中で踊り狂います。

アクと浮いた油を取り乍らストーブで3時間ほど煮込みます。

この後は翌朝まで涼しい場所(夏場は冷蔵庫)で鍋ごと休ませます。
翌朝は一面に白く浮いた油をスプーンなどで取り除き、鍋を再びストーブに載せます。

しばらく煮込んで油が浮いた状態。このまま冷まし油を除去する

これを3日ほど繰り返すと、汁が煮詰まり、肉はホロホロのスペアリブ煮込みの出来上がりです。

肉が崩れるので鍋のまま温め、慎重に大皿に移してサーブします。

出来上がったスペアリブの煮込み

孫たちにも好評のスペアリブの出来上がりです。

しその実の塩漬け

畑のしその実を採取し、塩漬けにしました。

酷暑を乗り切って今年も実をつけたシソたち。
収穫が遅れるとせっかくの実が硬くて食べられなくなります。
風雪に耐えたの武士のように枯れながら雑草の中に突っ立っているシソ。

茎ごと切って収穫し、実をこそげ取ります。
先端から根元に向かって指でこそげると実はきれいに取れます。

実をきれいに洗い、アクを取ります。
アクの取り方は1日水に漬けるか、熱湯でゆでこぼすかです。
風味が残るというので1日水に漬けることにしました。

しその実を洗う
洗いながら実以外のものを取り除く
1日水に漬けたシソの実
水気を切り分量の塩をまぶす

時々取り換えた水に1日つけたシソを塩漬けにします。
塩をまぶして重しをかけてもいいのですが、今年は、分量の塩でもんで保存袋に入れ冷蔵する方法にしました。

袋に入れて冷蔵保存する

ごはんにかけてよし、しょうゆを加えても良し。重宝な保存食ができました。

鹿沢温泉 紅葉館

群馬県にある鹿沢温泉に行ってきました。

10月の山小舎おばさんの山小舎来訪時に、二人で行ってきたものです。
鹿沢温泉は、長野県側から湯ノ丸高原を越えるとすぐのところにあり、山小舎からは片道1時間半で着きました。

湯ノ丸高原を過ぎて鹿沢温泉に到着

鹿沢温泉は、山小舎おばさんが独身の時にたびたび訪れた思い出の場所です。
当時、鹿沢スキー場があった場所に近くに、東京YWCAが山小舎を持っており、そこへたびたび泊まったことがあったのです。

車でない場合は、高崎乗り換えの吾妻線で万座鹿沢口まで行き、鹿沢温泉行の路線バスに揺られての長い長い行程だったようです。
たどりついた山小舎には管理人がツアー客と同行して参加したそうで、自炊ながら主食や調味料完備、暖房完備の居心地の良さだったとのこと。
また、YWCA小屋利用者は、鹿沢温泉唯一の旅館、紅葉館で無料で入浴することもできたのでした。

紅葉館の日帰り入浴用の入り口

何十年かぶりで訪れた鹿沢温泉に山小屋おばさんは感激しきり。
YWCAの小屋ははなくなっているとのことですが、紅葉館の建物を見ると昔の記憶がよみがえったように喜んでいました。

紅葉館は常時日帰り入浴が可能なようでした。
入浴料500円を払います。
広めの休養スペースがあり、資料が展示されています。
また、そば処があり、手打ちそばを食べることができます。

浴室は源泉かけ流し。
打たせ湯が常に流れ落ちています。
5人も入ると一杯の浴槽には、峠越えのライダーらしき先客が一人。
山小屋おじさんも外気の寒さから逃れるように熱めの湯に浸かりました。

シャンプーがあったので、打たせ湯をシャワー代わりにして洗髪。
一杯に広がったシャンプーの泡が、木製の床をゆっくりと流れてゆきます。
これまでも古い温泉には入りましたが、紅葉館もなかなか歴史を感じる温泉です。

本館から続く紅葉館の建物

上がった後はそば処で軽く食事。
入れ違いでやってきた夫婦連れ、4人組ともどもそばを注文。
このそばが美味しくて、また秘境感のある鹿沢温泉にマッチして、いいセットになっていました。

そば処のざる蕎麦。うまかった

群馬県の端っこで東京からは地の果て感満載のの鹿沢温泉ですが、長野県からゆくと峠を越えてすぐの場所。
また来たいという山小舎おばさんの思い出の場所再訪でした。

山小屋の紅葉

10月も半ばを過ぎました。
東京の自宅に1週間ほどいて家族の養分を補給した山小屋おじさんが、山小舎に戻ってきました。

標高1400メートル以上の山小舎周辺は季節が進んでいました。

日差しが厳しく、外へ出るのも苦痛だった今年の夏も今いずこ。

10月に入っては、ミズナラから落ちるどんぐりの音のみが響いていた山小舎。

今年も例年のように木々が紅葉し始め、落ち葉が舞い始めました。

まだ紅葉は始まったばかり。
今のうちにあちこちへ出かけて眺めておこうと思います。

冬はあっという間に来るでしょう。

今年の干し芋

秋は食品加工のシーズンです。

初夏から夏にかけては果物や夏野菜をジャムやシロップ漬けにするシーズンでした。
秋になると果物の種類は減って、代わりに芋類、根菜類、豆類などが出回ってきます。
種を利用する野菜もあります。
これらを乾燥させてりして保存する季節の始まりです。

ヘチマたわしに続く、秋の加工シーズン第二弾として、干芋を作りました。

山小舎おじさんの畑では今年はサツマイモを作付けしませんでした。
最初の年の豊作以来、サツマイモは不作なのです。
植え付けの時期の乾燥や、ツルが伸び始めたときの獣害などがあり、ほとんど収穫に至らない年が続きました。
サツマイモに手をかける余力もなく、今年は作付けをあきらめていました。

秋を迎え、直売所に地元産のサツマイモが並び始めました。
大きめで丸く厚みのあるものをチョイスします。

洗った後、ストーブにかけた蒸し器に並べ時間をかけて加熱します。

蒸しあがったのを確認して、皮をむき、スライスします。
軍手を使って作業すると芋が熱くても大丈夫です。
ピラーに皮が詰まって、皮むきに手間がかかるのが欠点です。

干しはじめ直後の芋たち

スライスした芋をザルに並べて、夜はストーブのそばに、天気の良い日中はお日様のもとで乾かします。

今年の芋は、中心部が白っぽく出来上がるのが半分近くありました。
干芋本来のねっとりした出来上がりを期待した山小屋おじさんは少々がっかり。

ほぼ干しあがった芋たち。真ん中が白いものが目立つ

思えば、蒸しあがりをスライスしている時点で芋の中心部が透明感がなく、ボソボソしていたものがありました。
芋のせいなのか、蒸し時間が足りなかったのか、あるいは複合的な理由で芋の糖化がうまくいかなかったのかわかりません。

そういった芋は干した後も、白っぽくボソボソした出来上がりになりました。
もちろん食べられますが、期待した出来上がりではありません。

まだまだ秋は続きます。
再トライしたいと思います。

アンナ・カリーナの美しさ!「女と男のいる舗道」㏌上田映劇

上田映劇で「ジャン=リュック・ゴダール反逆の映画作家」(2022年)公開を記念に、ゴダールの初期作が3本上映された。
そのうち「女と男のいる舗道」に駆け付けた。

当日の劇場前ディスプレイ

本作はゴダールの長編4作目で、アンナ・カリーナのゴダール作品出演3作目にあたる。
二人は1961年の「小さな兵隊」の後にゴダールの熱烈なアタックにより結婚していた。

長編第1作の「勝手にしやがれ」をモノグラム映画社(B級専門のハリウッド映画会社)に捧げ、第3作目の「女は女である」をハリウッドミュージカルに捧げたゴダールは、4作目の「女と男のいる舗道」をB級映画に捧げている。

2作目の「小さな兵隊」はアルジェリア戦争をモチーフにした独自の政治的スタンスに基づくオリジナルな作品だったから除くとして、ほかの3作品はアメリカ映画のスタイルへの仮託を標榜した作品が続いていたとことになる。

この事実には、前提として映画批評家ゴダールの深い映画的経験と、その志向(アメリカ映画のそれもB級映画が好き)があるにせよ、映画監督としてのキャリアの浅さからくる自信のなさがうかがえる。

長編劇映画を作ることは、収益上の責任を持つということで、ヒットすることが劇映画の監督を続けられる必要条件となる。
ゴダールは、目くるめくストーリー性があるわけでもなく、集客力のあるスターが出ているわけでもない自身の作品を、既存のカテゴリーに仮託して観客に提示せざるを得なかったのだろう。
自虐的であるとも、客観的であるともいえる行為である。

劇場前の上映予定看板

「女と男のいる舗道」 1962年  ジャン=リュックゴダール監督  フランス

この作品、はるか昔に16ミリ版のフィルムで見たことがある。
暗い画面に、アンナ・カリーナがうつむいてばかり、という印象だった。
暗いのは内容ばかりではなく、映写機によって映し出される画面が物理的に見えずらいのだった。.

この度上映されたデジタル版では、映像がクリアに抜けていて、明るい場面でも、暗い場面でも、中間の場面でもその通りに再現される。
いい時代になった。

チラシより

当時22歳、若さはもちろん、本来の可憐さが残るアンナ・カリーナ。
初々しく緊張した「小さな兵隊」、天真爛漫な「女は女である」を経て、若さの中に憂いと陰影を加えた表情を見せる。
「気狂いピエロ」「メイドインUSA」などカリーナ=ゴダール時代の後期作では疲れと不機嫌さが目立つ(ゴダールとの離婚後の作品ということもあるか?)カリーナにあって、その若々しさが残る最後の作品なのかもしれない、(「離れ離れに」は未見だが)。

この作品でのゴダールのカリーナに対する視線は、「小さな兵隊」における、まるで自主映画の監督が主演に連れてきた女優に対するような憧れを隠せないようなもの、から、カリーナの内面に迫るものに変化している。

カリーナの髪形、衣装、メイクはかなり凝っており、短髪(かつら?)、アイシャドーを施したばっちりメイクは、映画が進むにつれ濃くなってゆく。
若々しいカリーナの肌は濃い化粧のノリもよく、また化粧負けしてもいない。

チラシより

愛するカリーナに、夫と別れて出奔し、家賃も払えないほど困窮し、友達に誘われて街娼となり、ヒモにいいように翻弄される女性を演じさせるゴダール。
カリーナは、カール・ドライヤーのサイレント映画「裁かるるジャンヌ」を見て涙し、カフェで自分を見ていた哲学者と会話を交わす。
金もなく、街娼の境遇にまで至った女性だが、自らの内面を見つめようと無意識にせよ模索し続ける。

ゴダールは突き放した視線で、カリーナ扮する無垢な女性の内面を捉え続ける。
同時に、ジュデイ・ガーランド(カリーナが務めるレコード店で客がそのレコードをオーダーする)、エリザベス・テーラー(カリーナの背後にポートレートが貼ってある)などゴダールのアメリカ映画趣味が垣間見られたり、「突然炎のごとく」公開の劇場に並ぶ観客の実写カットなどの楽屋落ち(仲間のフランソワ・トリュフォー作品なので)があったりもする。

カリーナは本作での自分の姿を見て、きれいに撮れていないと激怒し、ゴダールとの離婚の一因ともなったという。
客観的に見てアンナ・カリーナの若き日の代表作ともいえる本作は、彼女の表面上の美しさだけではなく、内面の葛藤もとらえた画期的な作品である。
カリーナの無理解は、映像的なものからくるのではなく、その内面に迫ろうとした作風に対するもののようだ。

講談社現代新書

講談社現代新書「ゴダールと女たち」(2011年刊 四方田犬彦著)では、本作について「ゴダールがこのフィルムで試みたことは(中略)みずからの眼差しによってアンナの身体の内側に隠されている魂の美しさを引き出し、画面に定着させてみせることだった。(攻略)」(同書 P68)と評している。

同書目次

ゴダールのその試みは十分達成され、「女と男のいる舗道」は22歳のアンナ・カリーナの姿が永遠に刻印された記念碑的作品となった。

ゴダールとカリーナのコンビは、映画史上では、スタンバークとデートリッヒ、溝口健二と田中絹代、小津安二郎と原節子、に比べることができるのかもしれない。
ヒッチコックとグレース・ケリーというコンビもあった。
いずれも手練れの業界人同士によるビジネスカップル(小津と原はプラトニックな関係。ヒッチコックは一方的な横恋慕)だが、結婚までいったゴダール組はある意味正直で素人っぽかった。

アンナ・カリーナはゴダールとの結婚期間中からそれ以降、ゴダール以外の多彩な監督作品に出演している。
「輪舞」(1964年 ロジェ・バデイム)、「修道女」(1966年 ジャック・リヴェット)、「異邦人」(1968年 ルキノ・ヴィスッコンテイ)、「悪魔のような恋人」(1969年 トニー・リチャードソン)などなど。

このそうそうたるキャリアは、カリーナ本人の才能によることもさることながら、ゴダールの眼を通して探求、表現されたその諸作品におけるアンナ・カリーナの魅力が、名匠たちにインスピレーションをもたらして実現したもの、と思えてならない。

DVD名画劇場 ハリウッドカップルズ① メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス

手許に「ハリウッド・カップルズ」(キネマ旬報社1998年刊 筈見有弘著)という本がある。
1930年代から90年代にかけて、ハリウッドで人気を博したカップル(ビジネスカップルも含む、というかそれがほとんど)について書かれており、キネマ旬報での連載をまとめたものだという。

連載にあたって古い作品や日本未公開の作品を、ビデオで見直し、またニューヨークに毎年通うなどして拾って歩いたという、映画評論家筈見有弘の著作。
内容は個人的作品評論に偏重せず、古い作品群の紹介や映画人の回顧録などの文献からの引用を多用し、記録としても貴重な著書となっている。

「ハリウッド・カップルズ」表紙

この本の最初に登場するのが、メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス。
ハリウッドの伝説上のカップルである。

同・目次

「アメリカン・スイートハート」と呼ばれた永遠の少女スター・メリーと、一代の剣劇スター・フェアバンクスは、実際に結婚していたビッグカップルだが、共演作は1929年の「じゃじゃ馬馴らし」ただ一作。
1910年代から人気を誇っていたメリー37歳の、いわば「晩年」の作品となる。

ハリウッド映画史で、初めて名前で観客を集めることができたという、スター第一号のメリー・ピックフォードとは何だったのか。
ここに、スター・メリーの本質に迫った著書がある。
「ハリウッド☆不滅のボデ&ソウル銀幕のいけにえたち」(1980年フィルムアート社刊 アレグザンダー・ウオーカー著)である。

「銀幕のいけにえ」表紙

前書きには、この本のねらいとして、「スクリーンに、またそのスター自身にあらわれでた女性のセクシュアリテイの本質をきわめること。」とあり、セダ・バラ、クララ・ボウ、デートリッヒ、ハーロー、モンローなど10人のスターが取り上げられている。
メリー・ピックフォードが第二章に登場する。

同・目次

1893年カナダトロントで生まれたメリーは5歳で父親を亡くし、以降母親と兄弟を養うべく旅芸人とともに舞台に立つ。
13歳の時、ブロ-ドウエイのプロデユーサーに自らを売り込み巡業団の女優となり、16歳でバイオグラフ社というD・W・グリフィス率いる映画会社に採用される。
清純な少女が好みのグリフィスの眼に敵ったという説があるが、グリフィス作品の常連にはなっていない。

メリー・ピックフォード

1910年代を迎えていた映画界は、全米で1万館を超える映画館(ニッケルオデオン)が大衆的人気を博し、製作側も資本投下を本格化して作品の質的な向上が起こった時期。
当時、俳優の名前はスクリーン上に表されていなく、「巻毛の少女」として大衆に親しまれ始めていたメリーは、はじめてメリー・ピックフォードという芸名をスクリーンに映し、大衆に知らしめた映画俳優となる。

150センチちょっとの身長と童顔。
幼い兄弟の親代わりに過ごしたリアルな幼女時代の体験に基づいた演技力。
巻毛と子供用エプロンの衣装。
これらは、当時の観客が求める少女像にぴったり適合し、小公女、あしながおじさん、不思議の国のアリスなどを題材とするメリー主演の映画はヒットし続けた。

「ハリウッド☆不滅のボデ&ソウル銀幕のいけにえたち」では、この時期のメリーの演技について、古い価値観に縛られ、大衆人気に迎合した少女像を演じながらも、随所に覗くセクシュアリテイについて指摘している。
それらのセクシュアリテイは、決して大衆を扇動し、新たな風俗を出現させるようなものではなく、大衆にとっては彼らの住む裏街のコミュニテイでは日常茶飯事のことだった、と。
それこそがメリーという女優の本質だったのだろう。

メリーとグリフィス(左)

実際のメリーはしっかり者で、契約更新のたびに倍増するギャラの交渉にも抜け目なく、名を成してからは、監督、製作者よりも製作現場で権限を持つ契約内容を要求した。
これはのちに、グリフィス、チャップリン、フェアバンクスとともに映画製作会社、ユナイテッドアーチスツを設立する行動につながる。

また、30歳を超えても少女役を要求される状況から脱しようと、人妻やヴァンプなどの役に挑戦するがヒットはせず、これが1933年に迎える女優人生の終焉につながった。
私生活では3度の結婚。
フェアバンクスとの結婚はお互いに2度目の結婚だった。
生活は堅実で、二人が暮らす豪邸でのパーテイは、ハリウッドスターにありがちな酒池肉林的なものではなかったという。

「じゃじゃ馬馴らし」 1929年  サム・テイラー監督  ユナイト

メリーとフェアバンクス唯一の共演作。
それまで共演作がなかったのは、それぞれが単独で十分商売になったこと、さりながらこの時代になってお互いの人気に陰りが出てきたことによるという。

「じゃじゃ馬馴らし」日本公開時のポスター

シェークスピア原作の映画化。
興行収入、批評共にパッとしない(というか惨憺たる実績と評価の)作品という。

フェアバンクスに鞭をふるうマリー

フェアバンクスの剣劇スターとしての動きはともかく、メリーは伝説の少女役を卒業し、じゃじゃ馬そのものの役を演じている。
そこにメリーの女優としての真価が見られたのかどうか。

結婚したマリーはフェアバンクスから仕返しされる

美人女優としての素地は隠しようがなく、整った美貌のメリーが、父親や妹に当たり散らし、鞭を振り回す。
そこへ財産目当てに駆け付けた頓珍漢な男、フェアバンクス。
相手の気持ちにかまわず、己をしゃべり散らかしメリーに接近。
それならばと、心許すふりをして痛撃を加えようと手ぐすね引くメリー。
まるで実際のメリーとフェアバンクスのカップル像のようにも見える。

堂々たるマリーと苦笑いのフェアバンクス

とおりが良く朗々としたセリフに、大都映画のアクションスター・ハヤブサヒデトのような、ファンタステック!なフェアバンクスのアクション。
正統派美人の気品と貫禄をたたえつつ、リアルなヒステリー演技に徹するメリー。

功成り名を遂げたスター達が、「流した」演技で撮ったフィルムのようでもあり、さりながら一代の名俳優がその実力と経験を示した熟練の「十八番」のようでもあり。

「ハリウッド・カップルズ」では、メリーとフェアバンクス夫婦について、
「(二人の屋敷は)ハリウッドの大使館のような役割を果たしていた。私生活を隠すスターが多い中にあって彼ら夫妻は、ファンあってのスターであるというポリシーを崩さなかった。そうした態度を崩さなかったことによって業界からの信望は厚くファンからも支持された。」と評した。

私生活に問題が多く、今の時代であれば(昔であっても)、性加害、幼児虐待、パワハラ、殺人などの犯罪行為で社会的制裁を受けてしかるべき人間に事欠かなかったハリウッドにあって、これは最上級の賛辞なのではないか。

ヘチマたわし完成?

畑で収穫したヘチマをたわしに加工しました。

適当な長さに筒切りして煮込み、皮を除きます。
この時点で繊維だけになるのですが、繊維には皮の緑色が色濃く残り、種もたっぷり含んでいます。
4~5日の間、水を替えつつ、脱色と種抜きをしました。

もういいかなと思った頃、繊維の水を絞って天日干ししました。
絞った繊維は日に当たって形を回復させてゆきます。

水を絞って天日乾燥させる

ざっと乾いた後は、ストーブの近くに置いて乾燥状態を継続させています。

心配した色残りも少なく自然な感じの色になりました。

乾燥状態では硬く、これで体をこすると痛くないのかな?と思われます、が水を含ませるとちょうどよくなるのかもしれません。

台所で使うにはいいでしょう。

画像を見た小学3年生の孫が興味を示したということです。

完成?したヘチマたわし