支那そば見聞録が移転のため閉店

つつじヶ丘駅前の見聞録が急に閉店していました。

シャッターの貼り紙を見ると、移転しますとあります。
貼り紙にはたくさんの寄せ書きがありました。
つつじヶ丘駅前の飲食店としては最古の部類らしく、30年ほどの歴史があったとのことです。

土地建物のオーナーの意向による閉店のようです。
おそらく再開発されるのでしょう、マンションに。

サラリーマン時代には飲んだ帰りに寄って、ビールと仕上げの支那そばを食べましたっけ。
いつまでもビールを飲んでいると、女将さんの視線が気になり、慌てて支那そばを注文したものです。
飲んだ後の支那そばのダシの味が忘れられない味でした.。

最後まで支那そばの値段は650円でした。
あっさりとしつつ、香り高いスープが、あまたのラーメン屋にありそうでないものでした。
その後も、山小舎から帰った時に何度も食べに行きました。

大将も女将さんもまだまだできるお歳です。
ぜひ移転先で続けてほしいものです。

彩ステーション 子供食堂

柴崎の彩ステーションでは、子ども食堂もやっています。

子ども食堂新聞が発刊されている

毎月第二水曜日に始めて2年になりました。
主催は上野原小学校のPTA会長だった40代の人。
賛同は彼の仲間を中心に、PTAの現役・OGのママさんたち。
毎月のメニューを決め、材料を調達するのも楽しみのようです。
開催後の反省会(飲み会)も。

山小舎おばさんの彩ステーションのかかわりは、場所提供や素材の入手、調理援助、おかしの提供などです。

この日の彩ステーション

この日のメニューはから揚げ丼。
20キロの鶏モモ肉を下味付けて揚げます。
タレに通してご飯の上へ。
ご飯にはでんぶや錦糸卵がかかっています。

当日昼頃にお邪魔すると、調理担当のママさんや彩サポーターが3名、下味をつけた鶏肉に粉をまぶし、また一升炊きの電気釜にお米をセットしたりしていました。

午前中から準備が始まる
午前中のキッチンでは3人のスタッフが大わらわ
午後、スタッフもそろいからあげ丼の仕上げ

毎回100~120食を用意。
子供100円、大人300円で販売し、毎回完売です。
5時から販売開始。
この日は既に販売開始を待つママさんがいました。

お弁当のほかに、お菓子などが付くのがお楽しみ。
この日はビニール袋に詰めあわされたお菓子のほか、市内の豆腐屋さんから差し入れられたおからのパック、ドーナツ屋さんから無償提供のドーナツなども配られました。

5時の開店を待つママさん
出来上がったからあげ丼が並ぶ
おまけのおからパックとおかゆパウチ

30代、40代のパパ、ママ世代のエネルギーと、それを目指して集まる同世代のママさんと子供たち。
いつもの数十倍の生命力があふれる彩ステーションでした。

お弁当を受け取るママさん、外に並ぶママさん
配るスタッフ
この日の彩ステーションのロビーには力強い絵がかかっていた

ラピュタ阿佐ヶ谷「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」より 佐久間良子を「再発見」

さて、名画座ラピュタ阿佐ヶ谷の「東映現代劇の名手・村山新治を再発見」特集もいよいよ佳境。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフ表紙

村山新治監督は「警視庁物語」シリーズが有名だが、そのほかにも三国廉太郎と組んでの諸作など、現代劇で力を発揮していた。

「警視庁物語」捜査一課の面々。神田隆主任、堀雄三刑事ほか。右端は千葉真一

なかでも佐久間良子の出演作を撮る機会が多く、今特集では初期の貴重な主演作品に接することができた。

佐久間良子

1939年東京生まれ。
57年、題4期東映ニューフェイス、同期に水木襄、山城新伍ら。
58年「美しき姉妹の物語・悶える春」でデヴュー。
早くから東映東京撮影所のホープ女優として注目される。

佐久間良子

今特集での上映作「故郷は緑なりき」はデヴュー以来50本以上の出演作を数えた時点の作品。
それまでのキャリアは3年ほどながら、京都撮影所での時代劇で千恵蔵、右太衛門の両御大とも共演し、アクション映画にも出演。
のちの愛人である鶴田浩二とも「砂漠を渡る太陽」(60年)で共演、というか出会いを果たしていた。

60年代は佐久間が大女優へのキャリアをスタートさせる時期となり、演技開眼といわれた「人生劇場飛車角」(63年 沢島忠監督)での鶴田浩二との情感あふれる濡れ場から、代表作となった「五番町夕霧楼」(63年 田坂具隆監督)、「越後つついし親不知」(64年 今井正監督)など水上勉の描く薄幸な女性像に挑戦するなど、東映の看板女優として活躍、作品の高評価と合わせ各女優賞を受賞した。

「人生劇場 飛車角」
「五番町夕霧楼」のセットで、原作者の水上勉と
「越後つついし親不知」

60年代中盤からは映画を離れ、舞台・テレビで活躍。
1983年には「細雪」(市川崑監督)の次女役で久々に銀幕へ復活。
2012年には日経新聞の「私の履歴書」に自伝を連載した。

「故郷は緑なりき」  1961年  村山新治監督   ニュー東映

佐久間良子23歳になる年の作品。
自身で映画化を望んだというから、そろそろ東映も佐久間主演の作品をと考えていた頃なのだろう。

モノクロで地方ロケそれも北陸、スターの出演も少なく低予算、監督は東京撮影所の警視庁物語でデヴューした職人派。
いつでも「撤退」できる態勢での制作だった。
配給が2年もたずに解消した東映の第二配給網・ニュー東映上映館への提供作品だったというのもこの作品の背景を表している。

オリジナルポスター

原作は思春期小説で有名な宮島武夫、脚本は木下恵介の妹の楠田芳子。
設定は昭和25年前後の新潟柏崎と長岡。

ヒロインに電報で呼ばれ、列車で東京から長岡に帰る主人公(水木襄)の回想シーンから物語が始まる。

当時の柏崎と長岡のロケによる駅や街の様子が貴重だ。
ロケ当時の1961年は、舞台設定の1950年とそう大きくは変わっていないであろう柏崎のローカルな駅の風景と、人の気配で賑わっている長岡駅前。
昭和の時代は、戦後のどさくさと貧しさが地方には残る一方、中核都市は人で賑わい、個人商店が軒を連ねていた時代だった。
列車の乗客も多かった。

毎朝同じ列車で見かける高校生同士(旧学制だから中学生と女学校か?)。
混んだ列車のデッキに迎え入れてから仲良くなり、毎日同じ列車で帰るようになる。
美人だが友人のいない長岡在住の少女と柏崎のあばら家に住む親を失った少年。
二人はお互いの家を行き来し、写真を交換するようになる。
少女に横恋慕する不良学生がいたり、そもそも当時の校則は男女交際を禁止していたり・・・。

「故郷は緑なりき」撮影風景

佐久間良子のセーラー服姿にまずはノックアウトだ。
駅にたたずみ、土手を歩き、草原に座る。
夏は浴衣姿で少年の家に現れたりする。
佐久間の顔はこのころから、後年まで変わっていない!
もちろん年齢相当に若いが、すでに女優として完成している。
可憐なセーラー服姿から、終盤の恋に悩み、決然とし、妖艶でもある表情まで、一人の少女の芽生えと惑いと成長を表現している。

ひょっとしてこの少女の存在は幻ではないか?
「雨月物語」に出てくる姫のように、男を惑わす魔性なのではないか?
あるいは少年の思春が作り出した幻想なのかもしれない?
そう思う程、はかなく幻の存在。
次々に少年の前に現れては彼を惑わす。
そういえば、長岡の少女の実家へ少年が訪問するシーンでは、少女の実家の実感のなさが印象的だった。
父親は留守だといって現れないし。
この場面は「雨月物語」の魔性の姫が、荒涼とした草原を屋敷だとだまして男を幻惑し虜にするあの場面に相対したものか?

そうでないのは少女の姉(大川恵子)が茶菓でもてなし、その彼女の存在が、美人ではあるが、極めて実存的に描かれていることでもわかる。
作品はファンタジーではなかったのだ。
佐久間良子の姿が観客にとっての「ファンタジー」ということなのだ。
主人公の姉のキャステイング、東映京都撮影所の三人娘・大川恵子が特に呼ばれての出演だが、この物語の少女の姉役として、浮世離れした美人ぶりが適役だった。

大川恵子

佐久間良子の一途で恋に悩む表情。
幼いラブシーンで醸し出す情感。
それらはすでに彼女がこの後すぐに「人生劇場飛車角」「五番町夕霧楼」などでブレークする準備が整っていたことを示していた。

オリジナルポスター
ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「草の実」  1962年   村山新治監督   ニュー東映

戦後の小豆島が舞台、家同士の確執と溝の深さがテーマ。
壷井栄の原作を「故郷は緑なりき」の脚本楠田芳子と監督村山新治が、佐久間良子、水木襄のコンビで映画化。
単に悲恋メロドラマにしなかったのは、原作の重みなのか、脚本家と監督の真面目さなのか。
ある意味衝撃的なラストでした。

オリジナルポスター

親戚筋だという隣り合った二つの家、母屋と新屋。
母屋の主婦は教師として働く杉村春子。
新屋の祖母は気丈な浪花千栄子。
この二人が両家の確執の象徴を演じる。

実情は一人息子の水木襄に甘甘で、縁談に一生懸命な杉村だったり、孫娘(佐久間良子)に愛情を注ぐしっかり者の浪花なのだが、お互いのこととなると決して相いれない溝がある。

一方で両家の息子と娘は、好意を持ち、将来の約束をしている。
二人の代で対立を解消しようと思っている。

プレスシート

お互いの家族や村の目を気にしながらのデート。
それでも絶対に交際を許さないお互いの家族。
水木の縁談が進められていると知って島を出る佐久間が乗ったフェリーに水木が乗ってきて、一晩、改めて互いの気持ちを確認する。
しかし本人たちの気持ちを無視して進められる縁談。
味方と思っていた、水木の父親(宮口精二)や佐久間の父親(神田隆)までがいざというと、家同士の縁談に賛同したり、お互いをあきらめるように諭す・・・。

映画は両家の根深い日常的な対立の様子を丁寧に描写する。
水くみの仕方や、表面上の挨拶に隠れた互いの陰口など。
大学卒業間近の一人息子に対する杉村春子の執着と佐久間への拒絶ぶりが、杉村一流の演技で活写される。

一見母屋に対しては遠慮する浪花千栄子も、杉村のかたくなな拒絶の姿勢に、それ以上のかたくなさで対抗する。
この二人の直接対決の場面は後半に訪れる。

両家の確執は単に感情的なもつれだけではない。
母屋の主(宮口)と新屋の亡くなった叔母が毎晩忍び合うほどの中だったが、宮口の婚礼の当日に、宮口の子を身ごもった叔母が井戸に投身自殺した経緯があったのだった。
それを知って動揺する水木と佐久間だが、将来の決心は揺るがない。
母屋では水木の結納が、杉村と、「寝返った」宮口によってにこやかに行われていた。

さて映画の結末は?

オリジナルポスター

自殺した叔母さんがそうだったように、運命に導かれるように、母屋の石垣をよじ登って水木の部屋へ忍び入る佐久間。
それを抱きかかえる水木。
これがラストシーンだった。

結論は描かれない。
駆け落ちしたのかもしれないし、「家」から逃れられない己の運命を受け入れたのかもしれない。

この時代の日本人は圧倒的に後者の道を選んだことでもあろう。
それがその人の幸せとなったかは別問題だが。

敢えてハッピーエンドとしなかった製作陣にはあっぱれと言いたい。
乱造時代のニュー東映作品とはいえ、会社期待のヒロイン佐久間良子の主演作である。
会社のトップから文句は出なかったのか?

昭和の時代まであった家同士の確執、その背後にあるどろどろとした怨念の様なもの。
映画はきれいごとではないそれらを描こうとしていた。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

佐久間良子は実年齢23歳になる年の作品。
私服姿はすでに若妻のように重みがあり、役年齢18~19の初々しさはなかった。
演技面では、新時代(戦後)の女性らしさを出そうと、デートシーンでは水木とじゃれ合ったり、活発な女性像を表現しようとしていたが、彼女が輝くのは逆境に悲しむ女性像を演じたときなのだった。

翌年の63年には彼女の代表作「人生劇場 飛車角」と「五番町夕霧楼」が生まれることとなる。

「肉体の盛装」 1964年  村山新治監督  東映

作品の宣伝文句は『「五番町夕霧楼」「越後つついし親不知」に続き佐久間良子が三度「女」を演じる』。

愛人・鶴田浩二との濡れ場で演技開眼し、水上文学の主人公を体現するかのような存在感で自身の代表作とした佐久間良子が、名作「偽れる盛装」(1951年 吉村公三郎監督)のリメークに挑んだ。
カラーで撮られ、2本立てのメイン作品として封切られた(併映は渡辺祐介監督、緑魔子主演のモノクロ作品「牝」)。

オリジナルポスター

会社から「村山と佐久間で1本撮れ。」と言われ、「偽れる盛装」の脚本を渡された村山監督。
京都にも宮川町にも全く縁がなく、脚本を書いた新藤兼人や監督の吉村を訪ねた。
新藤は「京都なんて昔から変わらない」と答えたという。

撮影に京都撮影所の坪井誠を呼び、衣装や踊りには京都から専門家を呼んで臨み、『京都らしさ』の演出は彼らに任せて撮影に臨んだ。

当時の新聞広告

一見華やかな京都の芸者とお座敷の世界。
その実、芸者の犠牲によって成り立つ世界。
狭い世界にいつまでも尾を引く嫉妬。
水商売同士で『格式』を争うみみっちさ。
無理して見得を張った男どもの末路。
その中で、自らの美貌を前面に体を張って男からむしり取る芸者君蝶を佐久間が演じる。

君蝶が生まれついたのは京都宮川町の「お茶屋」(芸者を抱えた店は『置屋』というが、ここでは酒を提供していたから『置屋』ではなく『お茶屋』なのか?)。
母親(丹阿弥谷津子)は舞妓時代に大店の旦那に身請けされた売れっ子だったが、その恩を忘れず、大店が左前になったときに「お茶屋」を抵当に入れて大店の二代目に金を援助するような人。
そんな母親に苛立ちつつ、一方で、妹(藤純子)を市役所に務めさせ、自ら水商売の前面に立つ君蝶。

プレスシートより

和服姿が映える佐久間良子のこれは当たり役の一つ。
若いころのセーラー服、水上文学での長襦袢姿もよかったが。

「偽れる盛装」の京マチ子の、丁々発止の怒鳴りつけるようなセリフの掛け合いはできないが、独特の間があり、それが佐久間良子独特の凄味をじわじわ滲みださせる。
何より美形だ。
すべてが終わった時の、放心したような諦観したような表情もいい。
佐久間良子の「偽れる盛装」として、この作品は成り立っている。

京の都の一見華やかで権勢と金力が飛び交う舞台でありながら、一方の立役者の女達の存在基盤の危うさ、それが崩れたときの悲惨さ。
つまりは京都の宮川町の女たちは実のところ人権もない社会の底辺の住人なのだ。

「警視庁物語」シリーズなどでは、スラム街や水上生活者などの描写を通して社会の底辺を描いてきた村山監督だが、本作では直接的な描写はない。
一見華やかなお座敷や舞台の描写に徹しているが、だんだんそれらのケバケバしさが影を持つように見えてくる。

プレスシートより

宮川町に取材して書き上げたというオリジナルの新藤脚本は、水商売の世界のリアルさの表現として、君蝶や妹に「泥水をすする商売」「こんな商売やめて暮らしましょう」などと言わせてもいる。
案外は中の人のこれが本音なのだろう。

君蝶の母のエピソードで、彼女が援助したかつての旦那に店を訪れ、死んだ旦那の本妻に挨拶する場面がある。
床に伏した老女となった本妻(村瀬幸子)が起き上がり、「(かつて)妾呼ばわりして悪かった」と言いい、母は過去の恩讐を忘れて受け入れる。
名女優村瀬幸子のワンシーンのみの出演だったが、互いの真心が描かれる。
泥水の中にも花が咲くこともあるのだ。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

『どうしょうもない』京都の古い世界で、ドライに徹して男から収奪し続ける君蝶は、ある意味古い社会構造への反逆者だった。
君蝶の度を過ぎた男たちからの収奪に、かつての太客たちは零落してゆく。
自業自得とはいえ、血迷ったかつての太客に逆上され、華やかな踊りの衣装のまま刺される君蝶。
刺されなくてもいずれ衰弱死したであろう芸者の末路。

ラストシーンはお茶屋同士の確執を振り切って、藤純子と江原真二郎の若いカップルが東京へと駆け落ちしてゆく。君蝶が逃げ場を絶たれた遮断機が開いた踏切を渡って。

残された京都は「変わってなんかいない」(新藤兼人)まま続いてゆくのだろうが。

近所の桜散歩

4月初旬は真冬のような寒さでした。
待望の晴れ間となった日に近所を回って満開に近い桜を見てきました。

まずは自宅の裏手の通称・国有地へ。
出かけるときに通る場所でもあります。
ここでは毎年見事な桜が咲きます。
グランドからは蓮休みの子供たちの声が聞こえます。

「国有地」脇の桜
右手のグラウンドからは子供たちの歓声が聞こえる

続いて神代中学校の脇を通ってみます。
うちの子供たち三人が通った中学です。
最近は温暖化なのか、入学式の時期には散っていることが多かった桜ですが、今年は間に合いそうです。

神代中学構内のボタン桜
校庭脇の桜並木

国分寺崖線の坂を下ると野川周辺です。
野川沿いには桜が植えられており、毎年の花見ポイントになります。

野川の遊歩道を歩く人。菜の花が咲いている

この日は久しぶりの晴天で、散歩の人も多く見られました。

河川敷で遊ぶ姿は野川らしい

バーベキューなどの人出で埋まる、武蔵野市場近くの河川敷へ行ってみました。
平日のせいか、バーベキューをするグループは一組ほど。
ファミリーやママ友グループが三々五々シートを広げていました。

武蔵野市場付近の河川敷で花見をする人たち。雪柳も満開

今年も無事に花見の季節を迎えられました。

ラピュタ阿佐ヶ谷「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」より 「警視庁物語」シリーズ その2

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフ表紙

「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」より、「警視庁物語」シリーズを引き続き鑑賞する。

「警視庁物語 遺留品なし」  1959年  村山新治監督  東映

シリーズ第11作。
村山監督は本作が一番好きだという。

実はこれ、前作「108号車」と同時に撮影された作品。
同時撮影は、当時時々あった撮影法らしく、予算削減とスピードアップのため、例えば捜査一課内のシーンを2作品分同時に撮影してゆき、編集で2作品に分けるというもの。
粗製とはいわないまでも乱造を極めた当時の東映でよく行われていたらしい。

同時に撮った「108号車」が本筋のみを追い、枝葉のエピソードをのぞいたシンプルな構造だったのに対し、本作「遺留品なし」は、思いっきり枝葉のエピソードを取り込んだものになっている。
従ってテンポがゆっくりし、犯人に絡む女性たちの心理描写に力がそそがれている。
村山監督の好みは、女性心理の裏表や、人間味あふれる社会風俗の描写にあることがわかる。

製作はシリーズの生みの親の斎藤安代、脚本は長谷川公之という鉄壁の布陣。
音楽は富田勲。
67分の中編だ。

アパートで30歳独身の女性他殺死体が発見される。
遺留品のない現場で数少ない手がかりをたぐって捜査一課の刑事たちが捜査に散ってゆく。
捜査一課長役の松本克平は現場に立ち会うだけの出演。
主任役の神田隆の指揮の元、堀雄二、花澤徳衛、南廣、山本麟一らのレギュラーメンバー。

手がかりは害者が電話交換手だったことと、部屋の残された30万円分の株券。
職場の同僚の証言から、害者が結婚相談所に登録し、付き合っていたらしい男がいたことがわかる。
一方、株屋の営業マンからの情報でプライベートな男関係が浮かび上がる。
同時に所有する株券の番号も入手する。

捜査過程での花澤徳衛刑事の描写が楽しい。
痩せて生活感丸出しの中年刑事を演ずる花澤が、巧みに聞き込み対象者の懐に入り込み、首を突っ込むようにして貴重な情報を探りだす。
張り込み中の喫茶店で何気なくメニューをのぞくと『待てば海路の日和あり』の文字があったりする。
村山監督のユーモア好みのカットだ。
なお、今回はカツ丼は出てこない。

村山監督のこの作品でのこだわりは、女優の選択に色濃い。
有名女優は、犯人の情婦役の星美智子くらいで、あとは地味だったりニューフェースの新人女優だったりを起用。
犯人による結婚を匂わせた詐欺の被害者には薄幸そうな美人女優の東恵美子を、交換手仲間のおしゃべりな情報提供者には蓮っ葉な感じの女優(谷本小夜子)を、さらに参考人(木村功)の遊び相手で偽証する女子社員には派手な感じの若手女優(八代万智子)を配役。

タクシーの運転手で貴重な情報をもたらす女性にはジーパンの似合うボーイッシュな女優を、最後には犯人の被害者の一人として若き日の杉山徳子を使っている。

この念が入ったキャステイング、薄幸美人とブスと崩れた色気のオンパレードではないか。
東美恵子はのちに「白い巨塔」で院長夫人を演じ、八代万智子は「プレイガール」で活躍し、杉山徳子の実力ぶりは定評がある、とはいえ。
ちなみに村山監督が「顔のない女」「108号車」で使っていた、ねんねこを背負う生活感のある女性像へのこだわりは、本作でもワンカットの登場があった。

犯人の情婦役・星美智子

戦後の安定期を迎えるこの時代、住宅地には未舗装の道路が残り、安アパートと粗末な商店が軒を連ね、都電が走っていた東京。
30代を迎える未婚の女性達の裏の実像は、結婚相談所と称する男女出会いの場だったり、株式投資だったりにあったのだ。
そしてそこはオールドミスを食い物にする犯罪者の生息域でもあったのだ。

同僚の他殺を聞いて、その男関係を嬉しそうにペラペラしゃべる女、犯人に経済的にも性的にも搾取されながら信じる気持ちを否定できない女。
これら社会の「実情」を遠慮なく描写する村山監督の、これが監督一流の「ドキュメンタリータッチ」なのだろう。

捜査一課の部屋の片隅で、犯人の逮捕を聞きながらうつむく、東美恵子扮する被害者女性。
事件が一段落し、電気スイッチを消そうとして、彼女の存在に気づき、優しく退室を促す神田隆主任がいい。
『もっといい人がいますよ。これからは、そういう人と幸せをつかむんですなあ(意訳)』という昭和の刑事そのままのセリフを吐きながら。

「警視庁物語 12人の刑事」  1961年  村山新治監督   ニュー東映

火山口へズームしてゆく画像をバックに「ニュー東映」のロゴが入った三角マークが浮かび上がる。
1年ほど続いた東映の第二配給のロゴで幕が開ける。
本作は、併映作を「ファンキーハットの快男子・二千万円の腕」として、ニュー東映のメイン作品として封切られた。

京都と東京の撮影所で、毎週4本を撮り上げなくてはいけなかった当時の東映の殺人的なスケジュール。
ニュー東映の番組の「本編」として、90分の尺を埋める代わりにそこそこの製作費をあてがわれたこの作品。
作品の枝葉のエピソードをたくさん用意して尺を伸ばす工夫を行い、松島への長期ロケを行うなどして費用もかけている。
が、その分、展開のスピード感が薄れ、時には凡長ともなった?
ロケによる効果も『ドキュメンタル』なものよりも『紀行的』なそれとはなっていなかったか?

オリジナルポスター

シリーズも第17作となり、ネタを考える脚本家も大変だったろう。
エピソードには、過去のシリーズ作品の繰り返しも見られる(課員総出で交通事故報告原簿を調べ車両情報から犯人を割り出す徹夜のシーンなど)。

シリーズの基本精神は『刑事の個人プレイやヒロイズムを排し、地道な捜査を淡々と描き、捕物的なアクションは最小限にとどめる』、『捜査対象の庶民の姿を、当時の社会の実情を隠すことなく描く』。
これは変わっていない。
犯人に騙された女性に対する眼差しや、あるいは情報提供者の野次馬的な無責任ぶりに対する突き放した視点も共通している。

プレスシートより

松島のホテルで発見されたハイミスの殺人死体。
手掛かりは、白浜の旅館のネーム入り石鹸箱。
まずは、白浜が和歌山なのか千葉なのかの特定から捜査がスタートする。

千葉の白浜の旅館を特定し、地元の巡査と聞き込みに行く。
いつもながら、地道というかリアルというか、警視庁勤務法務医の経歴の脚本の長谷川公之らしい展開が冴える。
白浜の旅館主が、野球好きの地元のボスで、選挙違反であげられてから警察には非協力的だという設定も味がある。
野球はこの作品のキーワードの一つともなる。

捜査一課の刑事たち(レギュラーの堀雄二、花澤徳衛、山本麟一に、若き日の千葉真一も加わっている)は宮城県警から出張の二人とともに、主任(神田隆)の指揮の元、真夏の東京へと散ってゆく。

宮城県警から出張した二人の刑事を迎えて、夜の課内でささやかな一杯を行うシーンでは、庶民的な警察部内の日常が描かれる。

封切り当時の新聞広告より

被害者はパチンコ店勤務のハイミス。
聞き込みにパチンコ屋二階の住み込み部屋を訪れる。
下着姿で、布団の上ではしゃぐ若い女店員たちの生活感。
被害者にコナをかけていたクギ師を犯人と仮定するが、その男は店の金を横領し夜逃げしている。
『パチンコ屋の女店員』、『クギ師』といった今は死語となった存在が出てくる貴重な場面。
シリーズ「顔のない女」では今はなき昭和の歴史遺産、ダルマ船が一つの舞台として取り上げられてもいた。

本作では被害者や犯人?の線から、ストリップ小屋、ガラス工場、ゴム工場、パチンコ機製造工場、スラムにある被害者の実家などを舞台にした聞き込みが行われる。
それぞれが短い尺ではあるが、そこで描かれるのは劣悪な環境での労働だったり、未来に希望がない若者たちの享楽性だったりだ。
登場する役者も、被害者の父親役に殿山泰司を配した以外は、若い無名の俳優たち(東映のニューフェースや大部屋俳優)を使っていてそれが効果を上げている。

いつものように捜査一課の室内全景を捉えるカメラアングル。
画面の隅や奥では、山本麟一がシャツの着替えをしていたり、千葉真一がどんぶり飯をかっ込んでいたりする。
個人的なヒーローはおらず、刑事全員が主役であり、もっといえば捜査一課の部屋が主役であるといわんばかりの構図だ。
これがいい。

刑事役の花澤徳衛の比重はますます高くなっていて、張り込みでは若手を指揮している。
また最後に出てくる真犯人の愛人(佐久間良子)を説得し捜査に協力させるという重要な役を担っている。
佐久間良子は「顔のない女」でのようなチョイ役ではなく、出番は限られているが犯人逮捕に至る重要な役で出演。主役級の女優として、場面を引き締めている。
花澤刑事と愛人佐久間と、犯人曽根晴美の三人が、追いつめ追いつめられる緊張感に満ちた新橋駅前のロケは、シリーズらしいドキュメンタルな迫力に満ちていた。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

曽根晴美扮する真犯人は、東映の土橋投手の先輩のプロ野球選手崩れという設定。
新橋広場の街頭テレビの野球中継で投げる土橋投手を見つめながら逮捕されてゆく。
曽根晴美本人が、東映フライヤーズの選手だったことがあり、ケガで引退後にニューフェースとなったという。
二重三重に『野球』が伏線となったドラマでもあった。

彩ステーションでグァテマラコーヒー

冬のような花冷えのある日、出勤中の山小舎おばさんから電話で彩ステーションに呼び出されました。

ステーションのサポーターの一人である、グアテマラ出身のマリアさんが、自国のコーヒーを点ててくれるというのです。

凍える中、雨でぬれながら自転車で着いたステーションでは、いつもの明るいマリアさんが持参のコーヒーセットでグアテマラコーヒーを淹れ、午前中からのお年寄りにふるまっていたところでした。

コーヒーを淹れるマリアさん

集まりにはナショナルカラーの赤の民族衣装で張り切るマリアさんですが、寒いこの日は原色の緑の割烹着姿。
パラグアイ出身のナンシーさん手製のケーキとのセットでもてなしてくれました。

用意したのは自慢のグアテマラ産コーヒー

20年ほど日本人の旦那さんの実家で義両親と暮らし、看取った話。
週3回、早朝の電車で横浜へ向かい、客船などで訪れるお客さんにスペイン語で対応する仕事をしていること。
自分からバリバリ、日本語で話すのが彼女らしさ。
話の勢い、内容の面白さに、聞いているお年寄りたちは大喝采です。

お客さんは近所の常連さん

この日は急に『来たい』とマリアさんが山小舎おばさんに伝えてきたというグアテマラコーヒー大会。
いろんな才能、人材が集まり、喜んでくれる人がいる場所らしい催しでした。