梅を漬ける その2

塩漬けしていた梅に赤シソを加えました。

シソが出回っています。
買ってきて葉っぱを軸から外します。
多少軸が残っていても気にしません。
葉っぱを洗って水けをきります。

赤シソの葉をとって洗う

葉っぱを軽く乾かした後、ボールにあけて塩を振って揉みます。

塩でもむ

ボールに押し付けるように力を入れて揉んでゆきます。
しばらく揉んでいると塩が回って、葉っぱがくたっとなってきます。
さらに力を入れて揉むと紫色の水気が出てきます。
アクです。

アクが出てくる

アクが出てきたら力を入れて絞ります。
絞りが甘いと梅干の出来上がりが黒ずむので、しっかり絞ります。

アクを絞る

水気がないほど絞り込んだシソを梅酢に入れます。
梅酢が赤く染まります。
丁寧に行う場合は、梅酢を絞ったシソに加えて赤い梅酢を作り、梅に戻し入れます。

赤しそを梅の塩漬けに投入

重しを戻して夏の土用干しまでそのまま保管します。

赤く染まった梅漬け

今年は中梅を4キロ、小梅を2キロ漬けました。
土用干しは1週間ほど行おうと思います。

シラカバを伐採したが

2年ぶりに立ち木の伐採をしました。

山小舎の裏に2本の大きなシラカバが生えています。

山小舎の裏、国有林を背後に立つシラカバ2本

ご存じのように、シラカバは腐りやすく、根っこも弱いので、例えば強風や、枝への着雪によって倒れます。
山小舎に向かって倒れてほしくはありません。

山小舎は斜面に建っており、裏の国有林との境には大雨の時だけ流れる小川が通っています。
斜面の保全に植林は大切なのですが、シラカバの木に地盤強化の期待はできません。
むしろ地盤強化にマイナスの効果となりかねません。

かねてより裏のシラカバは気になっていました。
今年思い切って伐採することにしました。

伐採の手順通り、倒したい方向に受け口を切ります。
国有林にはカラマツがびっしりと立ち、反対側にはミズナラがところどころ生えています。
倒木が立木に引っかかることは避けなければなりません。
引っかかった倒木を倒すにはかなりの労力がかかるからです。

受け口を切ったシラカバに追い口を切り入れます。
思わぬ方向に倒れることもあるので緊張します。
及び腰で追い口を入れましたが倒れません。
心配していた事態となりました。

伐採開始。倒したい方向に受け口を切る

どうしようかと思いましたが、とりあえず追い口にくさびをねじ込んでハンマーで叩くことにしました。
シラカバは突然倒れましたが、倒れた方向が国有林のカラマツに向かってでした。
枝ぶりなどシラカバの木の重さが、断然国有林の方向を向いていたからです。
また、受け口の角度が浅かったからのようです。

追い口を切るも倒れず、くさびを打ち込む
突然別方向に倒れる
切り株

またまた心配していた通りの事態となりました。
とりあえずはここまでの無事を感謝しつつ、斜めになった倒木の処理を開始です。
伐採に関わるエネルギーはほぼ使い切っていますが必死です。

斜めに倒れているシラカバを下から輪切りしてゆきますが、横方向よりも縦方向に重心がかかっている巨大な倒木は、先っぽが国有林のカラマツに食い込んでいることもあり、なかなか輪切りが進みません、切った後もバターンと倒れてはくれません。

国有林のカラマツに倒れ掛かったシラカバを輪切り

何とか3段ほど切りましたが、そのたびにシラカバはドーンドーンと新たな切り口が新たな地面に食い込んでゆくだけです。
これでは倒木の角度は浅くなるばかりで地面に倒れるのはいつになるやら。

輪切りをしても寄りかかったままのシラカバ

令和6年畑 サツマイモ定植

サツマイモの苗を定植しました。

6月に入っています。
サツマイモの苗は地物は出回りません、関西方面からの輸入になります。
和田地区や武石地区の標高の高い場所では気候的に栽培しずらいこともあります。
それ以外の場所では植え付けシーズンがそろそろ終わっています。

苗の入手に出遅れた山小舎おじさんは、ホームセンターで苗を買いました。
20本入って2000円近くの高値。やっと見つけた苗は、ビニール袋で長時間密封され、葉っぱの部分がほとんど溶けかかっていました。

案の定、乾燥気味の畑でホームセンターの苗は全滅していました。
今年のサツマイモはいったん諦めました。

獣害防止テープを買いに依田窪農協へ行ったときに、サツマイモ苗が売られているのに気が付きました。
売れ残ったとのことで、1本あたり31円と半値になっています。
バケツの水に漬けられ、根が出始めている苗でした。
乾燥した土壌に定植された後、果たして自力で活着できるのか心配でしたが、畑も空いているので買うことにしました。

農協で売れ残りの苗20本を購入

20本の苗を植えました。
畝1列に10本植えるとして、畝1列当たり18リットルのポリタンクの水をぶちまけました。
泥状になった畝に苗を置き、泥を被せました。
しばらくは畑に行くたびにたっぷりの潅水が必要です。

サツマイモの畝には1列にネットを張り、もう1列には獣害防止のピンクテープをひと廻し。
ついでに成長が旺盛になったジャガイモの畝にもテープを廻しました。

手前のネット、左奥のテープで囲んだ畝にサツマイモを定植
ついでに延び盛りのジャガイモにもテープを廻す

携帯で写真を送った先の家族からは「このテープではまた鹿にやられそう」との反応がありました。

鹿には夏の山の豊富な食べ物を漁ってもらって、暑い畑への訪問は遠慮してもらいたいな、と思うこの頃です。.

薪づくりシリーズ 細めの丸太を積み込む

山小舎に丸太がやって来るシーズンになりました。

別荘地内の業者に伐採や敷地整理の依頼が入る時期、伐採したカラマツ、シラカバ、細めのミズナラなどは業者にとって廃棄物扱いとなります。
金をかけて捨てるなら、と薪を作っている家に丸太を運んでくるのです。

どんな木材でも拒まない山小舎おじさんのところにはそういった丸太が集まります。

2トントラックで3台分も集まった頃、チェーンソーで玉切りした丸太、枝を、次の行程である薪割りのために整理して集めます。
割る必要のないほどの細さの枝はそのまま積んで乾かします。

チェーンソーで玉切りしたものをまとめておく

整理がついたころまた丸太がやってきます。
シーズン中は玉切りと薪割りと積込みの繰り返しです。

細めのものを一輪車に積む
一輪車で枝の乾燥場所に運ぶ

薪割りは「玉」が集まった時にエンジン式の薪割り機を借りて行う予定です。

枝を積み込む。前後には去年積んだ薪など
軒下に刃十分乾燥した枝や皮が

DVD名画劇場 フランス映画黄金時代③ ジュリアン・デュヴィヴィエ その4

フランス映画の黄金時代に君臨したジュリアン・デュヴィヴィエ監督。
その初期作品、代表作、戦時中の作品、と三回にわたって鑑賞したシリーズの、今回は第4弾(最終回の予定)です。

さて、戦後を亡命先のアメリカで無事迎えたデュヴィヴィエはフランスに帰ってきます。
1946年に帰国第1作の「パニック」を撮り、翌1947年にはロンドンフィルムに招かれて「アンナ・カレーニナ」を撮ります。
それ以降は1967年の遺作「悪魔のようなあなた」までフランスで撮り続けています。

ジュリアン・デュヴィヴィエ

デユヴィヴィエのDVDシリーズ最終回(予定)は、「パニック」、「アンナ・カレーニナ」、「巴里の空の下セーヌは流れる」(1951年)の3本です。

「パニック」  1946年  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督   フランス

フランスに帰ってきたデュヴィヴィエ。
ホームグランドに戻っての第一作です。

原作は1933年に撮った「モンパルナスの夜」から2回目のジョルジュ・シムノン。
俳優は「旅路の果て」(1938年)のミシェル・シモン、「我らの仲間」(1936年)のヴィヴィアンヌ・ロマンス。
この作品は、〈大作ではない〉ものの、フランス映画への復帰を記念した習作でもなく、そこにはしたたかなデユヴィヴィエのペースがありました。

〈大作でない〉、というのは予算をたっぷりとかけた作品ではないというだけでなく、例えばデュヴィヴィエが「望郷」(1936年)で見せた、あの手この手の舞台装置を駆使して観客に訴えた、けれんみたっぷりの空想劇でもなく、また「旅路の果て」のように、人間の極限のエゴを名優たちの熱演で再現した、デュヴィヴィエの譲れない信念を追求したものでもなく、さらに「ゴルゴダの丘」(1935年)や「幻の馬車」(1939年)のように、宗教性に満ち、善なる人間性を信じ切るかのような崇高さ、に彩られた作品ではないということです。

全盛期のデュヴィヴィエ作品は大上段に振りかぶり、力の入ったものでした。
そこでは、プロデユーサーとしてのデュヴィヴィエが、ファンに向けてあの手この手で映画的サービスにこれ務めたり、そうでなければ己の信条を最優先して人間というものを突き詰めていました。

戦争と亡命、己の流儀が通用しないハリウッドでの映画撮影という経験を経て、戦後を迎えたデュヴィヴィエが作ったこの第1作(「パニック」)は、戦後の開放感、フランスで映画を撮れる喜び、を通底としながらも、力が抜け、淡々と人間達を見つめるかのような作品となりました。
もちろん昨今の映画的流行や、ハリウッドで学んだ映画的刺激を、上手く取り入れるのを忘れたわけではないのがデュヴィヴィエ一流の映画作法ではありますが。

ミシェル・シモンとヴィヴィアンヌ・ロマンス

「パニック」は風変わりな中年男の、風変わりな振る舞いを淡々と描写して始まる。
中年男イール(ミシェル・シモン)は町のホテルに3年間も逗留している。
肉屋でいつものステーキ肉を買い、ホテルの廊下では近所の幼女にリンゴを与える。
このあたり、「ぼくの伯父さん」(1958年 ジャック・タチ監督主演)を連想させる淡々とした人間描写ぶりである。
ジャック・タチ扮するユロ氏が風変わりながら周りにも受け入れられるキャラであるのに対し、本作のイール氏は受け入れられないままである点が違うのだが。

イール氏が好意を寄せるギャングの情婦アリス(ヴィヴィアンヌ・ロマンス)の妖艶さもいい。
フランス映画としては悪女キャラに振り切った感もある、美貌のヴィヴィアンヌの登場は一気に画面を、アメリカ映画のギャング風に一変させる。

アリスの着替えをイールが窓越しに覗く場面も画期的だ。
ヴィヴィアンヌ・ロマンスの直接的で挑発的な色気と、そこに吸い寄せられる孤独の訳あり中年男。
設定がノワールだし、変態チックな描写にも戦後を感じる。

デュヴィヴィエは古き良きフランス映画のタッチをただ踏襲しているのではなく、アメリカ映画的なスリルとサスペンスを志向していることがわかる。
そして〈スリルとサスペンス〉が特に1940年代からの世界的流行であり、デユヴィヴィエがその流行をキャッチアップしていることも。

ヴィヴィアンヌ・ロマンス

1940年代の世相を反映し、様々な映画的記憶、記号に満ちた「パニック」の、結論は周りに受け入れられないイール氏を追いつめる社会のポピュリズムへの批判であった。

誤解をもとに追いつめられ死んでしまうイール氏だが、彼を色仕掛けではめて行ったアリスの後悔の表情も盛んに描写される。
アリスとて根っからの悪女ではなく、良心が残っていたとの演出は、人間性への信義を旨とするデユヴィヴィエ映画の根本であろう。

アリスの情人の小悪人に扮するポール・ベルナールは「ミモザ館」(1934年 ジャック・フェデー監督)でフランソワーズ・ロゼエのダメな義理息子を演じた人。
今回は出世作のダメ男ぶりがますます進化。
改心することなく最後まで悪に浸かり切り、情婦アリスを都合よく振り回す、フランス式クズ男を快調に演じている。

「アンナ・カレーニナ」  1948年  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督  イギリス、ロンドンフィルム

戦後の帰国第一作「パニック」を撮った後、デュヴィヴィエがイギリスのロンドンフィルムに招かれて撮った作品。

ここでロンドンフィルムに関して、ひとくさりお許し願おう。

ロンドンフィルムという映画製作会社は、戦前から戦後にかけてイギリス映画をけん引したスタジオです。
主宰者のアレクザンダー・コルダは、1893年にオーストリア=ハンガリー帝国に生まれたユダヤ人で、ハンガリーでジャーナリストとして活躍後、映画監督としてブダペスト、ウイーン、ベルリン、パリ、ハリウッドを遍歴。
ロンドンにたどりついて映画製作者として芽を出します。

ハリウッド資本・パラマウントのロンドン支社に身を置き、戦前のイギリス映画界保護の政策(1927年に制定された、外国映画の比率を最大95%、イギリス映画を最低5%とするいわゆるスクリーンクオーター制)を背景に、ハリウッド資本を利用してのイギリス映画製作に乗り出し、ロンドンフィルムを設立しました。

コルダが製作あるいは監督した戦前の代表作には、「ヘンリー八世の私生活」(1933年 アレクザンダー・コルダ監督)、「ドンファン」(1934年 ダグラス・フェアバンクス主演)があります。
またフランスから名監督を招き「幽霊西へ行く」(1935年 ルネ・クレール監督)、「鎧なき騎士」(1937年 ジャック・フェデー監督)を製作しました。
国際色豊かな監督、出演者を招聘しての話題作りと、ハリウッド資本の配給ルートによるマーケットの世界的拡大を行い、一躍ロンドンフィルムを世界的映画会社としました。

第二次大戦中にはハリウッドに亡命し、自らのプロダクションを興して「ジャングルブック」(1942年 ゾルダン・コルダ監督=アレクザンダーの末弟)などを製作。
この期間にジュリアン・デュヴィヴィエを起用して撮った「リディアと四人の恋人」(1941年)がコルダとデュヴィヴィエの出会いとなり、のちの「アンナ・カレーニナ」につながります。

アレクザンダー・コルダ

戦後ロンドンに戻ってロンドンフィルムを再興したコルダは、デヴィッド・リーン、キャロル・リード、ローレンス・オリビエら国内の才能を積極登用し、またハリウッドのデヴィッド・O・セルズニックらと提携し、「落ちた偶像」(1948年 キャロル・リード監督)、「第三の男」(1949年 同監督)、「ホフマン物語」(1951年マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー共同監督)などの名作を発表します。

国際人としてのコルダは、国内外に広く才能を求め、世界に通用する映画を製作し、ハリウッド資本の配給網を利用して世界配給を行うなど、戦前戦後のイギリス映画の興隆に貢献し、サーの称号を得ました。

オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人にあっては、ビリー・ワイルダー、フレッド・ジンネマン、マイケル・カーテイズなどがハリウッドで活躍したが、コルダの映画界への貢献度も負けてはいないのでした。

延々とロンドンフォルムとアレクザンダー・コルダについて述べました。
コルダがハリウッドでデュヴィヴィエと出会い「リデイアと四人の恋人」を当時のコルダ夫人のマール・オベロン主演で撮りました。
戦後になり両者はそれぞれ本境地であるロンドンとパリに戻りました。
1948年にコルダがデユヴィヴィエをロンドンに呼んで撮ったのが「アンナ・カレーニナ」です。

ヴィヴィアン・リー

トルストイの原作は現在まで10回以上映画化されている。
ヴィヴィアン・リーを主役に迎え、2時間にまとめた本作は、フランス人の監督、脚本家、撮影監督、ロシア出身の美術監督など厳選されたスタッフをロンドンフィルムに迎えて制作された。

スタッフの選択にはデュヴィヴィエの意向のみならず、コルダの積極的な制作姿勢が表れている。
プロデユーサーとしてのコルダは、セルズニックに代表されるハリウッドの製作者にみられる、細部にわたる口出し、スタッフ・キャストから最終編集権に至る権限の専制的支配、とは異なり、スタッフ招集とキャステイングをサービス精神全開で行た後は現場にすべて任せるといった意向を感じさせる。
そんなコルダが、専制権者セルズニックと渡り合い、共同制作で傑作「第三の男」を作ったのも面白いが。

さて本作の物語は、アンナという帝政ロシア期の上流階級女性が、己の欲望に忠実に行動し、己の責任において結末を迎えることを描く。
どうも旧癖に囚われない強い女の人間性の尊重を主題にしているようだ。
といっても新大陸で女性として尊重されわがまま一杯にふるまった強い女性への賛歌でもある「風と共に去りぬ」のヒロインのようではない。
背景にロシア正教的倫理観、ロシアの大地の悠久、が厳然としてある。
それらを背景とした女性の人間性の尊重である。

己に忠実なゆえに現実との葛藤に苦しみ、徐々に壊れてゆくヒロインを演じるヴィヴィアン・リーは「欲望という名の電車」のブランチを予感させるような狂気をも時として匂わせる。

「アンナ・カレーニナ」の各場面

雪の中の列車。
ホームで車輪を叩きながら点検する老人。
アンナがおびえる死神。
上流婦人たちによる降霊会。

デュヴィヴィエ映画の神秘描写だ。
ヴィヴィアン・リーの存在がそれら神秘描写とよくマッチする。

デュヴィヴィエとしても決して手を抜かず、己の美学にも原作にも忠実に撮った作品。
であればあるほど原作以上の広がりがない作品になってしまったような気がする。

ロシア上流社会の夜会やダンスパーテイの描写は、予算の限度があったのか、フランス人のデュヴィヴィエにはその感性がなかったのか、室内のセットにしても俳優たちの動きにしても、カメラワークにしても、定型的でチープにさえ見えたのが気になった。

煎じ詰めれば、上流婦人の不倫騒ぎのドラマである本作に、膨らみを持たせる要素としては、ロシアの大地の悠久とキリスト教倫理観のほかに、目くるめく絢爛豪華なぜいたくさによる陶酔感、があってもよかった。

オペラ劇場の描写には醸し出ていた、過剰なぜいたく、耽美、腐臭といったものが、お屋敷で繰り広げられる肝心のダンス場面には見られ無かったのが惜しかった。

「巴里の空の下セーヌは流れる」  1951年  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督  フランス

戦争が終わった。
ハリウッドに亡命していたデュヴィヴィエはパリに戻って、ジョルジュ・シムノン原作の「パニック」を撮った。
デユヴィヴィエにとっても、パリにとっても相性のいいシムノンの世界だった。
その後、「アンナ・カレーニナ」「神々の王国」「ブラックジャック」と撮って50年代を迎えた。

折からパリ市2000年祭の年だった。
パリ市当局はデュヴィヴィエに記念映画の制作を委嘱した。
今に残るシャンソンの名曲「巴里の空の下」を主題歌とし、ある土曜日の夜明けから日曜日の夜明けまでの24時間の、セーヌ川のほとりで繰り広げられるパリ市民の物語をデユヴィヴィエは撮った。

ブリジット・オーベール(左)

田舎からパリに出てくる美人のドニーズ(ブリジット・オーベール)がいる。
工場のストライキに加わり自身の銀婚式パーテイに参加できそうもない工員がいる。
腕のいい医者ながら研修医試験に落ち続ける医者がいる。
モンマルトルの彫刻家で孤独にさいなまれ、発作が起こると女性を刺殺し続ける芸術家がいる。
猫だけが生きがいだがミルク代に事欠く老女がいる。
成績が悪いから親に怒られるからと、少年の誘いに乗ってセーヌ川をボートでさ迷う少女がいる。

一見無関係なパリ市民のエピソードが同時進行でつづられ、思わぬところで交差する。
デユヴィヴィエお得意のオムニバス方式の進化形ドラマであり、同時進行する各エピソードが交差してゆくのが新しい。

パリを主人公とするオムニバスは歴代のフランス人監督のお気に入りの素材で、ヌーベルバーグ系の監督による「パリところどころ」(1962年 ジャン=リュックゴダール、クロード・シャブロル、エリック・ロメール他監督)がある。

本作は、ロケを多用したパリの街頭風景がベースである。
パリとパリ市民が主人公である。

田舎から上京した若いドニーズ(ブリジット・オーベール)は、ペンフレンドの甘い言葉を頼りにパリへやって来る。
幼馴染の求婚を断り、ペンフレンドに会ってみると車椅子の男だった。
ドニーズは甘い期待を都会に求めるが最後は孤独な芸術家の餌食となって夜のパリの裏町に散る。

工場のストライキで銀婚式の宴会に参加できそうもなかった工員は、工場前のセーヌ河岸にやってきた親戚一同と宴会を楽しむ。
工場前にピケを張っていた警官は「河岸でなら」と工員も参加しての宴会を認める。

電気も止められた年金暮らしの老女は、猫のミルク代65フランを得ようと方々乞うて歩くが恵んでくれる人もいない。
疲れ果てて部屋に帰ってくると、大家の八百屋のおかみさんがミルクをもってやって来る。
老女は成績が悪くプチ家出をしていた八百屋の娘を助たお礼だった。

街頭ロケと力の抜けたエピソードを淡々とつづるデユヴィヴィエのスタイルは、来るべきヌーベルバーグを予見したかのようなフリー感に満ちてさえもいた。

そこには説教じみた価値観の押し付け、過去への郷愁もない。
今現在の若者や子供の行動を黙って見つめる鷹揚さがある。
何より、背徳と暗黒に彩られながらも、のんびりと人間性に満ちたパリの市井の雰囲気への尊重がある。

主題歌の「パリの屋根の下」をへたなピアノで聞かせ、隣の部屋の芸術家の卵に「うるさい」といわせたり、河岸での宴会を警察に中止させられ、工場の鉄格子越しに一同を見送る工員の構図に「望郷」のパロデイを自ら演出したり、デユヴィヴィエもノッている。
エッフェル塔をバックにしたモデルの撮影風景にも、戦後数年たったパリの文化の復活が謳われている。

貧困、労働争議、孤独、子供の反抗、若者のまだ見ぬ夢など、社会の暗さを正面から取り上げるところは芸術至上主義のフランス映画らしいが、そこにささやかな幸せを感じさせるところはデユヴィヴィエ流か。
何より、各エピソードの主人公同士が良くも悪くもつながっているという連帯感がある。
それこそがパリだ、パリ市民だというデュヴィヴィエの肯定感がいい。

令和6年畑 夏野菜苗その後

夏野菜の苗を定植してそろそろ1か月近くたちました。
1週間ほど自宅に帰った後、畑の様子を見に行きました。

猛暑の中、レタス類が頑張っていました。

レタス、サンチュなど

玉ねぎの葉が倒れ、収穫期が近づく中、ズッキーニが順調です。
毎年、夏野菜の最初の収穫はズッキーニだったりします。

ズッキーニは、茎が伸び花が咲いてきた

初めて植えたソラマメに花が咲いていました。
木の丈が短いのに花が咲くのは、苗とガッテン農法の相性が良くないのかもしれません。
無肥料の環境で自らの根と葉から養分を吸い取り、精製しなければならないからです。
それ以前に苗が、環境に負けて、成長をあきらめ実を結ぶことを考えたのでしょうか。

ソラマメ2本。早めの花が咲いている

かんぴょうを作ろうと、夕顔を2苗植えましたが、1つの生育がよくありません。
もう1本に頑張ってもらいましょう。

トウモロコシ、枝豆を山小舎で芽出しして定植しましたが、ほぼほぼ活着しています。
枝豆を今年は収穫できそうです。

頼りなかった枝豆の苗が無事活着していた

3列植えたトマトは今年も順調です。
乾燥に強く、たくましいトマトは、無肥料、無潅水のガッテン農法にあっているのでしょう。
苗の丈の伸長に合わせて支柱を立てておきます。

逞しいトマトの苗
トマト3列に支柱を立てる

6月初旬とはいえカンカン照りの畑。
まるっきり元気のないナス、ゴーヤに潅水してこの日の作業を終えました。

いちごの季節到来

季節感のない果物のいちごですが、信州では地物が出回るのが春から初夏にかけてです。
値段は東京のスーパーで買うのと大差ないのですが、新鮮で香りがよいのが特徴です。

例年は加工用のいちごを箱で買ってジャムにするので、今年もB品いちごが直売所に出現するのを待っていました。

6月初旬に東京の自宅から戻り、高速バスの駐車場で軽トラに乗ると山小舎方面へ向かわずに、茅野から杖突峠を越えて伊那へ向かいました。
梅干用の完熟梅を探しつつ、伊那方面の直売所を巡ってみようと思ったのでした。

杖突峠を越え、伊那に入り、高遠地区を越えて、長谷村にある「道の駅南アルプス村はせ」へ向かいます。
直売所をのぞきますが梅はありませんでした。

高遠へ戻り地区内のAコープへ。
梅は和歌山産の南高梅がありましたが、これはパス。
ここで弁当を買って昼食。
夕食用のお惣菜も少しゲット。

伊那へ下り市内を抜けて、南箕輪村の直売所「あじーな」へ。
ここあじーなは豊富な物量を誇る直売所で、トマトの季節にはこれでもかとトマトが並び、トウモロコシの季節にはトウモロコシが、桃の季節にはA品からB品までの桃が箱で並びます。

梅を探しましたがここも南高梅でした。
その代り完熟いちごが大パックで売られており、小粒のパックが560円ほどです。
加工用が箱で900円前後ですから、そんなに高くはありません。
ジャム用にひと箱(ふたパック)ゲットしました。

翌日、加工します。
ヘタ付きのまま洗い、ヘタを取ります。
再度水洗いして鍋に入れ砂糖をかけておきます。
その間に瓶と蓋を煮沸消毒します。

砂糖で水分が出てきたいちごを煮てゆきます。
とろみが出てきたら出来上がりです。

瓶に詰め蓋をして再び煮沸します。
蓋を固く締めて完成です。

初夏の香りをそのまま封じ込めた瓶詰ができました。
今年のいちごジャムはどなたに食べてもらいましょうか。

6月初旬の東京

娘夫婦の誕生日が二人とも6月です。
誕生会をするというので自宅に帰りました。

東京は蒸し暑く、半そで半ズボンの季節になっていました。

自宅の近くの公園にはアジサイが咲いていました。
付近の農家の畑ではトウモロコシが勢いよく伸びています。
ナスには実が付き始めています。
畑の角のヒマワリが伸びています。

アジサイ
トウモロコシ
ナス
ひまわり

誕生会はいつものように庭に出て炭火焼きをメインに楽しみました。
山小舎おじさんはぼた餅と赤飯をお祝いに拵えました。

自宅の庭のデッキで誕生会の食事
手製のぼた餅

さんざん飲んで食べた翌日は腹ごなしに自転車で郊外を走りました。
春先に桜を眺めながら走った、狭山境緑道はうっそうとした緑に包まれおり、季節の移ろいを感じました。

狭山境緑道の緑。小平駅付近

梅を漬ける その1

さあやってきました。
梅の季節です。

山小舎で漬けた梅干が、彩レデイースと娘一家に評判がいいのです。
今年は多めに漬けようと思います。

直売所やスーパーに梅が出回っています。
その梅が黄色く完熟してくるのを待ちます。

青梅で漬けても梅干はできるのですが、実が大きく硬いので、梅酢が上がるまで時間がかかります。
その間、カビが出るなどのリスクが高まります。
またどうしても出来上がりが硬くなります。
果肉がペチャっとして、乾いてもおいしく食べられる梅干には向きません。

完熟梅はツユ明けに出回るものと思っていましたが、直売所に黄色い小梅が1キロ袋で500円で売っていたので購入しました。
地元産です。

漬けもの用の甕を洗って準備しながら、ネットで塩の分量などを確認します。
梅の重量比で18%の塩で漬けることにします。
塩を400グラム弱計ります。

青梅でなければあく抜きは必要ないようですが、洗浄を兼ねて、梅をよく洗った後に一晩水に漬けます。
水から上げた梅をザルにあけて半日乾かします。
漬ける前につまようじでへたの部分を取り除きます。

水に漬けた後、ざるにあけて乾燥中の小梅

甕を用意したのですが、カビの匂いが取れないのでプラスチック製の漬物たるを用意します。
甕には自家製味噌のカビがくっついたようです。
しばらく水を張って脱臭するようにします。

消毒のため、35度の焼酎をスプレーを樽の内面に噴霧します。
乾いた梅にも軽く噴霧します。

たるの底に軽く塩をふります。
一段ごとに梅を敷いて行って塩をふります。

分量の塩で漬け込んでゆく
しっかり重しをかける

中蓋を置いて重めの重しを置きます。
なお、中蓋、重しも洗ってから焼酎を噴霧しておきます。

一晩たって梅酢が上がってきました。
もう大丈夫です。

重しを半分にして赤シソが出回るのを待ちます。

一晩立って梅酢が上がってきた

令和6年畑 ヤーコン定植、草刈り、側溝掃除

ヤーコンの苗を定植しました。

一度植えたヤーコンですがたちまち鹿に掘り起こされ食されてしまいました。
ヤーコンの葉は苦く、鹿は好まないものと思っていましたが、甘い種芋は大好物だったようです。
鹿の通り道に、餌のごとく植えてしまったこちらの責任でもありますが。

ヤーコンを植えた区画は、鹿よけのネットで区切られた畑の中ではありましたが、冬の間に鹿にぶち当たられ、踏み倒されてネットと支柱は廃墟のようになっています。
鹿は出入り自由です。

踏みにじられたネットの修理は、夏までの畑の作業が一段落してから行います。
あるいは撤去してしまうかもしれません。

ヤーコンは芋が自然食として有効であるほかに、葉っぱが野草茶として有用です。
乾燥した葉を煮だすと苦い味がするのですが、ヨモギやスギナと合わせて煎じると飲めます。
現在飲んでいるヤーコン葉は残り少なくなりました。
今年はヤーコン葉を新規に採取したいものです。

ということで、再度購入したヤーコンの苗を鹿よけのトンネルの中に植えることにしました。
アーチ形の支柱に、ビニールではなくネットを被せたトンネルです。
無事育ってほしいヤーコンです。

ネットを被せたトンネルの中にヤーコンを定植する

この日は一番草の続きもしました。

草を刈ってゆくと側溝に刈った草が落ちてゆきます。
側溝は地域の共有財産なので協力して管理してゆかなければなりません。
落ちた草は流水を止めたり、側溝を痛めたりしますので取り除きます。
雨の後なので流水があります。
流水をスムースに通すように自分の畑のそばの側溝は管理するのが畑を作る者の責務です。

雨水を側溝に排出する排水路

側溝周りの草苅と側溝内の掃除