DVD名画名画劇場 「悪女」リタ・ヘイワース

前回の当ブログ「ダンシング」リタ・ヘイワースで、彼女の唯一無二のダンスの才能を再確認したあとは、1940年代後半の彼女の役どころとなった「悪女」ぶりを見てみよう。

リタの代表作となった「ギルダ」、当時の夫オーソン・ウエルズの監督・主演になる「上海から来た女」である。

「ギルダ」  1946年  チャールズ・ヴィドア監督  コロムビア

『私の知り合った男たちはだれでも(中略)ギルダに恋をするの、そして私に醒めるのよ』(1994年文芸春秋社刊「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」P377)。

1940年代のセックスシンボルであり、長い茶髪の巻き髪と妖艶なダンスで観客を魅了したリタ・ヘイワースは、ハリウッドのアイコンとして生きたのみならず、実生活でも数度の結婚と離婚をし、数知れない恋愛に身を投じた。
結婚相手にはイスラム教のプリンスにして世紀のプレイボーイといわれた、アリ・カーンもいたが数年を経ずして離婚となるのが常だった。

1946年のアメリカによるビキニ環礁での水爆実験で投下された核爆弾は、リタ・ヘイワースの写真で飾られ、『ギルダ』と名付けられていた。

イタリアの戦後庶民の生活を描いた「自転車泥棒」で、やっと職を得た主人公が、街中で貼ったポスターは、敗戦国イタリアの現実とは似ても似つかない、リタ・ヘイワースによく似た女性の艶姿だった。

その絶頂期に撮られ、今でもリタ・ヘイワースの代表作といわれるのが「ギルダ」。
その題名は、リタの代名詞のようにもなっている。

「ギルダ」より

物語は戦時中のアルゼンチンに流れてきた、いかさま賭博師のファレル(グレン・フォード)が路上のサイコロ賭博で素人をだます場面から始まる。
暗闇にまぎれた、港近くの場末で繰り広げられるすさんだシーンはフィルムノワールそのものの滑り出しだ。

やがて、ファレルは非合法だが堂々と営業しているカジノ(もちろんイカサマあり)のオーナーに雇われ、やがて支配人となる。
ある日、旅行に出かけたオーナーが連れて帰ったのがギルダ(リタ・ヘイワース)と呼ばれる、長い茶髪の女だった。

ギルダはファレルの過去の恋人だった。
オーナーは二人の関係を怪しむが、ファレルは支配人の職務に徹する。
一方、ギルダはファレルを誘惑しようとしたり、ほかの男と遊んだり、勝手気ままにふるまう。

オーナーの実像は、戦前のドイツ企業から委託された戦略物資・タングステンの利権を、戦後になって不法に横取りしたカルテルの主宰者であり、ドイツ人(ナチスの末裔?)に脅迫される身。
やがて飛行機事故を装って姿を消す。
オーナーに代わってカルテルの実権を握るファレルだが・・・。

この映画、ストーリーはいろいろと枝葉を広げるが、その骨子は、ファレルとギルダの関係を描くことにある。
お互いを十分意識しながらも、面と向かえば、「憎しみしか感じない」と互いをなじる両者。
本心なのか、突っ張っているのか。

ファレルはオーナーの手前、ギルダに本心を打ち明けたり、手を出したりしない。
ファレルが品行方正な男であるはずもないのに、この関係性が最後まで続く。

ギルダは、他の男と遊びまわったり、早朝にファレルの寝床があるカジノでギターを弾き語りするなどして「悪女」ぶりを発揮する。
ギルダとファレルの結末やいかに?

この作品でのリタは、低い声、作り笑い、けだるさ、たばこ、に象徴される、男を誘う擦れた色気に満ちた姿で登場する。
「晴れて今宵は」「カバーガール」で見られた陽気さ、清純さ、親しみやすさ、からの演技的脱却だ。
まるでギャングの情婦のようなキンキラのコートを着て、髪をかき上げる仕草も板についている。

そして何よりこの映画のハイライトは、終盤のリタのソロのダンスシーンだ。
男たちの庇護を逃れて異郷のクラブで踊るギルダ。
最初のナンバーは深いスリットスカートをたくし上げながら、陽気にキレキレな動きで踊る。
一気に映画が締まる、輝く。

リタ・ヘイワース畢竟のダンスシーン

そして、追いかけてきたファレルの見ている前で、黒いドレスと手袋で腰をくねらせるギルダ。
ここがこの映画の山場で最大の見どころ。

手袋をゆっくり外して、観客に投げる、ネックレスも。
『ジッパーを下げるのは苦手なの』と男どもを誘う。
興奮する男ども(と映画を見ている観客たち)。
リタ・ヘイワースの女優生活のハイライトともいえる名場面。

この後に、ファレルの手下に舞台から引きずり降ろされ、ファレルに右手でビンタを食らい顔をカメラに向かってのけぞらせるまでが一連のシークエンス。

かたくなだったファレルの挑発に成功し、感情むき出しで手を出させることができた、「悪女」リタ・ヘイワースの一生の名刺代わりの、写真映えする名シーンだ。

グレン・フォード(右)

最後にファレルに一途な恋心を吐露し、二人でアメリカでの再出発を予定するのは、当時の検閲を意識した、ハピーエンデイング。
このためにギルダの悪女ぶりが不徹底となった。
イカサマ賭博師のはずだったファレルが、女だけには身持ちがいいというあり得ない設定も、同様に検閲を意識したからか。

ギルダについては甘いエンデイングが、マニアックな「悪女」から、わかりやすい「悪女」として一般化することに寄与し、リタ・ヘイワースが、時代の女性性の象徴となることに一役買い、人気をあおったのだろう。

「上海から来た女」  1946年  オースン・ウエルズ監督  コロムビア

リタ・ヘイワースが、オーソン・ウエルズと結婚していた時に作られた作品がこれ。
天才児にしてハリウッドの問題児、オーソン・ウエルズがやっと実現させた、4本目の長編劇映画である。

「オーソン・ウエルズ偽自伝」(バーバラ・リーミング著 1991年文芸春秋社刊)という、ウエルズの評伝がある。

「偽自伝」表紙

「上海から来た女」を見るにあたって、本書を紐解き、リタとオーソンに関する部分のみ拾い読みしようと手に取った。

だが、あまりに面白いので、二人が出会った1942年から、1948年の両者の離婚まで細大漏らさず読み進めてしまった。
その間、オーソンは、2本目の作品「偉大なアンバースン家の人々」が本人の意向にかかわらず、(契約によって)撮影所により再編集され激高したり、南米で長期ロケしながら未完成に終わった次作「すべて真実」の撮影済みフィルムの権利関係でゴタゴタしたり。
やがてコロムビアのタイクーン、ハリー・コーンの援助により「上海から来た女」を製作することになるのだった。

「店自伝」奥付き

「偽自伝」が面白いのは、内容(破天荒なウエルズの行状と、彼を恐れ、対立し、押し込めようとする撮影所などの外部勢力)が面白いうえに、著者(と訳者)の簡潔で的を得た構成(と筆致)が、またいい。

「偽自伝」から、1942年から48年までの、オーソンとリタに関する記述を書き出してみる。

オーソンがリタにアプローチした1942年当時、リタはヴィクター・マチュアと熱い中だった。
『リタを電話口に出すまで5週間かかった』、『でも、いったん電話に答えてくれたら、もうその夜から外で会ってくれた』(「偽自伝」P276)とオーソンは述べる。
オースン・ウエルズは雑誌で見たリタ・ヘイワースに一目ぼれし、周囲には結婚すると漏らすほどだったという。

[『(リタは)異常なほどの傷つきやすさと、飾り気のまったくない性格を備えていて、その点にオーソンは我を忘れて引き込まれていった』(同書P276)

オーソンとリタが付き合い始めたころ、オーソンはデイズニーと提携した「星の王子さま」、イギリスのアレクサンダー・コルダ製作による「戦争と平和」の企画があったが、どちらも実現はしなかった。
オーソンの生涯に、累々と発生した、未完成のままだったり、実現しなかった企画のひとつだった。

RKOは、オーソンと契約していた3本の映画(「市民ケーン」「偉大なアンバーソン家の人々」ともう1本)の3本目は、たとえキャンセル料を払ってでもオーソンには撮らせたくなかった。

1943年9月、リタ主演の「カバーガール」撮影中、二人は結婚届を提出した。
立会人はオーソンの盟友、ジョセフ・コットン夫妻他だった。

1944年3月、リタは妊娠した。

リタは、オーソンの話に懸命に耳を傾け、また政治志向のオーソンを支えようとした。
オーソンはこのようなリタを愛した。
が、一方で、映画、演劇、ラジオ、新聞コラム、大学映画学科での講演などで多忙なオーソンは、しばし自宅を離れ、仕事の合間には、女性との関係が、独身時代同様に途切れなかった。

オーソンが信頼していた秘書のシフラ・ハランが、回想する。
『(私は)リタに対しては、オーソンの浮気を悟らせないよう精一杯の努力をした。』
『リタは可愛くて、美しくて、チャーミングで、気持ちが優しかった。一緒にベッドに入らないことには相手の愛情が信じられないという女の一人だったの』(「偽自伝」P309)。

1944年12月長女レベッカ誕生。

ルーズベルトの選挙応援で長期不在だったオーソンは、この時期ジュデイ・ガーランドとも浮名を流した。

1945年9月、インターナショナルピクチュアズという映画会社がオーソンに「ストレンジャー」の監督をオファー。オーソン3作目の監督作品となった。
ハリウッドでの信頼回復(予算とスケジュールの厳守、わかりやすい内容)を第一目標に臨んだオーソンは、当時、自身の浮気のためリタによって自宅から追い出されていたが、かえってスタジオのスイートルームに泊まり込み、仕事の合間に女性を連れ込んだ。
リタは「ギルダ」の撮影に入っていた。

また、この時期に上演されたオーソン演出の舞台劇「80日間世界一周」は、観客には好評だったものの批評が芳しくなく、収支的には大損害だった。
赤字補填のため、オーソンはコロムビアのタイクーン、ハリー・コーンから25000ドルを借りた。

ハリー・コーンは、東欧系ユダヤ人移民の家庭に生まれ、成功してからは机にムッソリーニのサイン入り肖像画を置き、マフィアの友人がいる、典型的な旧世代のタイクーンだった。
「偽自伝」には、『スターを夢見る新進女優の口にペーパーナイフを突っ込んで歯並びを調べると、唾液で濡れたそのペーパーナイフで今度はスカートをめくりあげ太腿を検分するという男だった』(同書P277)とハリー・コーンの実像が活写されている。
『(コーンの)リタに対する所有欲はすさまじかった』(おなじくP277)とも。

1946年、オーソンは、25000ドルを用立ててくれたコーンとの約束により、「上海から来た女」を製作した。

以上、長々と、「オーソン・ウエルズ偽自伝」から引用してしまった。
ここまで「偽自伝」を読んでから「上海から来た女」を鑑賞した。

DVDカバー

「上海から来た女」は、前作「ストレンジャー」の、わかりやすい結末と納得のゆく人物像による物語ではなく、明らかに「市民ケーン」的な作品だった。
というのは、何よりオーソン自身の個性と好みが優先された映画だからである。

オーソン・ウエルズは豊かな個性と知性、知識に彩られている人物だ。
豊富な文学的知識に彩られた『哲学的』ともいえるナレーションを自身の声で行うことができる。
また、映画に於いて、特徴的、実験的な画面構成を創出でき、またそのための撮影技法を撮影監督とともに作り出せる。

「市民ケーン」の場合では、さらにこけおどしの権威主義に対するオチョクリを堂々と繰り広げてみせた。
まさに自他ともに認める、アメリカ芸能界の風雲児にして反逆児だった。
本人は、芸能人としての自らの評価だけには満足せず、一時期本気で政界(民主党系)に進出しようと考えてもいたようだったが。

オーソン・ウエルズとリタ・ヘイワース

更に「上海から来た女」では、ブレヒトに影響された、『異化効果』が取り入れられている。
これはオーソンがかつて企画して実現しなかった、ブレヒト作の舞台「ガリレオ」への思いからだといわれている。

『オーソンは、(中略)俳優が役柄から自分を切り離し、同時にそれによって観客に感情移入を起こさせないというブレヒトの演劇理論の中心原理を極めて巧妙に応用した映画を作ったのだ』(「偽自伝」P349)

全編、野心満々の若きオーソン・ウェルズのナレーションに彩られたこの作品は、『異化効果』実現のために、納得のゆくストーリーテリングの代わりに、突発的なシチュエーションと、唐突で非説明的な象徴的なセリフをちりばめた。
そのために、映像はショッキングなものであり、悪夢的な状況をなぞってはいたものの、観客に納得のゆく説明は行われなかった。
『オーソンが心配していた通り、コーンには(この)映画が理解できなかった』(「偽自伝」P349)。

オーソンは、主演を演じる当時の妻リタ・ヘイワースの豊かな茶髪を金髪ショートヘアにさせ、全盛を誇ったプロポーションは、アカプルコの海で日光浴する短い場面での水着姿とヨット上でのショートパンツ姿のカットに留めた。
アカプルコの夜景をバックに、白いドレスのすそを翻して逢引きに向かうリタの夢幻のようなカットはあったが。

アカプルコで水着姿のリタ

そしてこの作品のハイライトは、これまで多く語られているように、ラストに近く、チャイナタウンの京劇のシーンから、遊園地のマジックミラーに主要人物が集まる場面である。

数々の映画で引用されることになった、多面の鏡に映る多面の人物の描写。
特に敵役の弁護士(リタ演じるエルザの夫)が10面以上もの鏡に映る姿で突然登場するシーンの斬新さ!
この人物の怪物性、異常さをこの上もなく映像的に表現した場面で、見ていて思わず声が出た。

鏡の間の場面

発砲により、鏡が割れ、人物が虚空から現実に戻るシーンも象徴的。
画面左に横たわったリタ演じる悪女の死にざまを見る突き放したカメラ。
どれも鮮烈だった。

鏡に映るリタ

この鏡の間のシーンは、オーソンがこの作品で表現したかった『異化効果』のための技法であろうが、一方で「市民ケーン」のかなめの場面(幼いケーンが母のもとから連れ子なる場面や、功成り名を遂げたケーンが妻に見放される場面など)で使われた、当時の実験的なパンフォーカス撮影のように、作品の中核をなす技法である。

「市民ケーン」のパンフォーカス、「上海から来た女」の鏡の間は、オーソン・ウエルズが映画史に残した永遠の記憶であり、爪痕である。

本作におけるリタ・ヘイワースは、『スタイルの良さ』という最終兵器を懐に秘めた、『演技する女優』という存在によくトライしていた。

彼女が演劇出身者的な『演技派女優』となることは終生なかった。
リタ53歳の時のフランス映画「渚の果てにこの愛を」での、出奔した息子をスペインのドライブインで待つ母親役を見ても、その誠実で女性的、人間的なありのままの姿以上の演技はなしえていない。

ということは、「上海から来た女」が彼女の最高作だったのではないかと思われる。

DVD裏面

シラカバを伐採したが その6

8月に倒木、玉切りまでたどり着いたシラカバの伐採のその後です。

玉切りしたまま9月が過ぎました。
2階から眼下を眺めるのですが状況は全く変わりません。
ほかの丸太や玉の薪割りは終わりました。
さあ、シラカバの番です!

絶好の薪割り日和

くさびと大小のハンマーをもって山小舎の裏に向かいました。
のちに、鉞とチェーンソーも道具に加えました。

おもむろに、玉の切り口にくさびをセットし、小ハンマーで軽く打ちます。
くさびが固定出来たら大ハンマーで全力で打ち込むと、節などがなければ割れます。
スパッと割れない場合は、鉞で打ち込みます。

玉にくさびを打ち込む
くさび二つでだいたい割れる

節があり、くさびを打ち込んでも、ひびが入らないような玉もあります。
チェーンソーを使ったり、鉞で打ち込んだりします。

玉は、二つ割りし、もう一回割って四つ割りにします。
四つ割りでも、燃やすには大きすぎるのですが、人力で細かく割っている労力を考え、四つ割りのまま、乾燥台に積み込もうと思います。
1年ほど乾燥させ、燃やす前に大きいものは細かく割るつもりです。

スパッと割れない場合は鉞で断ち切る

玉は全部で40個もあったでしょうか。
10個処理すると汗だくで息も上がります。
午前中に2セット。昼食と休憩をはさみ、午後に2セット。
ほぼ割り終わりました。

四つ割りにした薪の山

後日、近めの乾燥台に積み込もうと思います。

ほぼ薪割りを終える

令和6年畑 トウガラシ収穫

今年余りかまえなかった10月の畑に行きました。
夏から放ってあった雑草の残りを刈るためです。
それとトウガラシを収穫するためです。

夏の盛りに猛威を振るった雑草たちも、夜の寒さで半分枯れてきた畑。
枯れた雑草が圃場に倒伏し、覆い尽くしている中、ススキ、ゼンマイなどの雑草が青々と屹立していました。
それらをざっくり草刈り機でなぎ倒しました。
ツル系の雑草が草刈り機の刃に絡みます。

とりあえず、秋の草苅りを終えました。

この後は、本格的に草草が枯れたころに、鹿よけネットの撤収を行いたいと思っています。

その後、夏野菜を採り終わった圃場へ向かいます。
トウガラシが植わっている場所です。

収穫を待つトウガラシ

ここでは、夏草刈りを数度行ったせいか、雑草の猛威は鳴りを潜めています。
キューリ、ズッキーニなどの作物は枯れて、溶け去っています。
ナス、ピーマン類、ゴーヤ、ツルナなどは、株によっては生き残っていて、少々の収穫がありました。

ゴーヤ、白ナス、ツルナ
赤くなった万願寺トウガラシなど

トウガラシの根を抜き取ります。
ガッテン農法の畝に根付いた根っこは、深く、がっちり根を張っていて、自力では抜き取れないこともあります。
トウガラシの根っこも3本中、1本はやむなく鎌で切り取りました。

収穫したトウガラシ

トウガラシは、今年も期待通りの出来です。
陰干しして、東京に送ったり、山小舎で年中使いたいと思います。

カマキリの卵が枝についていた

薪割り機を返却

薪割り機を借りての薪割り作業が終わりました。
薪を割って、乾燥台に積み終わるまで、実働5日ほどかかりました。
作業が終わったので、管理事務所に返却します。

返す前に燃料を満タンにします。
燃料はガソリンです。

燃料は満タン返し

薪割り機を軽トラに積み込みます。
軽量な機械だと、平地からラダーレール上を押して乗せたり、自走させて積み込みますが、薪割り機は自走しない重量機械です。
どれくらい重いかというと、水平な場所でしか人力で引っ張ったり、押したりできないほどです。
それも、よっこいしょと始動をつけてから、はずみで押したり、引いたりしないとだめなのです。

軽トラへの積み込みは、とにかくラダーレールを水平に設置しなければ、山小舎おじさんの力で積み込むことはできません。
そこで、斜面を使うのです。

まずは軽トラを斜面の下に移動

軽トラを斜面の下に止め、ラダーレールが水平になるようにします。

軽トラを下にして、ラダーレールが水平になるように設定

若干斜度はありますが、薪割り機に勢いをつけラダーレール上を移動させ、軽トラの荷台に積み込みます。

ラダーレールが水平ではないものの積み込みにトライする

一気にやらないと、途中で薪割り機が止まったら動かすのが大変ですし、万が一斜面を薪割り機が下って行ったら、重機で引き上げるしかありません。

何とか自力で積み込むことができました

無事、積込みができました。ロープで固定し、出発です。

運転中、機械が動かないようにしっかり縛り付ける

りんごの季節到来 紅玉のチャツネ

りんごの季節となりました。
信州のリンゴ畑は色づいています。

昔からある品種の紅玉は、その酸っぱみとコクが料理などに重宝します。
立科町、北信の高山村などの道の駅や直売所に行くと、毎年、真っ赤な紅玉を買っておきます。

今年も紅玉でチャツネを作りました。
カレーや洋風煮込みなどに隠し味で使うと深みが出る調味料のチャツネ。
山小舎おじさんは「檀流クッキング」を見てチャツネを作り始めました。
火宅の人にして食通の檀一雄、の息子の檀太郎が文庫本にまとめた、カラー写真集のレシピ集があるのです。
今年もレシピを再確認して、作業開始です。

紅玉を皮付きのまま、芯を取ってスライスします。
ニンニクとショウガをみじん切りしておきます。

フライパンでニンニク、ショウガを炒め、紅玉のスライスを投入します。
弱火にして蓋をし、時々混ぜながらしばらく置きます。

紅玉に火が通り、透明に煮崩れてきたら調味料の準備です。
レーズンをみじん切りしておきます、ザラメ、酢、塩、レモン汁、とうがらしを分量分用意します。
それぞれを投入して、混ぜながら煮込みます。

汁けがなくなったら出来上がりです。
煮沸した保存瓶に入れ、抜気して保存します。

初登場!ローゼルを加工する

ローゼルという野菜?に初めて出会ったのは、伊那のグリーンファームという、攻めた!直売所で、でした。

赤い実?が詰められたワンパックが、420円でした。

信州に来てから、ガーデンハックルベリー、ナツメの実、青いトマト、トウガラシの葉、などなどの珍しい食材を目にしてきました。
また最近は、ポポーなどという外来種?の食材も目にします。

ローゼルを見掛けた時は「こういう食材があるのか。売っているくらいだから食べられるのだろうし、加工レシピの紙も入っているしな。」と思い、買ってみることにしました。
元気そうな赤い色も気に入りました。

伊那グリーンファームで入手した、飯田産のローゼルのつぼみ

買って帰ってから、ビニールパックに同封されていたレシピを広げてみますがよくわかりません。
ネットで検索して加工法を確認しました。

実?からガクを外し、さらに種を抜いて残りの部分をジャムにし、ガクは乾かしてハーブティーに、種は来年の種まき用にするみたいでした。
といいうか実だと思っていたのは、実ではなく、つぼみとのことでした。
ハイビスカス系のローゼルという植物のつぼみをが売られているのでした。

水洗いする

早速加工します。
まず全体を水洗い、ついで、ガクと種を取り外します。

手でガクを取り、種を取り出す
ガクと種

ネットでは、ガクの部分をカットしていましたが、入手したローゼルは、手でガクをむしり取った後、種を手で取り出す方が早いので、そうしました。

残った部分は想像以上に少なくなりました。
ジャムにするために砂糖をまぶしてしばらく置きました。

ガクと種以外をジャムにする

ガクと種はザルに乗せてストーブのそばに置きました。

ハーブティー用に乾燥させるガク
来年の種まき用にする種

ジャムを煮ましたが、分量が少なくすぐ煮えました。
出来上がったジャムは、小さな瓶にも、満杯にならないほどの量でした。
ガクのハーブティーともども味わうのが楽しみです。

攻めまくり!伊那グリーンファーム直売所

伊那市にグリーンファームという直売所があります。
NHKの「ドキュメント72時間」という番組で紹介されるまで、山小舎おじさんは知りませんでした。
どうも、道の駅とか、農協の直売所ではなく、個人経営のマーケットのような場所らしいのです。
ノーチェックの場所でした。

番組を見たら、面白そうな場所だったので、伊那方面に行ったついでに寄ってきました。
実に攻めまくり!の直売所でした。

この日は日曜日、昼近くの駐車場は満車に近い盛況です。
伊那市の西側の田園地帯にあるグリーンファーム。
野菜や鶏卵の生産者である団体が経営しているようです。

伊那グリーンファームに到着

夏のような日差しの中、軽トラを止めて店舗に向かいます。
まず目に入るのは、店舗の建物の外壁に沿って並ぶ中古家具の姿です。

店舗の外側には古家具の山が

それを眺めながら店舗入り口へ向かうと、信州ではなかなか見ることができない、大人数の列が入り口に向かって並んでいます。
「えっ、こんなに混んでいるの?」と一瞬ひるみました。
なんと、人気の大学芋を買うために人が並んでいたのです。

店舗内に入ると買い物客で混雑しています。
直売所というよりは、廉価販売の倉庫風の店の雰囲気が漂います。

商品は、雑貨、菓子、金物、調味料から古本、古レコードまであります。
野菜、果物のコーナーが面積の半分ほどを占めているとはいえ、何でもありの商品構成です。

「ドキュメント72時間」でも、入植したばかりの素人風の生産者が、ハーブを出品している場面がありました。
古本や、古レコードを出品する人もいるのでしょう。

陳列商品には信州の特産品が
乾物、荒物も売っている
地域に必要な日用品の数々

来客のお目当ては何と言っても野菜、果物などの生産物。
折から季節的にはブドウをはじめリンゴ、ナシで大盛り上がり。
この日はマツタケなどもありました。

メインは新鮮野菜と果実

オオスズメバチの生きた成虫を、幼虫が入っている巣ごと売られているのは初めて見ました。
熊肉や鹿肉などもあります。

これは!危なくないのか。値段高いけど
ジビエの品ぞろえも抜かりなく

野菜では、ローゼルというハイビスカスに似た植物のつぼみや、最近見掛けるポポーという作物の実などもありました。
ローゼルは初めて見ました。

総菜、弁当などは売られていませんが、グリーンファーム手作りの新米おにぎりがありました。
パンやエスニックカレーの弁当はありましたが、ここでランチなどを調達しようとすると、選択肢が少ないかもしれません。

外へ出ると、ケージの中に鶏が数羽遊んでいて子供が眺めています。
この鶏も売り物で2700円とありました。
ソフトクリームの売り場もあり300円と割安です。

旨そうなおにぎりがてんこ盛り
ランチにはエスニックカレーも
攻めてるなあ

ローセル、おにぎり、グリーンファームさんの鶏卵のほか、保存瓶、酢の大びんなどを買いました。

帰りの駐車場には中京圏を中心に県外ナンバーの車が押し寄せての大盛況でした。
家族にも一度見せたいと思う伊那グリーンファームでした。

グリーーンファーム駐車場より西方を望む

小野神社、矢彦神社の戦争遺産

信州で戦前から続く文化遺産に接していると、戦前の文化がそのまま残っている例に接することがあります。

例えば御柱祭のトランペットマーチです。
御柱を氏子たちが引いて歩き、世話人が要所で木遣りを詠いますが、その際に地元の青年団などが景気づけにトランペットでマーチを演奏します。

その曲目が、旧日本陸軍の突撃ラッパだったりします。
今どき日本国内の公共の場所で、それなりの公人が旧国軍の戦意高揚の曲を高らかに奏であげるものでしょうか。
あっけらかんとした痛快さに驚きました。

それこそ戦後すぐにGHQが目の敵にし、それの意を汲んだ国内勢力がGHQなりに忖度して自主規制してきた文化の一つなのではないでしょうか。
その時期もとうに過ぎ、今や昭和遺産としてレトロブームの一環なのかもしれませんが。

そういうことで、辰野町小野地区の国道153号線を走っていると目につく古い神社、小野神社と矢彦神社を訪れてみると、同様な遺物に接することができます。
そこには、戦前の国威発揚のたまものなのでしょうか、大砲の弾丸だったり、砲筒だったりが境内に飾られています。

小野神社の鳥居
小野神社本殿

小野神社には大砲の弾丸の碑が建っています。
同社には、乃木希典書の忠魂碑もあります。
国内の大きな神社は、明治以降の国家神道時代を生き抜いてきた施設ですから、戦前の国威発揚時代の遺物だったり、土俵だったりはよくあります。
弾丸も神社にはよくあるものの一つなのでしょうか。
異彩を感じたのは私だけなのでしょうか。

小野神社境内の弾丸碑
小野神社境内の土俵

秀吉時代に行われた、知行割りの結果として分社して小野神社の隣に立つ矢彦神社には、大砲の筒が碑として立っています。
これも弾丸同様に、現代にあっては、歴史と時代の変遷を色濃く感じさせる遺物です。

矢彦神社鳥居
矢彦神社本殿
矢彦神社境内の砲筒碑

会津若松の白虎隊終焉の地、飯盛山へ行った時のことを思い出しました。
そこの一角に鍵十字をあしらった碑が建っています。
鍵十字はドイツ国防軍のトレードマーク’(現在も)ですが、この碑は、戦前のドイツが白虎隊の精神に感動して贈ったものだそうです。
戦後直後はGHQによる没収を恐れて、地元有志が隠していたとのエピソードが添えられていました。
歴史を感じさせる重みがありました。

DVD名画劇場 「ダンシング」リタ・ヘイワース

1940年代のハリウッドの名花リタ・ヘイワースは、1928年ニューヨークに生まれた。
1930年代に映画デヴューし、1940年代には、コロムビア映画から売り出し、踊りがうまく、スタイルのいい美人女優として、ミュージカル映画などで一世を風靡した。
のちには、妖艶な悪女役としても勇名をはせた。

リタ・ヘイワースが映画史に残る女優だったことは、1999年にアメリカン・フィルム・インスティテュートが選出した「映画スターベスト100」の女優部門で19位に選出されていることからもうかがえる。
ついでに淀川長治著「マイベスト37 私をときめかせた女優たち」(1991年 テレビ朝日刊)でも、わが淀長さんの女優ベスト37の一人として取り上げられている。

リタがいかにしてスターとなったかは、40年代のハリウッドを網羅した、オットー・フリードリック著の「ハリウッド帝国の興亡」(1994年 文芸春秋社刊)に詳しい。
同著P209からP219までを要旨抜粋してみる。

父親はマドリッドからアメリカに来たダンサーで、その先祖は15世紀にカソリックに回収したスペイン系ユダヤ人だった。
母親はジーグフェルドフォリーズの踊子で、リタの本名はマルガリータ・カルメン・ドロレス・カンシノといった。

リタは9年間の初等教育を受けただけで、13歳から父親とともにクラブで踊った。
13歳では酒を売る店では踊れなかったため、父とともにメキシコに流れた。
やがてサンジエゴ郊外のクラブに戻り、そこで20世紀フォックスの製作部門の副社長ウインフィールド・シーハンに見いだされ、名前をリタに変え、週給200ドルで契約した。
数本の映画に端役で出たあと、フォックスに乗り込んできたダリル・ザナックに解雇された。

面倒を見ようとする中年男に不自由しないリタのもとに、40歳のエドワード・ジャドソンが現れ、二人は結婚した。リタは18歳だった。
ジャンソンはリタを売り出すべく、コロムビアと週給250ドルで契約し、芸名をリタ・カンシノからリタ・ヘイワースに変えた。
黒の縮れ毛を赤茶に染め、生え際を脱毛し、ラテンの美女からアングロアメリカンに変身した。
ジャンソンはまた週給75ドルで広報エージェントを雇い、リタの売り出しに務めた。

ジャンソンは、500ドルのドレスでリタを着飾り、高級クラブ・トロカデロに連れてゆき、大作「コンドル」を打ち合わせていた、コロムビアのタイクーンのハリー・コーンとハワード・ホークス監督のテーブルの近くに座らせた。
リタは役を得た。
次に、アン・シェリダンが蹴った「いちごブロンド」の役を、監督ラオール・ウオルシュの推薦で獲得し、ジェームス・ギャグニーと共演した。

完璧なアングロアメリカンとなったリタは「血と砂」(1941年)で、『ラテン系を演ずるアングロ女優』の立場を得るまでになった。
コロムビアのタイクーン、ハリー・コーンはスターとなったリタにのぼせ上ったが、リタはヴィクター・マチュアと火遊びし、オーソン・ウエルズとの結婚を突如発表した。
リタをここまで世話してくれたジャンソンとの結婚はとっくに解消状態だった。


コロムビア映画のタイクーン、ハリー・コーン

「晴れて今宵は」 1942年  ウイリアム・A・サイター監督 コロムビア

コロムビアでスターとなったリタ・ヘイワースが、フレッド・アステアを迎えてのミュージカル。
アステアは30年代にRKOでジンジャー・ロジャースとのコンビで連作したミュージカルで大ヒットを連発し、国民的スターとなっていた。
40年代に入り、映画を離れ旅行と競馬、ゴルフに明け暮れたいたが、突然リタ・ヘイワースとの共演話のオファーが来た。
折から太平洋戦争真っただ中の1942年、アメリカ国民は現実から一時的にせよ逃避できる明るい単純な映画を必要としていた。

アステアはコロムビアで「踊る結婚式」(1941年)と「晴れて今宵は」の2作をリタ・ヘイワースと共演した。
さらに「スイングホテル」(マーク・サンドリッチ監督)でビング・クロスビーと共演。
それぞれ大ヒットとなり40年代のアステアの地位を固めた。

アステアはまた、ほかのスター達(ジェームス・ギャグニー、ジュデイ・ガーランド、ミッキー・ルーニー、グリア・ガーソン、ベテイ・ハットンら)同様に、国内外を問わず、第二次大戦下の米軍兵士の慰問を積極的に行った。

「踊る結婚式」アスエアとのコンビ第一作

「晴れて今宵は」の前作「踊る結婚式」で初めてリタ・ヘイワーと会ったアステアは、リタが『フレッド・アステアと踊ることを恐れている』ことを見抜き、冗談を言ったりちょっとした悪戯をしてリタの緊張を解いた。

アステアはリタがカンがよく、これまで一緒に踊った人の中では一番呑み込みが早いことに気が付いた.。
『しかも、彼女はリハーサルの時よりも、本番の方がずっとよかった』(ボブ・トーマス著「アステア・ザ・ダンサー」:1989年新潮社刊 P211)。

「晴れて今宵は」より

では「晴れて今宵は」を観賞しよう。
舞台はブエノスアイレス。
ニューヨークを出て旅の途中のアステアが競馬場で馬券をスッた場面からのスタート。
有名なダンサーのアステアが仕事にあぶれ、ブエノスアイレスまで流れてきた、という設定。

現地の有力者で、スコットランドからの移民という設定のアドルフ・マンジューの事務所に売り込みにゆくアステア。
マンジューには4人娘がおり、長女が結婚し、三女四女が結婚前提のボーイフレンドがいるのに、次女のリタ・ヘイワースに一向にその気がなく、男っ気がないので、親父のみならず、妹たちまでがやきもきする。

ワンマン親父のマンジューが、仕事のワンマンぶりのみならず、次女の恋愛と結婚話に自ら口を突っ込み、それにアステアが巻き込まれてバタバタするというハートウオーミングなコメデイ。

アステアが単独で歌い踊り、またリタと組んで踊る。
アステアといえばまずはRKO時代のジンジャー・ロジャースとのコンビ。
ジンジャーの流れるようなリズム感、パートナーを立てるような動きも素晴らしいが、リタの踊りはまた違った。

プライベートでのリタ・ヘイワースは、コロムビア映画のスターとして売り出す過程で、黒毛を赤く染め、ラテン系の血を隠したのだが、画面で踊るリタからは隠しようもないラテンの血が沸き立っている。
そのリズム感、陽気さ、喜びは、持って生まれた美貌と妖艶さと相まって、見る者を陶酔の境地へと誘う。
何よりリタ自身が喜んで踊っているのがわかる。

コロムビア映画の後押しにより豪華な衣装、主役としてのおぜん立て、文句のない相手役に恵まれたリタだが、演技者としての未熟は隠しようがない。
ところが踊り出すと別人のように光り輝く。

『リタは全く演技ができなかった。その顔は化粧で凍り付いた面のようだった、セリフは不自然で血が通っていなかった。(中略)それでも、他の総てを補う要素がまだひとつあった。踊ると、リタ・ヘイワースは変身するのだ。』(「ハリウッド帝国の興亡」P216)。

「カバーガール」 1943年 チャールズ・ヴィドア監督  コロムビア

スターとなったリタ・ヘイワースが、「晴れて今宵は」のフレッド・アステアに続き、ミュージカル界の大物ジーン・ケリーを迎えての1作。

大物の配役はリタの相手役のジーン・ケリーだけとし、その代わり豪華というかカラフルというか派手なセットと、女優たちの衣装、何より主役リタの魅力を最大限にフィーチャーした作りとなっている。

リタの、形がよく、何よりダンサーとして鍛えられ、欠点のない脚を前面に出してのダンスシーンで始まる冒頭。
カバーガールのオーデイションを受けるときのリタのファッションもカラフルで凝っている。

ジーン・ケリー(ともう一人の仲間)と街角に繰り出してのダンスシーンは、待ってましたの元気さ、ぴったりの呼吸、で見る者を夢の世界へ誘う。
リタの踊りは、目立ちたがりのジーン・ケリーのがむしゃらな動きにも負けていない。
ケリーに対抗するのではなく、自分の世界に見る者の目を向けさせる輝きを放つ。

ジーン・ケリーは、ソロで自分の分身とシンクロしたり、組んだりしてダンスを行う見せ場がある。
こういった映画的アイデアに富んだダンスシーンは、MGMミュージカルの名シーンを思い出させる。
こちらの方が先行しているのかもしれない?

映画のストーリーは、ブルックリン(ニューヨークの下町)の小さなシアターで、明日を夢見るダンサーのリタが、第二次大戦下の北アフリカで負傷した過去を持つジーン・ケリーと相思相愛。
ひょんなことから、リタが、雑誌のカバーガールで有名となり、ブロードウエイへの切符をつかむ。
そこから二人の仲がぎくしゃくするが、いざ、リタがブロードウエイの大プロデウーサーから求婚され我に返ると、ジーン・ケリーが忘れられないことに気づき、その胸に戻ってくる、というもの。

下町のシアターの描き方が面白い。
そこでの売り物は元気な踊り子たちの脚と陽気な観客。
ストリップ小屋の楽屋のような天井裏の楽屋では若い踊り子たちが右往左往している。
厨房で、料理人とウエイターが天手古舞で客の注文をさばいている(料理付きの場末のシアターというものがあるんだ?)。

下町。舞台裏。若者の夢。スターダムと転落。
まるでジュデイ・ガーランドの「スタア誕生」のようでもある。
主演女優の実半生をモチーフに、バックステージを含めて描くやり方は、多くの映画で見られるが、MGMの「イースターパレード」のようにコロムビア映画でも作られていたんだ!?

カバーガールとして名が売れ、ブロードウエイにスカウトされ、名のあるプロデユーサーに求婚され、映画のセットのような豪邸に住むのが踊り子のスター誕生物語だとしたら、下町の大衆シアターで嬉しそうに踊り、相思相愛の支配人と毎週金曜のレストランで牡蠣を注文し、夢を追い続けるのが現実。
リタ・ヘイワースには、『現実』の物語が似合っている。

車の中で、ブロードウエイのプロデユーサーに求婚され、とっさに困ったような無表情を見せるリタ.。
それが彼女の演技下手のせいばかりではなく、思わず自らの出自、人格が現れたように見えたのは、気のせいだろうか。

『「カバーガール」は大ヒットした。(中略)1943年に、近所の映画館の静まり返った観客席でこの映画を観た人間は、いやも応もなくリタ・ヘイワースに恋をしてしまったものだ。これほど美しく、これほどロマンテイックで、これほど妖しい魅力を湛えた女がいようはずはなかった。』(「ハリウッド帝国の興亡」P215)

観客を恋人にする、リタ・ヘイワースは紛れもなく1940年代の女神だった。.

「地上に降りた女神」  1947年  アレクサンダー・ホール監督   コロムビア

リタ・ヘイワースが29歳になる年の作品。
きらびやかなカラー映像のミュージカル作品で正統派のヒロインを演じている。

「地上に降りた女神」より

リタは前年に、代表作となる「ギルダ」に出演して、悪女役を演じている。
そういった意味では役柄の幅を広げ始めたころの1作。
本作の後、同年1947年には、当時の夫、オーソン・ウエルズが監督した「上海から来た女」に出演し、正真正銘の悪女役を演じてもいる。

「晴れて今宵は」「カバーガール」のころの、ぴちぴちとした若さは落ち着いている。
同時におどおどとしたこわばりは薄れ、余裕あるたたずまいを見せ始めている。
いざ踊りが始まると、はつらつと躍動し、キレがよく、実に嬉しそうに踊っている。
振り付けに忠実な正確な踊りもできる。
脚の線、形は相変わらずきれいでセクシー。
この作品には、我々の期待通りに色気があり、かつ少々芸の幅を広げたリタ・ヘイワースがいる。

ただ、どうだろう、フレッド・アステアがいた「晴れて今宵は」や、ジーン・ケリーがいた「カバーガール」と比べて、ミュージカルシーンの単純さ、底の浅さは否めない。
ここはご両人の芸の深さ、存在感を称えるべきか。
ご両人のいないコロムビアスタジオ製のミュージカルは、セットの空間が狭く感じられ、ダンサーの衣装に手はかかっているが、プラスアルファの想像を刺激しない。

アステアやケリーなど、芸達者な共演者が不在の「地上に降りた女神」で、主演のリタは、より一層頑張らなければならない中で、前述した演技の余裕と相変わらずのダンスのキレで、ほぼほぼ見る者の期待には応えている。
スターとしてハリウッド映画の主役を張れる女優さんが持っているものには、やはりただならぬものがある。

芝居の面でいうと、情感をたたえるような場面でのリタの表情はいい。
初公演の場フィラデルフィアに向かう列車の中でのラブシーンはロマンテイックだった。

天上の女神が地上で自らを主役にした下品な(人間的な)舞台が行われることを知り、人間に化身して主役になって舞台を成功させるとともに、相手役兼演出者(ラリー・パークス)と恋に落ちる、という浮世離れしたストーリーの映画だが、そういった現実離れした設定でのラブシーンでは、リタの情感たっぷりな表情が生きるし、ダンスも際立つ。

リタ・ヘイワースという女優さん。
ダンスがダントツで、喜びを体で表現する才能に満ちている。
20代後半になって、情感たっぷりの演技もできるようにもなった。

さて、その後のキャリアはどう花開いたのか?
彼女の代表作といわれ、世界中の男を虜にしたのは、悪女役に目覚めた「ギルダ」(1946年)であった。
次回はそのあたりの作品を見てみよう。

 

信州ソウルフード放浪記VOL.38 小野タイガー食堂

食堂タイガーは数年前の軽トラの旅で紹介したことがあります。
辰野町小野地区に昔からある食堂です。
辰野町は県央というか、日本中央部に位置する町で、塩尻の南にあります。

久しぶりに食堂タイガーに寄ってみました。
前回訪問時に食べた、豚焼肉丼と鳥だしの効いたラーメンの味が忘れられません。

この日は雨、開店の11時半前には、店の駐車場には車の姿はありません、前回訪問時は11時くらいから並んでいましたが。

駐車場から見る看板

駐車場で待っていると、開店時間ジャストに髭を生やした愛想のいい店主がやってきて「お待たせしました」と開店を告げました。
この人が前回訪問時に母親と一緒に店を切り回していたお兄さんのようです。

店主は最近ヘルニアから復帰したばかりとのこと

焼き肉丼とラーメンのセットを頼みました。
前回は確か1500円くらいでしたが、2000円になっていました。
その間に、中年男性の3人組が入店。
店には店主の連れ合いなのでしょうか、若めの女性が店主とともに配膳を行っていました。
前回張り切って店を切り回していたお母さんもお元気とのことでしたが、ホールに姿は現しませんでした。

メニューより

この食堂は戦後の一時期に、裸の大将こと山下清が、新潟長岡?への旅の途中に1か月ほど逗留した場所です。
前回訪問時にはメニューに、当時の新聞記事のコピーなどが添付されていましたが、現在では「裸の大将の記憶」が薄れたのか、メニューでの紹介はなく、代わって壁に当時の記録が1枚掲示されていました。
当時の新聞記事に、文字通りふんどし一丁の裸の大将が写った写真が載っています。

裸の大将関連の展示も残されている。食堂タイガーは歴史遺産でもある。
芸能人、徒歩旅の旅人などの色紙も飾られている

焼き肉丼セットをいただきます。
最初にちょっと後悔したのが量の多さ!
信州の食堂の多くでは、セットメニューというとそれぞれが1人前ずつついてくるのです。

メニューではハーフサイズのどんぶりとなっていますが、十分1人前の分量です。
68歳の山小舎おじさんにはいささか多すぎです。

焼き肉丼・ラーメンセット。満腹!

とはいえ見るからにおいしそうな焼き肉丼は変わらない味でした。
甘めのたれが効いた美味しい豚肉の生姜焼きどんぶりは、最後まで飽きずにいただけました。
ラーメンは鳥だしのうまさに驚いた記憶があったのですが、今回はそこまでの味がなく、よくある醤油ラーメンに近い味となっていたような気がします。
というか、後半はおなかいっぱいでラーメンのダシを味わう余裕はなかったのかもしれません。

食堂タイガーの店内

歴史ある食堂でここまで料理の水準を維持し、小野地区で続いているということ自体が奇蹟的です。
店主もまだ若く今後の継続も期待できる食堂です。

小野という地区は、遥か平安時代に書かれた「枕草子」に『里は』と気された土地とのこと。
また、地区にある信濃国二之宮・矢彦神社と小野神社は創建時期がわからないほど古く、後年、秀吉の知行割りによって一つの神社が分社となったものとのこと。

地形的には、千曲川へそそぐ水系と、天竜川への水系の分水嶺の麓に位置する古い土地です。
現在は国道153号線沿道と、飯田線小野駅を中心に集落が広がっています。

国道153号線沿いにある地区の鎮守・小野神社