映画のまち 調布

調布は映画のまちです。

日活が戦後に東洋のハリウッドという触れ込みで作った日活撮影所が、京王線の布田駅から多摩川に向かった場所にあります。
かつては石原裕次郎達スターが、会社のマイカーで土ぼこりを立てて、撮影所に向かう田圃の中の道を走って通ったそうです。

映画監督の鈴木清順は日活解雇後もしばらく調布市内の市営住宅に住み、奥さんが新宿ゴールデン街のバーで働いて生計を立てていたようで、その時代の「アサヒグラフ」巻末連載の「わが家の夕飯」に、市営住宅の一室で襖をバックに一人夕飯(というか酒と肴)をわびしく聞し召す壮年時代後半の清順氏が掲載されていたこともありました。

また、京王多摩川駅の近くには大映の流れをくむ、角川大映スタジオがあります。
戦前の日活多摩川撮影所から始まり、戦時中に大映に組織替えし、戦後の映画最盛期には、道路を挟んだ向かい側と、都立調布南高校の敷地になっている部分を敷地に加え、さらに隣地に大映村と称する社員住宅(家族寮、独身寮、風呂などを完備)まで備えていたという撮影所です。
今は入り口に大魔神とガメラが立っています。

かつては、調布市立の郷土資料館ではロビーに大きな35ミリ映写機が展示されていました。

これらの歴史的遺産を背景にした町おこしがささやかに調布で行われています。

品川通りという、京王線と多摩川の間を通る街道の脇で「映画のまち」による町おこしが行われていました。

品川通りからモニュメント越しに見た風景

映画フィルムをデフォルメしたのでしょうか、モニュメントがたち、パネルというか看板には映画製作の流れをイラストにして描いています。

映画ができるまでのパネル展示
京王線調布駅の表示板。映画フィルムをあしらったデザイン

オープンな広場というか通路で自然に「映画のまち」を市民にアピールしようというコンセプトでしょうか。

市内唯一のディスコ・ginzが付近にある

付近には調布市内唯一のデイスコにしてライブ会場でもある、ginzがあります。
入ったことはないのですが、ここのバンドの演奏を聞いたことがあります。
山小舎おじさんと同年代と思えるメンバーとやや若めの女性ボーカルがご機嫌にスイングしていました。
おじさん年代(の青春時代)を直撃するナンバーの数々もご機嫌でした。

折から市内の上石原地区では「近藤勇生誕の地」で町おこし

film gris特集より① 赤狩りとジョン・ガーフィルド

ジョン・ガーフィルドは1940年代に活躍した映画俳優。
ロシア系ユダヤ人としてニューヨークに生まれ、幼くして母を失い、一家離散のまま貧民街で育った。
10代の時、のちのアクターズスタジオとなるシアターグループに参加し演劇への道に入る。

舞台で人気が出た後、ワーナーブラザースにスカウトされ、1938年に映画デビュー。
ヒット作がなくこの間の代表作は、デビュー作の「四人の姉妹」(1938年)を除けば、MGMにレンタル出演となった「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1946年)などにとどまる。

1946年、独立して自身のプロダクション、ロバーツプロ(ガーフィールドのマネージャーであるボブ・ロバーツをプロデユーサーとする)を立ち上げ、独立プロのエンタープライズと提携。
すでにハリウッド入りしていた共産党系映画人たち、エイブラハム・ポロンスキー、ロバート・ロッセンらと組んで作った「ボデイアンドソウル」(1947年)や次回作の「悪の力」(1948年)が生涯の代表作となる。

1951年の「その男を逃すな」が遺作となり39歳で没。
心臓発作が死因といわれるが、1951年の非米活動調査委員会(通称:ハリウッド赤狩り)に証人喚問されたことなどによる心労が遠因だった。

1951年、非米活動調査委員会にて証言するガーフィールド

シネマヴェーラ渋谷で2023年末から新年にかけて上映された「film gris」特集は、1947年から51年にかけて製作された「アメリカ社会に対する左翼的な批判を特徴とするフィルム・ノワール作品」を集めてのもので、エイブラハム・ポロンスキー、ジョセフ・ロージー、ロバート・ロッセン、ニコラス・レイ、ジョン・ベリー、サイ・エンドフィールド、ジュールス・ダッシンなどの監督作品がピックアップされた。
いずれの作家も、赤狩りの証人喚問を受けたり、ブラックリストに載って干されたり、海外へ脱出するなど、非米活動調査委員会による迫害を受けた人物である。

この特集で、ジョン・ガーフィールドの出演作品も4本ほど上映されており、当該作品の監督、脚本は多くが喚問を受け、ブラックリストに載り、のちに亡命するなどした映画人たちである。

ガーフィールド自身は、非米活動委員会における証人喚問において、自身の共産党入党の事実や共産党に対するシンパシーを全面否定し、また仲間の活動歴について全く知らないと証言はしたものの、当時別居状態ではあった妻が共産党員であるなど、演劇時代からハリウッド時代に至るまで、共産党員やそのシンパとの深いつながりがあったのは事実だった。

赤狩り時代に、証人喚問され、またブラックリストに載った映画人が実名で仕事をし続けるためには、共産党員もしくはシンパの仲間を告発するしかなかった(エドワード・ドミトリく、エリア・カザン、ロバート・ロッセンらのちの有名監督が仲間を告発し「転向」した)。

ジョン・ガーフィールドは仲間を売らずに、永遠に自らの実名(芸名)を映画史に残すことができた。
自らの死によって。

シネマヴェーラ渋谷でのfilm gris特集ポスター

「ボデイアンドソウル」 1947年  ロバート・ロッセン監督  ユナイト

エンタープライズプロ製作(ユナイト配給)によるボクシング映画のレジェンドにして金字塔。

本作の監督はロシア系ユダヤ人としてニューヨークに生まれ演劇人として活躍。
演出した舞台を映画監督のマービン・ル・ロイに認められてハリウッドにスカウトされた、ロバート・ロッセン。

原案・脚本は同じくロシア系ユダヤ人として薬剤師の親の元、ニューヨークに生まれ、小説家志望ながら弁護士の資格も持つ共産党員のエイブラハム・ポロンスキー。
彼は戦時中に書いた小説を読んだパラマウントからスカウトされハリウッドにいた。

ハリウッドで寄寓を得た才能ある左翼のユダヤ人たちが、結果としての転向(ロッセン)、追放(ポロンスキー)、自死(ガーフィールド)を迎えるまでのつかの間に産んだ貴重な傑作「ボデイアンドソウル」。
それは、チャップリンにとっての「独裁者」、オーソン・ウエルズにとっての「市民ケーン」のように、稀有な才能が千載一遇のチャンスに遭遇し、奇蹟によって生みだし、そして歴史上に残った映画だった。

開巻からエンドまで、緊張感と映画的興奮に満ち、作り手と演じ手の高揚が伝わってくるかのような映像が続く。

都会の貧民街で菓子屋を営むユダヤ移民の家庭に生まれ育ち、ボクシングしか知らない主人公チャーリー(ガーフィールド)が、金のためにプロで売り出し、やがて世界戦を組まれるまでになるが、待ち受けていたのはボクシング界を仕切る賭けと八百長の世界だった。

それまでは差別や貧困に苦しみながらも力で状況を切り開いてきた主人公。
勤勉を旨とし、力を信奉する息子に忸怩たる思いの母親(「緑園の天使」の母親役で忘れられぬ印象を残し、赤狩りでハリウッドを去ったアン・リヴェアが扮する)。
菓子屋のレジから「ボクシングの道具代に」となけなしの10ドルを主人公に渡してくれた父親は、暴走車が店に突っ込んで下敷きになって死んでゆく。

学生チャンピオンになり、民主党議員のパーテイに呼ばれ、壇上に現れたミス民主党の女性ペグ(リリー・パルマー)の部屋に押し掛けるチャーリー。
画学生のペグはバイトでモデルをしており、たまたま民主党議員のパーテイーにミス役で雇われていたのだった。
ペグが話す英語の発音に注目するチャーリー。
ペグも移民だとわかる(リーリー・パルマー自身がドイツ人)。
移民の子孫の若者同士に芽生えるシンパシー。

親しくなったペグがチャーリーに実家を訪ね、夕食を共にしている時に民生調査員がやってくる。
母親がチャーリーの奨学資金にと申し込んだ融資に対する役所の調査だった。
「ユダヤ系白人ですね・・・」に始まる調査員の身元調査。
チャーリーの両親が東欧・ロシア系のユダヤ人であることがわかる。
ボクシングで身を立てる決心をしているチャーリーは夕食の最中にやってきたこの調査員を追い出す。

別の場面。
チャーリーの実家の台所。
たまたま寄った近所の住人(聖書由来のバリバリのユダヤ人ネーム)がブドウを食べながら「エデンのようだね」と喜ぶ。
何気ない近所の移民同士の交流。
会話に加わり、ブドウを口にしたチャーリーだが、旧態依然とした同胞の傷をなめ合うような慣れあいにブドウをたたきつけて苛立ちをあらわにする。

映画の各所にちらちら現れるチャーリーらのユダヤ人としての苦い思い出。
ただし、ポロンスキー脚本のユダヤ人に関する描写には、差別に対する被虐趣味や懐古趣味にとどまらない。
主人公に決然とした態度を取らせることにより、尊厳と現状打破とを志向する姿勢がある。

この姿勢は映画の最後まで貫かれ、チャーリーは八百長を仕組んだプロモーターに抗して掟破りの真剣勝負に出る。圧倒的興奮の中、チャーリーに駆け寄るペグ。
抱き止めたチャーリーは、にらみを利かせる八百長プロモーターの前で「最高の気分だ」と叫ぶ。

ボクシングシーンの撮影風景

「ロッキー」で劣勢の強敵を打ち破り「エイドリアン!」と叫ぶスタローンの名場面の原典でもあろう名シーン。
そういえば「ボデイアンドソウル」のヒロイン・ペグは最後まで主人公を信じて陰ながら支えるという点では、「ロッキー」のエイドリアンの原典ともいうべきヒロイン像ではないのか。

筆者が見た版では「最高の気分」のチャーリーが、悪徳プロモーターの意味深な祝福を受けながら、ペグと抱き合うところで終わる。
監督のロッセンは、掟を破ったチャーリーがプロモーターに殺されるカットで終わらせたかったが、ポロンスキーが脚本の改訂を許さなかったという。

八百長を操りながら、自らの利益のみを追求するプロモーターを執拗に描写するなど、ポロンスキーの脚本は世の悪=権力をリアルに表現するが、自らの力を信じて突き進む主人公や、一筋に主人公を信じるヒロインを通して、世の中への希望のような感性も大切にしている。

映画的興奮の中に「現実」と「希望」を描き切った本作は映画史上の傑作だった。

エイブラハム・ポロンスキー

監督のロッセンは、この作品の後「オールザキングスメン」(1949年)を演出し、アカデミー賞の候補となるが、同時にハリウッド赤狩りの餌食となり、結局、党員を密告して転向。
のちに名作「ハスラー」(1961年)でハリウッドにカムバックするが、作品を覆うのは苦渋に満ちたムードだった。
彼も赤狩りによる犠牲者だった。

シネマヴェーラの特集パンフより

「悪の力」 1948年  エイブラハム・ポロンスキー監督  MGM

「ボデイアンドソウル」はヒットした。
エンタープライズプロは、ガーフィールドの主演で次作を企画。
「ボデイアンドソウル」の脚本家ポロンスキーを監督、脚本に迎えて制作したのが「悪の力」だった。

そこには、ポロンスキーのテーマともいえる、個人と権力の対決、権力の怖さ・悪辣さ、悪に染まらない個人の心情のピュアさ、が、あえて映画的興奮を排した画面でよりシンプルに描かれている。

「悪の力」の一場面

この作品のガーフィールドの役柄は移民ユダヤ人家庭から成り上がった弁護士で、ナンバーくじを非合法に扱う組合の顧問を務めているというもの。
いわば悪徳弁護士の役だ。

ガーフィールドの兄は弁護士の夢をあきらめて弟を援助し、今では貧民街の個人業者として非合法ナンバーくじに関わっている。
じり貧の兄を救おうと、自らのネットワークを逆手にとって巨大な非合法くじの組合を出し抜こうとしたガーフィールドだが、悪の世界では1枚も2枚も上手の相手に逆襲され、兄を殺されたうえに、自身も社会的に抹殺される。
川岸に無残に捨てられた兄の死体を残し、すべてを失った主人公が悪の世界を白日の下に晒して戦おうと歩きだすのがラストシーン。

「ボデイアンドソウル」と異なり、主人公は知力と計略を武器に悪=権力と戦う。
といっても貧民出身の主人公は、すでに悪の世界の使い走りの身でもある。
最後に残ったわずかな正義感と、家族への恩返しの気持ちから、兄を救済しつつ悪の世界を裏切ろうとする。

最初は弟の申し出に兄が猛反発する。
そこには貧しいながらも己の才覚で底辺を生き抜いたプライド(おそらく民族的プライドも)がある。

主人公は兄を説得し、悪の組織の足元をすくおうと知力を尽くすが、一筋縄ではいかない。
悪知恵の世界も奥が深く、図式は単純ではない。
ここら辺のポロンスキー脚本のち密さはすごい。

主人公を巡る女性達。
しっかり者の母親。
兄の事務所で出会う無垢な女性(ビクトリア・ピアソン)。
彼女らは最後まで主人公を信じ、陰乍ら応援する。
「ボデイアンドソウル」の母親とペグと同じ図式で、ポロンスキーの母性や女性に対する心情には、純粋なものへのあこがれがある。

本作はエンタープライズプロ作品でありながら、つながりのあるユナイトに脚本段階で配給を断られ、MGMに持ち込まれて実現した。
作品はヒットせず、エンタープライズプロ倒壊の一因となる。
万が一ヒットしたとしても、ガーフィールドをはじめ、ポロンスキー、ロッセンら主要メンバーはこの後の赤狩りとブラックリストによって活動を制限されたのが歴史上の事実であり、いずれにせよ同プロの命運はここまでだったろう。

テーマの人間性、作劇の巧みさ、人物像の描写など、稀有な才能の持ち主、エイブラハム・ポロンスキーをたっぷり堪能できる作品は、「ボデイアンドソウル」と「悪の力」の2本のみを残し、赤狩りの嵐とともに歴史から過ぎ去った。

ブラックリストに載ったポロンスキーはハリウッドを離れ、仕事の場をニューヨークのテレビに移した。
映画監督への復帰は、実に「夕陽に向かって走れ」(1969年)まで待たなければならなかった。

シネマヴェーラの特集パンフより

「その男を逃がすな」 1951年  ジョン・ベリー監督  ユナイト     

ジョン・ガーフィールドの遺作。
39歳だった。

彼の持ち味だった下層階級出身の小悪党役。
今回は粗暴で無知なチンピラ強盗に扮し、逃亡中に成り行きである家庭に立てこもることに。

逃亡中にプールで出会った若い女(シェリー・ウインタース)の家庭に潜り込む。
父親が新聞社の職工、娘(ウインタース)はパン屋のウエイトレスという、堅実だが中流以下の家庭。

「異物」としての侵入者(ガーフィールド)を迎えて、恐怖というよりは戸惑いを隠せない家族たち。
だんだん侵入者のガーフィールドが「迷惑者」「被差別者」に見えてくる。

このあたりの映画的建付けは、家庭への侵入者をひたすら恐怖の対象とした「必死の逃亡者」やサイコパスな侵入者の恐怖を描く「恐怖の岬」などと異なる。
余分な恐怖感を排した分、侵入者と一般家庭との、下層階級者同士ではあるが、根本的な「違和感」「ズレ」を際立てている。

ガーフィールドと女(ウインタース)の関係も微妙で、女はガーフィールドに、ときに同情的でときに救済的な態度を示す。
表面上は粗暴な犯罪者でありながら、実態は社会的弱者でもあるガーフィールドは、彼女の心情が理解できず破滅してゆく。
「無知や粗暴さの故だけではなく、民族差別や貧困を故とする社会的弱者」は所詮救われないのだ、というのがこの作品のテーマであろうか。

シネマヴェーラの特集パンフより

左翼でもあった監督のジョン・ベリーは、非米活動調査委員会の召喚を待たずにヨーロッパに渡り、ハリウッドの戻ったのは60年代後半になってからの経歴を持つ。
製作は「ボデイアンドソウル」「悪の力」のビル・ロバーツ。

重要なヒロイン役を演じるのはシェリー・ウインタース。
薄幸な女性だったり(「陽の当たる場所」(1951年))、豪快な鉄火女だったり(「フレンチー」(1950年))、母親役だったり(「アンネの日記」(1959年))と広い役柄を誇る。
本作「その男を逃がすな」では、彼女の若いころの当たり役「薄幸だが母性的な女性」を存在感をもって演じており、作品に深みをもたらせていた。

山小屋の新春

2024年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

令和6年、辰年のお正月は4日から山小舎で過ごしました。
孫一家と雪遊びをするためです。

暖冬の昨今、麓の茅野がカラッカラで、まるで冬ではないような塩梅。
果たして山小舎に雪はあるのか?

その心配は白樺湖の湖面の凍結を見て若干の解消。
姫木別荘地内の真っ白な景色を見るに至って、で安心に変わりました。

早速孫たちは山小舎の前でカマクラを作り、翌日は家族でゲレンデへ出てスノーボードを教わり、また山小舎前で橇遊び、と冬を満喫していました。

最後は雪だるまを作ってご満悦。
楽しく、若々しい新年となりました。

年の瀬の信州  茅野

茅野駅周辺で、「年の瀬」を探しました。

茅野駅とつながっている商業ビル・ベルビアのホールには巨大なクリスマスツリーが立っています。
12月も中旬を迎え、ツリーの足元にデコレーション?が施されていました。

ベルビアのロビーの巨大なツリーとデコレーション
ベルビアの駅通路入り口。メリークリスマス!

最初はイエス生誕のベツレヘムの風景でも模したのかな?と思いましたが、そうではないようです。

今度はベルビアと反対側の茅野駅東口へ行ってみました。

駅の外へ出て、SLがおいてあるあたりを見ると、立木にイルミネーションが施されているのが見えました。
駅周辺の年末の「映え」スポットのようです。
昼間なのが残念です。

東口広場のイルミネーション

更にポスターにつられて市民会館へ行ってみると、ホールの片隅にクリスマスツリーのデコレーションがありました。
観る人もいなくがらんとしたホールが寂しかったですが。

会館内のレストランは食事やお茶をたしなむ地元マダムたちで賑わっていました。

駅の連絡通路でポスターを発見
市民会館のロビーに飾られたツリー
市民会館の通路には子供が作った三角帽子も

茅野にも静かに年末がやってきます。
メリークリスマス!

師走の茅野駅ホーム。はるか向こうに八ヶ岳

信州ソウルフード放浪記VOL.36 茅野市北山イリセンの生寒天

山小屋から白樺湖を横に見て茅野のまちへ下りる途中に、北山という地区があります。
北山地区は大門街道沿いに集落が並び、背後に田んぼが広がる茅野市の郊外です。

北山地区の湯川集落を大門街道から少し入ったところに寒天工場イリセンがあります。

有限会社イリセンの販売棟全景

何年か前、トコロテン状に突いた生寒天を食べていっぺんにファンになりました。
夏だったので、キューリやトマトをのっけて酢醤油をかけ冷やしラーメンのようにして食べたのですが、その美味しいこと。
それ以降、場所を聞いて工場を訪ねること数回になります。

工場では、まだ若い経営者が人懐っこく対応してくれます。
ホームページを立ち上げ、ネット販売を手掛けている今どきの経営者です。

直売コーナーには、テレビの「昼飯旅・あなたのご飯見せてください」に経営者が出演したときの写真が飾ってあり、南海キャンデイーズのしずちゃんが旅人で映っていました。
番組はヤラセなしなの?と聞くと、「ヤラセです」と答えてくれました。

直売所入り口

経営者によると「寒天の生産は全国で茅野地区のみ。冬場に全量を生産し、干して出荷していた。いまでは生寒天を随時作って売っているが主に冬場に生産するのは変わっていない。北山は水がよく冬は寒いので寒天の生産に向いている。」とのこと。
話し始めれば止まりません。

直売所内部

山小屋おばさんも生寒天のファンなので、来訪に合わせて2本買いました。
1本はトコロテン用に突いてもらいました。

棒寒天はサイコロ状に切って、果実のコンポートと合わせ、アイスクリームなり黒蜜なり、あんこなりを添えたデザートにします。
トコロテンはやはり酢醤油で食べるのが一番です。

生寒天(棒)220円
トコロテン状に突いてもらった生寒天

寒天工場は茅野駅の向こう側が「本場」で、寒天蔵が残っていたりします。
ここでも生寒天は売っています。
また、スーパーでも袋に入った生寒天が手に入ります。

しかしながらスーパーの生寒天は美味しくありません。
また、茅野駅近くの工場の生寒天は美味しいのですが場所が遠いのです。
山小舎の近くに美味しい寒天工場があるのはラッキーです。

田んぼの向こうに車山高原を望む北山地区
干しリンゴの生産も始めていた

山小屋大掃除

年末です。
山小舎の大掃除をしています。

今年は特に、台所周りになぜか関心があります。

まずは食器棚などの上に溢れる食品類の整理です。
ついでにトースターの内部を洗います。

レンジやトースターの上に積み重ねられた食料類を下ろす
トースター内部を初めて洗う
食器棚をずらし壁と床を拭く。ついでに食器棚内部を清掃、整理

取り出した食品類は種類別に整理し直します。
缶詰類、調味料、主食、非常食、開封済みのもの、などなど。
寒い季節なので、食料保存用の部屋(主食、野菜、瓶詰類、漬物などの貯蔵部屋)を大いに利用します。

分類し直した食品を収納
食料貯蔵室もおおいに利用

鍋釜、調理器具などが収まっている、流し台の下や引き出しなどもこの際きれいにします。
引き出しそのものも洗ったり拭いてから、新しく新聞紙などを敷き、調理器具などを収め直します。
使わない鍋釜や調理器具を廃棄します。

流し台下の収納も一度取り出す
調理器具収納引き出し自体を洗う
食器収納ケースも洗う
必要な調理器具を再収納

ついでに台所の上の部分をきれいにします。
上の部分とは、冷蔵庫や食器棚の天板、鴨居の上などです。

家族が来訪する際に室内で炭火焼きをすることが恒例となっている山小舎は、特に台所付近が油の煙で汚れています。
汚れがきつい部分は、重曹をつけたたわしでこすり、雑巾で拭き上げます。
埃が多いと先に科学雑巾で拭きます。

長市場部の棚も洗う
鴨居の上を、科学雑巾と重曹で拭く
冷蔵庫と食器棚の天板を拭く

先代オーナー時代の備品が豊富な山小舎では、大掃除の旅に廃棄物が出ます。
燃やせるものは燃やし、プラスチック類、金属類は分別して捨てます。

この後は、流し、レンジ回りなどを洗って、台所の掃除は終了です。

使う道具は科学雑巾、たわし、布雑巾。
材料は重曹、EM菌溶液です。

なお、重曹は油汚れはよく落ちますが、洗い残しが白くなることがあるので、よくふき取ることが肝心です。
EM菌は少しの間匂いが残ることがありますが、トイレや残飯などに効果絶大です。

「豹は走った」と西村潔

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集「ニュープリント大作戦」で「豹は走った」が上映された。

当日のラピュタ阿佐ヶ谷の上映案内より

「豹は走った」 1970年  西村潔監督  東宝

東宝ニューアクションと呼ばれた作品群のエース監督だった西村潔監督のデヴュー第3作。
主演は加山雄三と田宮二郎、ヒロインに加賀まりこを起用した、1970年の作品。
前年に「死ぬにはまだ早い」で監督デヴューしたばかりの西村がメガホンを取り、脚本には長野洋と石松愛弘。

「若大将」を卒業し、今後を模索中の加山と、大映で育った田宮、松竹育ちの加賀というキャステイングが異色ならば、脚本の石松も大映育ちで、東宝には珍しい混合チームによる作品。
折から、大映が倒産し、日活もロマンポルノ路線に移行直前の、いわば映画界の斜陽化が待ったなしの時代。
阪急資本をバックとし、保有する劇場群の上りが堅調とはいえ、ヒット作に乏しかった映画会社東宝の試行錯誤がうかがえる企画。

ラピュタ阿佐ヶ谷のホールに貼られたポスター

形式上刑事職を辞職して某国大統領の護衛を命じられる加山(:シェパード)。
必要なら事前に発砲することも許される秘密任務だ。
片や正体不明の殺し屋・田宮(:ジャガー)が大統領を狙う。
二人が死力を尽くしてやり合う。
バンバン発砲し合う「乾いた」銃撃シーンが、洋画のアクション映画のよう。

動機や理由の説明描写を省いて、純粋なアクションに徹した西村演出が新感覚。
これぞ東宝ニューアクション。
加山が武器を選ぶ時の警察署内の武器庫に並んだ特殊な拳銃たちと、それを専門的に説明する武器係のオタクっぽさも映画的に、いい。

大統領暗殺のためにジャガーを雇ったのは総合商社の会長(中村伸郎)。
大統領が死んだら現地の革命勢力と結託し、万が一生き残っても現勢力と「ソデノシタ」関係を継続、と「金がすべて」の資本主義の権化・日本商社が黒幕だった、という意外性。
小津作品のエリート紳士が定番だった中村が演じる商社マンは、いつもの飄々とした演技で「商社の怖さ」を表現する。
大手商社に象徴される営利活動はその極限に於いて、道徳性なり信義性とは無関係に、人命ですら尊重されずに、社会にの裏の機能を駆使して行われるものだ、という怖さ。

この作品が日本映画らしさを越えて「ハードボイルド」なのは、クールな脚本だけではなく、加山をそれらしく(秘密任務の刑事役は適役)演出し、スピーデイーなカッテイングでまとめた西村監督の手腕によるもの。

田宮二郎は、大映時代の「悪名シリーズ」モートルの貞、や「犬シリーズ」の勢いと調子のいいチンピラ役、があまりにはまり役だったこともあり、出てくるだけで大映カラー(背後に永田雅一と勝新太郎と大阪新世界の匂い)が立ち込めてしまうが、それも田宮のカラー。

加賀まりこはデヴュー当時の「妖精系不思議ちゃん」キャラから脱皮し、商社の裏活動にタッチする大人の秘書役をこなし、存在感をみせていた。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

ほかの西村潔監督作品について

「白昼の襲撃」(1970年)

西村監督の第2作目。
主演の黒沢敏男のチンピラぶりがよかった。

相手役の高橋紀子は東宝青春スター候補の一人だったが、この作品では盛り場で黒沢にナンパされ、転落の道に落ちる「軽い」が最後まで黒沢を信じ、ついてゆくヒロインを演じる。
アメリカ映画のフィルムノワールのヒロインのように、汚れながらも懸命に、自滅する主人公についてゆく姿が泣かせた。
彼らが絡むやくざの代貸し役で岸田森が怪演。
テンポよくクールな西村演出がますます冴える。

「ヘアピンサーカス」(1972年)

首都高を突っ走るスポーツカーの主観映像がタイトルバック。
映画はその後も、まるで16ミリカメラで撮ったドキュメンタリーのような映像でひたすらカーアクションを追求する。
CGではなく、全部が実写。

主役は現役カーレーサーの見崎清志という人。
ヒロインの江夏夕子くらいが名の知れた俳優の、若い走り屋たちのクールでドライな青春物語。

ドラマ性に乏しく、まったく東宝映画らしくないこの作品の制作動機は、五木寛之原作だからなのか。
ジャズを取り入れたところも西村監督らしい。  

「薔薇の標的」(1972年)

もみあげを長くした加山雄三がスナイパーを演じる。
トビー門口をガンアクション監修に起用、ガンとガンアクションへの西村監督のこだわりがうかがえる。
ほかはあまり記憶にない。

「黄金のパートナー」(1979年)

2本立ての添え物として作られた作品。

西村監督は極めてリラックスして撮っている。
監督のリラックスは役者にも伝わり、三浦友和、藤竜也の主演二人のリラックスぶりはすごい。

揺れる手持ちカメラの前で、雑談のようにセリフを交わす主演二人。
三浦友和ってこんなに自然な演技ができるのか、と見直したほど。

警察官役の藤竜也が白バイで、ヨットに暮らす三浦友和のところへやってきて軽いノリで延々とだべる場面が続く。
そのうちに「映画はこんな風に自由に作っていいものなんだ」と、見ている観客は心地よくなる。

途中でサスペンスが少々混じるが、「冒険者たち」のように、男二人にヒロイン(紺野美沙子)を交えた海洋ロマン。
西村監督の得意分野が、車、ジャズ、ガンのほかにダイビングだということがわかる。
この作品を見て西村監督が強烈に印象付けられた。

年の瀬の信州  丸子

上田市丸子地区の直売所・あさつゆに、しめ縄の特設売り場ができていました。

直売所あさつゆの特設会場外観

あさつゆの本体とは別棟のビニールハウス(春には野菜の苗売り場になります)に紅白幕の飾りつけ。
田舎に於いてはこの紅白幕というシロモノ、おめでたい時やハレの場に出現するもので、地元にとってはお祭り感を演出する際に欠かせないもの。

紅白幕は、都市部でもかつては花見の席などに張り巡らされていましたね。
日本人に特別感を抱かせる伝統的なツールなのでしょう。

たまたまあさつゆに立ち寄った山小舎おじさんも、当然のように吸い寄せられるほどの磁力と特別感を、紅白幕は醸し出しておりました。

特設会場の入り口にも工夫が

会場に入ってみると、予想通りというか予想以上の品ぞろえ。
街のホームセンターや年の市などでは太刀打ちできないほどの季節感が、広めのビニールハウス内に炸裂しておりました。

レジのおばさんに断って会場内を撮影。壮観だ

レジのおばさんに聞けば「農家さんが冬は暇だから作ったものです。年配の人のみならず、移住し新規就農して3年目くらいの人も出してます」とのこと。

自宅用にしめ飾りを購入

嬉しい話です。
決してまだまだ「過疎」とはいえない町場の丸子地区。
上田と合併したとはいえ、県立高校(かつての丸子実業、現在の丸子修学館)もある地域の中心です。

「丸子にも移住者がいて就農しているのか」。
高齢化して空き家は多いだろうけど。

季節感を大切にしたいと、自宅の分と山小屋の分のしめ飾りを買った山小舎おじさんでした。

茅野駅とつながった商業ビル・ベルビアのホールにはクリスマスツリーが出現

信州ソウルフード放浪記VOL.35 真田「駅前食堂」のポッポ屋定食

上田市真田地区にある「駅前食堂」へ行ってきました。

真田地区(旧真田町)は、菅平方面への街道沿いにあり、名前の通り真田一族の発祥の地です。
上田城に拠点を移す前の真田氏の居城がここにありました。
上田の町を見下ろし、その昔、真田氏が沼田城へと進軍した、群馬へと通ずる街道沿いの要衝でもあります。

かつては上田駅から上田電鉄という私鉄が、別所温泉、丸子、真田の各方向に延びており、真田町にも駅がありました。
現在の国道144号線、荒井交差点付近が旧真田町の中心部だったようで、現在は幸村夢工房という観光物産施設が付近にあります。
このあたりに真田駅があって、「駅前食堂」という名の食堂が今も残っています。

真田地区の駅前食堂

平日のお昼時に「駅前食堂」に寄ってみました。
食堂前の駐車スペースがすでにいっぱいです。

玄関を開けると、活気ある食堂の光景が目に飛び込んできます。
ホール係のおかみさんが直ちにカウンター席を指示して水を置いてくれます。
失礼ながら、信州の食堂には似つかわしくないほどの客あしらいの速さです。

地元の人も軽トラで駆け付ける「駅前食堂」。地酒「亀齢」の看板が掛かっている

改めて店内を見回すと、テーブル席が人数にして20人分くらいあり、奥には座敷が15人分くらい。
席の半分くらいがすでに埋っており、客数は20人くらいが食事中です。
作業服や背広姿の客、地元風の客がほとんどです。
これまた失礼ながら、想像していた「寂れた食堂」の光景とは比べ物にならないくらいの活気にあふれています。
それも今では貴重な「昭和の食堂」の雰囲気溢れる活気です。

メニュー表の一番上に載っているポッポ屋定食を頼みます。
ラーメンにもつ煮とライスが付いたセットのようです。

ラーメンは昔ながらのあっさり系、もつ煮も凝った味ではありません。
見かけよりも量が多く、満腹になります。
ラーメンは伝統的なしょうゆ味とはいいながら、家庭で作る生ラーメンとは一味違う食堂の味がします。
もつ煮も、もつが柔らかくこれまたプロが煮込んだ味がします。

ポッポ屋定食。真田線にちなんだネーミングか

夜は飲みもできるようで、一升瓶の焼酎がボトルキープされていました。
カウンターから垣間見えるキッチンは広めで、若めのお兄さんが忙しそうに働いていました。
ホール係の二人のおばさんもクルクルと動き回っています。

次から次へと来店する客の注文を聞いていると、カツ関係やカレー、ラーメン大盛、ポッポ屋定食などが多く聞こえます。

熱々のメニューがたっぷりの量で出てくる食堂は、働く人、地元の人にとって貴重な場所です。
店内の活気とともに長く残ってほしいものです。

信州ソウルフード放浪記VOL.34 伊那市「門」のソースカツ丼

伊那市、駒ケ根市はソースカツ丼が美味しいので有名です。
分厚く、柔らかい豚のカツが甘いソースをまとい、キャベツが敷かれたどんぶり飯の上に乗っかって出されるのが一般的です。
どんぶりの蓋は、カツのボリュームを押さえきれず、浮いています。

伊那市には、ソースカツ丼の有名店が何店かあります。
肉屋さんが経営する「たけだ」、駅近くの「田村食堂」などには山小舎おじさんも行きました。
山小舎おばさんをはじめ、うちの一家は「たけだ」のソースカツ丼が好きです。

今回は、伊那市の駅前商店街の地下にある「門」という店でソースカツ丼をいただきました。

伊那市の駅近く、飯田線と並行してアーケード街があります。
近年の地方都市の例にもれず、歩く人の姿とてごく少ない商店街で、シャッターの下りた店も少なくありません。
山小舎おじさんが伊那市を訪れるようになってからでも、スーパーや土産物屋などがシャッターを下ろしたままの姿を見せている「シャッター街」です。

伊那市駅前の商店街

うっかりすると通り過ぎてしまうほどさりげなく「門」の入り口があります。
階段で降りてゆくと入り口があります。

表通りの人気のなさが嘘のように、昼時の店内は満席に近い活況でした。
カウンターに案内されます。

細長い店内にはテーブル席が並び、反対側には3席ほどのカウンター席。
カウンター内にはママさんらしき高齢の女性が陣取っています。

夜には食事付きのバーになるのでしょう。
ボトルキープが並んでいます。

食事メニューは洋食から中華、麺類、丼物までそろっています。
ランチ客から、地元の集まり、仕事帰りに一杯のサラリーマン客までをフォローできる態勢です。

「門」の入り口
入り口に掲げられたメニュー

客層は昼休みの食事に来た勤め人が多く、コーヒーで一休み中の人、打ち合わせ中のビジネスマンなどもいます。
入ってくるなり「焼酎お湯割り」とひとこと、どっかりテーブル席に座る高齢の男性の姿も。
店の雰囲気、客層ともに地元感にあふれています。
店のスタッフの心づかいが感じられ、よそ者にとっても居心地がいいです。

山小屋おじさんは「ソースカツ丼・ロース」を頼みました。
サーブしてくれたホール係の婦人に「写真をとってもいいですか」と聞くと、了解してくれた後「蓋にカツを2、3枚取り分けると、ご飯が食べやすくなりますよ」と言ってくれました。
旅のよそ者感丸出しの客へのありがたいアドバイスです。

ソースカツ丼ロース。1400円

期待通りに厚くて柔らかいカツ。
ご飯の量は多すぎず少なすぎず。
味噌汁のダシも効いています。

そしてソースカツ丼のポイントの一つでもあるタレが美味しかったのです。
例えば、伊那市内の有名店「たけだ」のソースカツ丼は自家製のタレが、フルーテイで美味しく飽きが来ないので何度でも食べたくなります。
甘いだけのタレだと飽きてしまいます。
「門」のタレは「たけだ」ほどではありませんが、飽きの来ない味でした。

「門」に入る前に気になっていたことがありました。
表通りの向いには、伊那市に来ると寄る酒屋があります。
希少な酒が入荷すると大きな看板に「秘酒」などと大書して掲げる酒屋で、看板につられて寄ってみると、なるほど空気に触れないで絞ったという真澄の限定品などがあったりします。
地元伊那地方の銘柄では、辰野町小野地区の「夜明け前」がおすすめとのことでした。

この酒屋が閉まっていたので気になって、「門」のカウンター内のママさんに聞いてみました。
ママさんの年季の入った顔に比べると気さくな返答が返ってきて「店主がケガして閉めた」とのことでした。
ホール係の婦人も加わってきて、このネタで話が盛り上がりそうな勢いでしたが、仕事の邪魔をしてはいけないと思い会計を済ませて外へ出ました。

伊那での新しい居場所ができたような「門」でのひと時でした。

伊那に来たらこれを見ないと!商店街の一角に掲げられた金言
伊那へ行く途中の杖突峠で野生の猿に遭遇。ガードレール下にいる