1940年代のハリウッドの名花リタ・ヘイワースは、1928年ニューヨークに生まれた。
1930年代に映画デヴューし、1940年代には、コロムビア映画から売り出し、踊りがうまく、スタイルのいい美人女優として、ミュージカル映画などで一世を風靡した。
のちには、妖艶な悪女役としても勇名をはせた。
リタ・ヘイワースが映画史に残る女優だったことは、1999年にアメリカン・フィルム・インスティテュートが選出した「映画スターベスト100」の女優部門で19位に選出されていることからもうかがえる。
ついでに淀川長治著「マイベスト37 私をときめかせた女優たち」(1991年 テレビ朝日刊)でも、わが淀長さんの女優ベスト37の一人として取り上げられている。
リタがいかにしてスターとなったかは、40年代のハリウッドを網羅した、オットー・フリードリック著の「ハリウッド帝国の興亡」(1994年 文芸春秋社刊)に詳しい。
同著P209からP219までを要旨抜粋してみる。
父親はマドリッドからアメリカに来たダンサーで、その先祖は15世紀にカソリックに回収したスペイン系ユダヤ人だった。
母親はジーグフェルドフォリーズの踊子で、リタの本名はマルガリータ・カルメン・ドロレス・カンシノといった。
リタは9年間の初等教育を受けただけで、13歳から父親とともにクラブで踊った。
13歳では酒を売る店では踊れなかったため、父とともにメキシコに流れた。
やがてサンジエゴ郊外のクラブに戻り、そこで20世紀フォックスの製作部門の副社長ウインフィールド・シーハンに見いだされ、名前をリタに変え、週給200ドルで契約した。
数本の映画に端役で出たあと、フォックスに乗り込んできたダリル・ザナックに解雇された。
面倒を見ようとする中年男に不自由しないリタのもとに、40歳のエドワード・ジャドソンが現れ、二人は結婚した。リタは18歳だった。
ジャンソンはリタを売り出すべく、コロムビアと週給250ドルで契約し、芸名をリタ・カンシノからリタ・ヘイワースに変えた。
黒の縮れ毛を赤茶に染め、生え際を脱毛し、ラテンの美女からアングロアメリカンに変身した。
ジャンソンはまた週給75ドルで広報エージェントを雇い、リタの売り出しに務めた。
ジャンソンは、500ドルのドレスでリタを着飾り、高級クラブ・トロカデロに連れてゆき、大作「コンドル」を打ち合わせていた、コロムビアのタイクーンのハリー・コーンとハワード・ホークス監督のテーブルの近くに座らせた。
リタは役を得た。
次に、アン・シェリダンが蹴った「いちごブロンド」の役を、監督ラオール・ウオルシュの推薦で獲得し、ジェームス・ギャグニーと共演した。
完璧なアングロアメリカンとなったリタは「血と砂」(1941年)で、『ラテン系を演ずるアングロ女優』の立場を得るまでになった。
コロムビアのタイクーン、ハリー・コーンはスターとなったリタにのぼせ上ったが、リタはヴィクター・マチュアと火遊びし、オーソン・ウエルズとの結婚を突如発表した。
リタをここまで世話してくれたジャンソンとの結婚はとっくに解消状態だった。
「晴れて今宵は」 1942年 ウイリアム・A・サイター監督 コロムビア
コロムビアでスターとなったリタ・ヘイワースが、フレッド・アステアを迎えてのミュージカル。
アステアは30年代にRKOでジンジャー・ロジャースとのコンビで連作したミュージカルで大ヒットを連発し、国民的スターとなっていた。
40年代に入り、映画を離れ旅行と競馬、ゴルフに明け暮れたいたが、突然リタ・ヘイワースとの共演話のオファーが来た。
折から太平洋戦争真っただ中の1942年、アメリカ国民は現実から一時的にせよ逃避できる明るい単純な映画を必要としていた。
アステアはコロムビアで「踊る結婚式」(1941年)と「晴れて今宵は」の2作をリタ・ヘイワースと共演した。
さらに「スイングホテル」(マーク・サンドリッチ監督)でビング・クロスビーと共演。
それぞれ大ヒットとなり40年代のアステアの地位を固めた。
アステアはまた、ほかのスター達(ジェームス・ギャグニー、ジュデイ・ガーランド、ミッキー・ルーニー、グリア・ガーソン、ベテイ・ハットンら)同様に、国内外を問わず、第二次大戦下の米軍兵士の慰問を積極的に行った。
「晴れて今宵は」の前作「踊る結婚式」で初めてリタ・ヘイワーと会ったアステアは、リタが『フレッド・アステアと踊ることを恐れている』ことを見抜き、冗談を言ったりちょっとした悪戯をしてリタの緊張を解いた。
アステアはリタがカンがよく、これまで一緒に踊った人の中では一番呑み込みが早いことに気が付いた.。
『しかも、彼女はリハーサルの時よりも、本番の方がずっとよかった』(ボブ・トーマス著「アステア・ザ・ダンサー」:1989年新潮社刊 P211)。
では「晴れて今宵は」を観賞しよう。
舞台はブエノスアイレス。
ニューヨークを出て旅の途中のアステアが競馬場で馬券をスッた場面からのスタート。
有名なダンサーのアステアが仕事にあぶれ、ブエノスアイレスまで流れてきた、という設定。
現地の有力者で、スコットランドからの移民という設定のアドルフ・マンジューの事務所に売り込みにゆくアステア。
マンジューには4人娘がおり、長女が結婚し、三女四女が結婚前提のボーイフレンドがいるのに、次女のリタ・ヘイワースに一向にその気がなく、男っ気がないので、親父のみならず、妹たちまでがやきもきする。
ワンマン親父のマンジューが、仕事のワンマンぶりのみならず、次女の恋愛と結婚話に自ら口を突っ込み、それにアステアが巻き込まれてバタバタするというハートウオーミングなコメデイ。
アステアが単独で歌い踊り、またリタと組んで踊る。
アステアといえばまずはRKO時代のジンジャー・ロジャースとのコンビ。
ジンジャーの流れるようなリズム感、パートナーを立てるような動きも素晴らしいが、リタの踊りはまた違った。
プライベートでのリタ・ヘイワースは、コロムビア映画のスターとして売り出す過程で、黒毛を赤く染め、ラテン系の血を隠したのだが、画面で踊るリタからは隠しようもないラテンの血が沸き立っている。
そのリズム感、陽気さ、喜びは、持って生まれた美貌と妖艶さと相まって、見る者を陶酔の境地へと誘う。
何よりリタ自身が喜んで踊っているのがわかる。
コロムビア映画の後押しにより豪華な衣装、主役としてのおぜん立て、文句のない相手役に恵まれたリタだが、演技者としての未熟は隠しようがない。
ところが踊り出すと別人のように光り輝く。
『リタは全く演技ができなかった。その顔は化粧で凍り付いた面のようだった、セリフは不自然で血が通っていなかった。(中略)それでも、他の総てを補う要素がまだひとつあった。踊ると、リタ・ヘイワースは変身するのだ。』(「ハリウッド帝国の興亡」P216)。
「カバーガール」 1943年 チャールズ・ヴィドア監督 コロムビア
スターとなったリタ・ヘイワースが、「晴れて今宵は」のフレッド・アステアに続き、ミュージカル界の大物ジーン・ケリーを迎えての1作。
大物の配役はリタの相手役のジーン・ケリーだけとし、その代わり豪華というかカラフルというか派手なセットと、女優たちの衣装、何より主役リタの魅力を最大限にフィーチャーした作りとなっている。
リタの、形がよく、何よりダンサーとして鍛えられ、欠点のない脚を前面に出してのダンスシーンで始まる冒頭。
カバーガールのオーデイションを受けるときのリタのファッションもカラフルで凝っている。
ジーン・ケリー(ともう一人の仲間)と街角に繰り出してのダンスシーンは、待ってましたの元気さ、ぴったりの呼吸、で見る者を夢の世界へ誘う。
リタの踊りは、目立ちたがりのジーン・ケリーのがむしゃらな動きにも負けていない。
ケリーに対抗するのではなく、自分の世界に見る者の目を向けさせる輝きを放つ。
ジーン・ケリーは、ソロで自分の分身とシンクロしたり、組んだりしてダンスを行う見せ場がある。
こういった映画的アイデアに富んだダンスシーンは、MGMミュージカルの名シーンを思い出させる。
こちらの方が先行しているのかもしれない?
映画のストーリーは、ブルックリン(ニューヨークの下町)の小さなシアターで、明日を夢見るダンサーのリタが、第二次大戦下の北アフリカで負傷した過去を持つジーン・ケリーと相思相愛。
ひょんなことから、リタが、雑誌のカバーガールで有名となり、ブロードウエイへの切符をつかむ。
そこから二人の仲がぎくしゃくするが、いざ、リタがブロードウエイの大プロデウーサーから求婚され我に返ると、ジーン・ケリーが忘れられないことに気づき、その胸に戻ってくる、というもの。
下町のシアターの描き方が面白い。
そこでの売り物は元気な踊り子たちの脚と陽気な観客。
ストリップ小屋の楽屋のような天井裏の楽屋では若い踊り子たちが右往左往している。
厨房で、料理人とウエイターが天手古舞で客の注文をさばいている(料理付きの場末のシアターというものがあるんだ?)。
下町。舞台裏。若者の夢。スターダムと転落。
まるでジュデイ・ガーランドの「スタア誕生」のようでもある。
主演女優の実半生をモチーフに、バックステージを含めて描くやり方は、多くの映画で見られるが、MGMの「イースターパレード」のようにコロムビア映画でも作られていたんだ!?
カバーガールとして名が売れ、ブロードウエイにスカウトされ、名のあるプロデユーサーに求婚され、映画のセットのような豪邸に住むのが踊り子のスター誕生物語だとしたら、下町の大衆シアターで嬉しそうに踊り、相思相愛の支配人と毎週金曜のレストランで牡蠣を注文し、夢を追い続けるのが現実。
リタ・ヘイワースには、『現実』の物語が似合っている。
車の中で、ブロードウエイのプロデユーサーに求婚され、とっさに困ったような無表情を見せるリタ.。
それが彼女の演技下手のせいばかりではなく、思わず自らの出自、人格が現れたように見えたのは、気のせいだろうか。
『「カバーガール」は大ヒットした。(中略)1943年に、近所の映画館の静まり返った観客席でこの映画を観た人間は、いやも応もなくリタ・ヘイワースに恋をしてしまったものだ。これほど美しく、これほどロマンテイックで、これほど妖しい魅力を湛えた女がいようはずはなかった。』(「ハリウッド帝国の興亡」P215)
観客を恋人にする、リタ・ヘイワースは紛れもなく1940年代の女神だった。.
「地上に降りた女神」 1947年 アレクサンダー・ホール監督 コロムビア
リタ・ヘイワースが29歳になる年の作品。
きらびやかなカラー映像のミュージカル作品で正統派のヒロインを演じている。
リタは前年に、代表作となる「ギルダ」に出演して、悪女役を演じている。
そういった意味では役柄の幅を広げ始めたころの1作。
本作の後、同年1947年には、当時の夫、オーソン・ウエルズが監督した「上海から来た女」に出演し、正真正銘の悪女役を演じてもいる。
「晴れて今宵は」「カバーガール」のころの、ぴちぴちとした若さは落ち着いている。
同時におどおどとしたこわばりは薄れ、余裕あるたたずまいを見せ始めている。
いざ踊りが始まると、はつらつと躍動し、キレがよく、実に嬉しそうに踊っている。
振り付けに忠実な正確な踊りもできる。
脚の線、形は相変わらずきれいでセクシー。
この作品には、我々の期待通りに色気があり、かつ少々芸の幅を広げたリタ・ヘイワースがいる。
ただ、どうだろう、フレッド・アステアがいた「晴れて今宵は」や、ジーン・ケリーがいた「カバーガール」と比べて、ミュージカルシーンの単純さ、底の浅さは否めない。
ここはご両人の芸の深さ、存在感を称えるべきか。
ご両人のいないコロムビアスタジオ製のミュージカルは、セットの空間が狭く感じられ、ダンサーの衣装に手はかかっているが、プラスアルファの想像を刺激しない。
アステアやケリーなど、芸達者な共演者が不在の「地上に降りた女神」で、主演のリタは、より一層頑張らなければならない中で、前述した演技の余裕と相変わらずのダンスのキレで、ほぼほぼ見る者の期待には応えている。
スターとしてハリウッド映画の主役を張れる女優さんが持っているものには、やはりただならぬものがある。
芝居の面でいうと、情感をたたえるような場面でのリタの表情はいい。
初公演の場フィラデルフィアに向かう列車の中でのラブシーンはロマンテイックだった。
天上の女神が地上で自らを主役にした下品な(人間的な)舞台が行われることを知り、人間に化身して主役になって舞台を成功させるとともに、相手役兼演出者(ラリー・パークス)と恋に落ちる、という浮世離れしたストーリーの映画だが、そういった現実離れした設定でのラブシーンでは、リタの情感たっぷりな表情が生きるし、ダンスも際立つ。
リタ・ヘイワースという女優さん。
ダンスがダントツで、喜びを体で表現する才能に満ちている。
20代後半になって、情感たっぷりの演技もできるようにもなった。
さて、その後のキャリアはどう花開いたのか?
彼女の代表作といわれ、世界中の男を虜にしたのは、悪女役に目覚めた「ギルダ」(1946年)であった。
次回はそのあたりの作品を見てみよう。