攻めまくり!伊那グリーンファーム直売所

伊那市にグリーンファームという直売所があります。
NHKの「ドキュメント72時間」という番組で紹介されるまで、山小舎おじさんは知りませんでした。
どうも、道の駅とか、農協の直売所ではなく、個人経営のマーケットのような場所らしいのです。
ノーチェックの場所でした。

番組を見たら、面白そうな場所だったので、伊那方面に行ったついでに寄ってきました。
実に攻めまくり!の直売所でした。

この日は日曜日、昼近くの駐車場は満車に近い盛況です。
伊那市の西側の田園地帯にあるグリーンファーム。
野菜や鶏卵の生産者である団体が経営しているようです。

伊那グリーンファームに到着

夏のような日差しの中、軽トラを止めて店舗に向かいます。
まず目に入るのは、店舗の建物の外壁に沿って並ぶ中古家具の姿です。

店舗の外側には古家具の山が

それを眺めながら店舗入り口へ向かうと、信州ではなかなか見ることができない、大人数の列が入り口に向かって並んでいます。
「えっ、こんなに混んでいるの?」と一瞬ひるみました。
なんと、人気の大学芋を買うために人が並んでいたのです。

店舗内に入ると買い物客で混雑しています。
直売所というよりは、廉価販売の倉庫風の店の雰囲気が漂います。

商品は、雑貨、菓子、金物、調味料から古本、古レコードまであります。
野菜、果物のコーナーが面積の半分ほどを占めているとはいえ、何でもありの商品構成です。

「ドキュメント72時間」でも、入植したばかりの素人風の生産者が、ハーブを出品している場面がありました。
古本や、古レコードを出品する人もいるのでしょう。

陳列商品には信州の特産品が
乾物、荒物も売っている
地域に必要な日用品の数々

来客のお目当ては何と言っても野菜、果物などの生産物。
折から季節的にはブドウをはじめリンゴ、ナシで大盛り上がり。
この日はマツタケなどもありました。

メインは新鮮野菜と果実

オオスズメバチの生きた成虫を、幼虫が入っている巣ごと売られているのは初めて見ました。
熊肉や鹿肉などもあります。

これは!危なくないのか。値段高いけど
ジビエの品ぞろえも抜かりなく

野菜では、ローゼルというハイビスカスに似た植物のつぼみや、最近見掛けるポポーという作物の実などもありました。
ローゼルは初めて見ました。

総菜、弁当などは売られていませんが、グリーンファーム手作りの新米おにぎりがありました。
パンやエスニックカレーの弁当はありましたが、ここでランチなどを調達しようとすると、選択肢が少ないかもしれません。

外へ出ると、ケージの中に鶏が数羽遊んでいて子供が眺めています。
この鶏も売り物で2700円とありました。
ソフトクリームの売り場もあり300円と割安です。

旨そうなおにぎりがてんこ盛り
ランチにはエスニックカレーも
攻めてるなあ

ローセル、おにぎり、グリーンファームさんの鶏卵のほか、保存瓶、酢の大びんなどを買いました。

帰りの駐車場には中京圏を中心に県外ナンバーの車が押し寄せての大盛況でした。
家族にも一度見せたいと思う伊那グリーンファームでした。

グリーーンファーム駐車場より西方を望む

小野神社、矢彦神社の戦争遺産

信州で戦前から続く文化遺産に接していると、戦前の文化がそのまま残っている例に接することがあります。

例えば御柱祭のトランペットマーチです。
御柱を氏子たちが引いて歩き、世話人が要所で木遣りを詠いますが、その際に地元の青年団などが景気づけにトランペットでマーチを演奏します。

その曲目が、旧日本陸軍の突撃ラッパだったりします。
今どき日本国内の公共の場所で、それなりの公人が旧国軍の戦意高揚の曲を高らかに奏であげるものでしょうか。
あっけらかんとした痛快さに驚きました。

それこそ戦後すぐにGHQが目の敵にし、それの意を汲んだ国内勢力がGHQなりに忖度して自主規制してきた文化の一つなのではないでしょうか。
その時期もとうに過ぎ、今や昭和遺産としてレトロブームの一環なのかもしれませんが。

そういうことで、辰野町小野地区の国道153号線を走っていると目につく古い神社、小野神社と矢彦神社を訪れてみると、同様な遺物に接することができます。
そこには、戦前の国威発揚のたまものなのでしょうか、大砲の弾丸だったり、砲筒だったりが境内に飾られています。

小野神社の鳥居
小野神社本殿

小野神社には大砲の弾丸の碑が建っています。
同社には、乃木希典書の忠魂碑もあります。
国内の大きな神社は、明治以降の国家神道時代を生き抜いてきた施設ですから、戦前の国威発揚時代の遺物だったり、土俵だったりはよくあります。
弾丸も神社にはよくあるものの一つなのでしょうか。
異彩を感じたのは私だけなのでしょうか。

小野神社境内の弾丸碑
小野神社境内の土俵

秀吉時代に行われた、知行割りの結果として分社して小野神社の隣に立つ矢彦神社には、大砲の筒が碑として立っています。
これも弾丸同様に、現代にあっては、歴史と時代の変遷を色濃く感じさせる遺物です。

矢彦神社鳥居
矢彦神社本殿
矢彦神社境内の砲筒碑

会津若松の白虎隊終焉の地、飯盛山へ行った時のことを思い出しました。
そこの一角に鍵十字をあしらった碑が建っています。
鍵十字はドイツ国防軍のトレードマーク’(現在も)ですが、この碑は、戦前のドイツが白虎隊の精神に感動して贈ったものだそうです。
戦後直後はGHQによる没収を恐れて、地元有志が隠していたとのエピソードが添えられていました。
歴史を感じさせる重みがありました。

DVD名画劇場 「ダンシング」リタ・ヘイワース

1940年代のハリウッドの名花リタ・ヘイワースは、1928年ニューヨークに生まれた。
1930年代に映画デヴューし、1940年代には、コロムビア映画から売り出し、踊りがうまく、スタイルのいい美人女優として、ミュージカル映画などで一世を風靡した。
のちには、妖艶な悪女役としても勇名をはせた。

リタ・ヘイワースが映画史に残る女優だったことは、1999年にアメリカン・フィルム・インスティテュートが選出した「映画スターベスト100」の女優部門で19位に選出されていることからもうかがえる。
ついでに淀川長治著「マイベスト37 私をときめかせた女優たち」(1991年 テレビ朝日刊)でも、わが淀長さんの女優ベスト37の一人として取り上げられている。

リタがいかにしてスターとなったかは、40年代のハリウッドを網羅した、オットー・フリードリック著の「ハリウッド帝国の興亡」(1994年 文芸春秋社刊)に詳しい。
同著P209からP219までを要旨抜粋してみる。

父親はマドリッドからアメリカに来たダンサーで、その先祖は15世紀にカソリックに回収したスペイン系ユダヤ人だった。
母親はジーグフェルドフォリーズの踊子で、リタの本名はマルガリータ・カルメン・ドロレス・カンシノといった。

リタは9年間の初等教育を受けただけで、13歳から父親とともにクラブで踊った。
13歳では酒を売る店では踊れなかったため、父とともにメキシコに流れた。
やがてサンジエゴ郊外のクラブに戻り、そこで20世紀フォックスの製作部門の副社長ウインフィールド・シーハンに見いだされ、名前をリタに変え、週給200ドルで契約した。
数本の映画に端役で出たあと、フォックスに乗り込んできたダリル・ザナックに解雇された。

面倒を見ようとする中年男に不自由しないリタのもとに、40歳のエドワード・ジャドソンが現れ、二人は結婚した。リタは18歳だった。
ジャンソンはリタを売り出すべく、コロムビアと週給250ドルで契約し、芸名をリタ・カンシノからリタ・ヘイワースに変えた。
黒の縮れ毛を赤茶に染め、生え際を脱毛し、ラテンの美女からアングロアメリカンに変身した。
ジャンソンはまた週給75ドルで広報エージェントを雇い、リタの売り出しに務めた。

ジャンソンは、500ドルのドレスでリタを着飾り、高級クラブ・トロカデロに連れてゆき、大作「コンドル」を打ち合わせていた、コロムビアのタイクーンのハリー・コーンとハワード・ホークス監督のテーブルの近くに座らせた。
リタは役を得た。
次に、アン・シェリダンが蹴った「いちごブロンド」の役を、監督ラオール・ウオルシュの推薦で獲得し、ジェームス・ギャグニーと共演した。

完璧なアングロアメリカンとなったリタは「血と砂」(1941年)で、『ラテン系を演ずるアングロ女優』の立場を得るまでになった。
コロムビアのタイクーン、ハリー・コーンはスターとなったリタにのぼせ上ったが、リタはヴィクター・マチュアと火遊びし、オーソン・ウエルズとの結婚を突如発表した。
リタをここまで世話してくれたジャンソンとの結婚はとっくに解消状態だった。


コロムビア映画のタイクーン、ハリー・コーン

「晴れて今宵は」 1942年  ウイリアム・A・サイター監督 コロムビア

コロムビアでスターとなったリタ・ヘイワースが、フレッド・アステアを迎えてのミュージカル。
アステアは30年代にRKOでジンジャー・ロジャースとのコンビで連作したミュージカルで大ヒットを連発し、国民的スターとなっていた。
40年代に入り、映画を離れ旅行と競馬、ゴルフに明け暮れたいたが、突然リタ・ヘイワースとの共演話のオファーが来た。
折から太平洋戦争真っただ中の1942年、アメリカ国民は現実から一時的にせよ逃避できる明るい単純な映画を必要としていた。

アステアはコロムビアで「踊る結婚式」(1941年)と「晴れて今宵は」の2作をリタ・ヘイワースと共演した。
さらに「スイングホテル」(マーク・サンドリッチ監督)でビング・クロスビーと共演。
それぞれ大ヒットとなり40年代のアステアの地位を固めた。

アステアはまた、ほかのスター達(ジェームス・ギャグニー、ジュデイ・ガーランド、ミッキー・ルーニー、グリア・ガーソン、ベテイ・ハットンら)同様に、国内外を問わず、第二次大戦下の米軍兵士の慰問を積極的に行った。

「踊る結婚式」アスエアとのコンビ第一作

「晴れて今宵は」の前作「踊る結婚式」で初めてリタ・ヘイワーと会ったアステアは、リタが『フレッド・アステアと踊ることを恐れている』ことを見抜き、冗談を言ったりちょっとした悪戯をしてリタの緊張を解いた。

アステアはリタがカンがよく、これまで一緒に踊った人の中では一番呑み込みが早いことに気が付いた.。
『しかも、彼女はリハーサルの時よりも、本番の方がずっとよかった』(ボブ・トーマス著「アステア・ザ・ダンサー」:1989年新潮社刊 P211)。

「晴れて今宵は」より

では「晴れて今宵は」を観賞しよう。
舞台はブエノスアイレス。
ニューヨークを出て旅の途中のアステアが競馬場で馬券をスッた場面からのスタート。
有名なダンサーのアステアが仕事にあぶれ、ブエノスアイレスまで流れてきた、という設定。

現地の有力者で、スコットランドからの移民という設定のアドルフ・マンジューの事務所に売り込みにゆくアステア。
マンジューには4人娘がおり、長女が結婚し、三女四女が結婚前提のボーイフレンドがいるのに、次女のリタ・ヘイワースに一向にその気がなく、男っ気がないので、親父のみならず、妹たちまでがやきもきする。

ワンマン親父のマンジューが、仕事のワンマンぶりのみならず、次女の恋愛と結婚話に自ら口を突っ込み、それにアステアが巻き込まれてバタバタするというハートウオーミングなコメデイ。

アステアが単独で歌い踊り、またリタと組んで踊る。
アステアといえばまずはRKO時代のジンジャー・ロジャースとのコンビ。
ジンジャーの流れるようなリズム感、パートナーを立てるような動きも素晴らしいが、リタの踊りはまた違った。

プライベートでのリタ・ヘイワースは、コロムビア映画のスターとして売り出す過程で、黒毛を赤く染め、ラテン系の血を隠したのだが、画面で踊るリタからは隠しようもないラテンの血が沸き立っている。
そのリズム感、陽気さ、喜びは、持って生まれた美貌と妖艶さと相まって、見る者を陶酔の境地へと誘う。
何よりリタ自身が喜んで踊っているのがわかる。

コロムビア映画の後押しにより豪華な衣装、主役としてのおぜん立て、文句のない相手役に恵まれたリタだが、演技者としての未熟は隠しようがない。
ところが踊り出すと別人のように光り輝く。

『リタは全く演技ができなかった。その顔は化粧で凍り付いた面のようだった、セリフは不自然で血が通っていなかった。(中略)それでも、他の総てを補う要素がまだひとつあった。踊ると、リタ・ヘイワースは変身するのだ。』(「ハリウッド帝国の興亡」P216)。

「カバーガール」 1943年 チャールズ・ヴィドア監督  コロムビア

スターとなったリタ・ヘイワースが、「晴れて今宵は」のフレッド・アステアに続き、ミュージカル界の大物ジーン・ケリーを迎えての1作。

大物の配役はリタの相手役のジーン・ケリーだけとし、その代わり豪華というかカラフルというか派手なセットと、女優たちの衣装、何より主役リタの魅力を最大限にフィーチャーした作りとなっている。

リタの、形がよく、何よりダンサーとして鍛えられ、欠点のない脚を前面に出してのダンスシーンで始まる冒頭。
カバーガールのオーデイションを受けるときのリタのファッションもカラフルで凝っている。

ジーン・ケリー(ともう一人の仲間)と街角に繰り出してのダンスシーンは、待ってましたの元気さ、ぴったりの呼吸、で見る者を夢の世界へ誘う。
リタの踊りは、目立ちたがりのジーン・ケリーのがむしゃらな動きにも負けていない。
ケリーに対抗するのではなく、自分の世界に見る者の目を向けさせる輝きを放つ。

ジーン・ケリーは、ソロで自分の分身とシンクロしたり、組んだりしてダンスを行う見せ場がある。
こういった映画的アイデアに富んだダンスシーンは、MGMミュージカルの名シーンを思い出させる。
こちらの方が先行しているのかもしれない?

映画のストーリーは、ブルックリン(ニューヨークの下町)の小さなシアターで、明日を夢見るダンサーのリタが、第二次大戦下の北アフリカで負傷した過去を持つジーン・ケリーと相思相愛。
ひょんなことから、リタが、雑誌のカバーガールで有名となり、ブロードウエイへの切符をつかむ。
そこから二人の仲がぎくしゃくするが、いざ、リタがブロードウエイの大プロデウーサーから求婚され我に返ると、ジーン・ケリーが忘れられないことに気づき、その胸に戻ってくる、というもの。

下町のシアターの描き方が面白い。
そこでの売り物は元気な踊り子たちの脚と陽気な観客。
ストリップ小屋の楽屋のような天井裏の楽屋では若い踊り子たちが右往左往している。
厨房で、料理人とウエイターが天手古舞で客の注文をさばいている(料理付きの場末のシアターというものがあるんだ?)。

下町。舞台裏。若者の夢。スターダムと転落。
まるでジュデイ・ガーランドの「スタア誕生」のようでもある。
主演女優の実半生をモチーフに、バックステージを含めて描くやり方は、多くの映画で見られるが、MGMの「イースターパレード」のようにコロムビア映画でも作られていたんだ!?

カバーガールとして名が売れ、ブロードウエイにスカウトされ、名のあるプロデユーサーに求婚され、映画のセットのような豪邸に住むのが踊り子のスター誕生物語だとしたら、下町の大衆シアターで嬉しそうに踊り、相思相愛の支配人と毎週金曜のレストランで牡蠣を注文し、夢を追い続けるのが現実。
リタ・ヘイワースには、『現実』の物語が似合っている。

車の中で、ブロードウエイのプロデユーサーに求婚され、とっさに困ったような無表情を見せるリタ.。
それが彼女の演技下手のせいばかりではなく、思わず自らの出自、人格が現れたように見えたのは、気のせいだろうか。

『「カバーガール」は大ヒットした。(中略)1943年に、近所の映画館の静まり返った観客席でこの映画を観た人間は、いやも応もなくリタ・ヘイワースに恋をしてしまったものだ。これほど美しく、これほどロマンテイックで、これほど妖しい魅力を湛えた女がいようはずはなかった。』(「ハリウッド帝国の興亡」P215)

観客を恋人にする、リタ・ヘイワースは紛れもなく1940年代の女神だった。.

「地上に降りた女神」  1947年  アレクサンダー・ホール監督   コロムビア

リタ・ヘイワースが29歳になる年の作品。
きらびやかなカラー映像のミュージカル作品で正統派のヒロインを演じている。

「地上に降りた女神」より

リタは前年に、代表作となる「ギルダ」に出演して、悪女役を演じている。
そういった意味では役柄の幅を広げ始めたころの1作。
本作の後、同年1947年には、当時の夫、オーソン・ウエルズが監督した「上海から来た女」に出演し、正真正銘の悪女役を演じてもいる。

「晴れて今宵は」「カバーガール」のころの、ぴちぴちとした若さは落ち着いている。
同時におどおどとしたこわばりは薄れ、余裕あるたたずまいを見せ始めている。
いざ踊りが始まると、はつらつと躍動し、キレがよく、実に嬉しそうに踊っている。
振り付けに忠実な正確な踊りもできる。
脚の線、形は相変わらずきれいでセクシー。
この作品には、我々の期待通りに色気があり、かつ少々芸の幅を広げたリタ・ヘイワースがいる。

ただ、どうだろう、フレッド・アステアがいた「晴れて今宵は」や、ジーン・ケリーがいた「カバーガール」と比べて、ミュージカルシーンの単純さ、底の浅さは否めない。
ここはご両人の芸の深さ、存在感を称えるべきか。
ご両人のいないコロムビアスタジオ製のミュージカルは、セットの空間が狭く感じられ、ダンサーの衣装に手はかかっているが、プラスアルファの想像を刺激しない。

アステアやケリーなど、芸達者な共演者が不在の「地上に降りた女神」で、主演のリタは、より一層頑張らなければならない中で、前述した演技の余裕と相変わらずのダンスのキレで、ほぼほぼ見る者の期待には応えている。
スターとしてハリウッド映画の主役を張れる女優さんが持っているものには、やはりただならぬものがある。

芝居の面でいうと、情感をたたえるような場面でのリタの表情はいい。
初公演の場フィラデルフィアに向かう列車の中でのラブシーンはロマンテイックだった。

天上の女神が地上で自らを主役にした下品な(人間的な)舞台が行われることを知り、人間に化身して主役になって舞台を成功させるとともに、相手役兼演出者(ラリー・パークス)と恋に落ちる、という浮世離れしたストーリーの映画だが、そういった現実離れした設定でのラブシーンでは、リタの情感たっぷりな表情が生きるし、ダンスも際立つ。

リタ・ヘイワースという女優さん。
ダンスがダントツで、喜びを体で表現する才能に満ちている。
20代後半になって、情感たっぷりの演技もできるようにもなった。

さて、その後のキャリアはどう花開いたのか?
彼女の代表作といわれ、世界中の男を虜にしたのは、悪女役に目覚めた「ギルダ」(1946年)であった。
次回はそのあたりの作品を見てみよう。

 

信州ソウルフード放浪記VOL.38 小野タイガー食堂

食堂タイガーは数年前の軽トラの旅で紹介したことがあります。
辰野町小野地区に昔からある食堂です。
辰野町は県央というか、日本中央部に位置する町で、塩尻の南にあります。

久しぶりに食堂タイガーに寄ってみました。
前回訪問時に食べた、豚焼肉丼と鳥だしの効いたラーメンの味が忘れられません。

この日は雨、開店の11時半前には、店の駐車場には車の姿はありません、前回訪問時は11時くらいから並んでいましたが。

駐車場から見る看板

駐車場で待っていると、開店時間ジャストに髭を生やした愛想のいい店主がやってきて「お待たせしました」と開店を告げました。
この人が前回訪問時に母親と一緒に店を切り回していたお兄さんのようです。

店主は最近ヘルニアから復帰したばかりとのこと

焼き肉丼とラーメンのセットを頼みました。
前回は確か1500円くらいでしたが、2000円になっていました。
その間に、中年男性の3人組が入店。
店には店主の連れ合いなのでしょうか、若めの女性が店主とともに配膳を行っていました。
前回張り切って店を切り回していたお母さんもお元気とのことでしたが、ホールに姿は現しませんでした。

メニューより

この食堂は戦後の一時期に、裸の大将こと山下清が、新潟長岡?への旅の途中に1か月ほど逗留した場所です。
前回訪問時にはメニューに、当時の新聞記事のコピーなどが添付されていましたが、現在では「裸の大将の記憶」が薄れたのか、メニューでの紹介はなく、代わって壁に当時の記録が1枚掲示されていました。
当時の新聞記事に、文字通りふんどし一丁の裸の大将が写った写真が載っています。

裸の大将関連の展示も残されている。食堂タイガーは歴史遺産でもある。
芸能人、徒歩旅の旅人などの色紙も飾られている

焼き肉丼セットをいただきます。
最初にちょっと後悔したのが量の多さ!
信州の食堂の多くでは、セットメニューというとそれぞれが1人前ずつついてくるのです。

メニューではハーフサイズのどんぶりとなっていますが、十分1人前の分量です。
68歳の山小舎おじさんにはいささか多すぎです。

焼き肉丼・ラーメンセット。満腹!

とはいえ見るからにおいしそうな焼き肉丼は変わらない味でした。
甘めのたれが効いた美味しい豚肉の生姜焼きどんぶりは、最後まで飽きずにいただけました。
ラーメンは鳥だしのうまさに驚いた記憶があったのですが、今回はそこまでの味がなく、よくある醤油ラーメンに近い味となっていたような気がします。
というか、後半はおなかいっぱいでラーメンのダシを味わう余裕はなかったのかもしれません。

食堂タイガーの店内

歴史ある食堂でここまで料理の水準を維持し、小野地区で続いているということ自体が奇蹟的です。
店主もまだ若く今後の継続も期待できる食堂です。

小野という地区は、遥か平安時代に書かれた「枕草子」に『里は』と気された土地とのこと。
また、地区にある信濃国二之宮・矢彦神社と小野神社は創建時期がわからないほど古く、後年、秀吉の知行割りによって一つの神社が分社となったものとのこと。

地形的には、千曲川へそそぐ水系と、天竜川への水系の分水嶺の麓に位置する古い土地です。
現在は国道153号線沿道と、飯田線小野駅を中心に集落が広がっています。

国道153号線沿いにある地区の鎮守・小野神社

薪割り機始動!

今年も管理事務所からエンジン式薪割り機を借りてきました。
いよいよ薪割りの開始です。

エンジン式薪割り機を借りてくる

これまで、丸太を玉切りし、巨大な玉は二つに割ってきました。
薪割りの準備のためです。

薪割りは3年ほど前から機械で行っています。

並べておいた玉を割って軽トラに積み込む

今年は何と管理事務所の職員が薪割り機を軽トラに積んで運んでくれました!

道の端に、割りやすいように並べておいた玉を後は機械にかけるだけです。
薪割り機の稼働は平日のみにします。
また早朝、夕方の稼働は避け、昼休みも取ります。
近所迷惑となるためです。
別荘地の規約にもその旨が明記されています。

1年ぶりの薪割り機。
いつも通りバンバン割ってくれます。
玉に節があろうと、硬かろうと関係ないのが助かります。

軽トラを薪割り機に横付けし、割ったそばから荷台に放り投げ、一杯になったら乾燥台に運んで積み上げてしまいます。
1日で、3から5セットの作業を行いました。

荷台がいっぱいになったら乾燥台へ運ぶ
軽トラの荷台から乾燥台へ積み込む
3パレット分がいっぱいになる

1週間の予定で借りましたが、3日で終わりませんでした。
借りる期間を延長し、全量割ってしまうことにします。

りんごの季節到来 紅玉の砂糖煮

10月に入り信州には本格的なりんごの季節がやってきました。

山小舎近辺の立科町の直売所では各種のリンゴが花盛りです。
ということで出盛りの紅玉を早速買ってきました。

真っ赤に色づいた紅玉

紅玉は昔からある品種で、酸っぱみと香りが強く、ジャムなどの加工に向いた品種です。
ただ、早生品種のため実が柔らかく、ボケるのが早い欠点もあります。
今回は、アップルパイなどに利用できるように砂糖で煮ることにしました。
コンポートではなく、実をシッカリと煮崩れないように煮て、保存袋で冷凍しようと思いました。

四つ割りにして芯を取る

先ず、紅玉を四つ割りにして芯を取ります。
皮をつけたままさらに二つ割りします。
このサイズで煮ることにします。
薄くスライスすると煮崩れると思ったからです。
また、皮つきの方が色味が出ていいのではないかと思いました。

四つ割りをさらに二分の一にカット

鍋に入れ、砂糖をかけます。
白砂糖にキビ砂糖を混ぜて使います。

砂糖をまぶしてしばらく置く

水気が出たら火にかけます。
水は加えません。
このまま実が透き通るまで火にかけます。

じっくり煮て水気を飛ばす

心配していた煮崩れは起こりませんでした。
水気が抜けて、透明に照りが出た紅玉の砂糖煮ができました。
ジップロックに入れて空気を抜き冷凍します。

ビニールパックに詰めて冷凍保存

まだ紅玉が残っているので、チャツネやジャムに加工しようと思います。

軽トラ流れ旅 秋の高山村~渋温泉

秋は旅の季節です。
もうすぐ日中が短くなります。
寒くなる前に旅をしなければ。
行ったことがない場所は県内にもたくさんあります。

9月中旬に家族と一泊した高山村の七味温泉。
そこの立寄り湯にもう一度行ってみたい。

帰りは奥山田温泉を越えて渋温泉まで峠越えをしよう。
長距離の旅だが8時に出れば明るいうちに帰ってこれる。
温泉にも二か所入れる。

高山村までは、真田から菅平を越えて須坂に下り、中野を通って行こう。
天気は小雨模様だが、高山村の秋の恵みと温泉が待っている。

須坂におりてからは携帯のナビが頼り。
つい先日、家族で通ったルートを行きます。
高山村のJA選果所に寄ってみます。
紅玉リンゴと地元産のシードルを買いました。

高山村のJA選果場

その先の高山村歴史民俗資料館は寄りたかった場所です。
人気のない館内には受付にシルバー?らしきおじさんが一人。
100円で入館すると館内の照明をオンにしてくれました。

高山村歴史俗資料館のメインの展示物は、湯倉という場所で発掘された7000年前の縄文時代の人骨です。

高山村歴史民俗資料館

20~30歳台の女性の人骨が保存状態よく発掘されており、発掘時の状態で展示されています。
これは希少価値がある展示物なのではないでしょうか。

縄文時代の人骨

信州は諏訪地方の縄文遺跡、土偶のほか、各地の巨大な前方後円墳の存在が知られている場所です。
縄文人が北信の地で生活していても何の不思議もありません。
保存状態の良さは不思議そのものですが。

人骨発見時のニュース

資料館を出て一本道を奥へと進みます。
山田温泉の街に到着して一休み。
足湯もあるショップで地元のグッズを物色します。
地元産のワイン、味噌のほか美味しそうなネクタリンを買いました。

高山温泉郷・山田温泉のスパ・ワインセンター
山田温泉の立寄り湯

更に松川渓谷に沿って進みます。
つい先日に泊まった七味温泉に来ました。
今日は無人の立寄り湯に入ります。
相変わらずいい湯です。
昼前の入湯でしたが、疲れるどころかかえって目が覚め、体がしゃっきりしました。
温泉が効いたのです。

七味温泉紅葉館の野天風呂
野天風呂入り口
誰もいないので浴槽をパチリ

元気が出て、七味温泉から初めてのコースを奥山田温泉方面に進みます。

これからという時に通行止めの立て看板。
シルバーのおじさんが近いづいてきます。
「自転車のロードレースがあるから、1時まで通行止め。渋温泉に行くのだったら戻った方が早いよ。ここで待ってもいいけど」とのことでした。

奥山田温泉方面の道をサイクリストたちが下ってきた

近くには店も何もありません。
温泉効果で空腹を感じていた山小舎おじさんは、戻ることにしました。
高山村中心部まで下り、小布施、中野、山之内町を通って渋温泉に行くことにします。
途中で食べる場所はあるでしょう。

北信はりんごの季節

渋温泉までの道中はおおむね順調でしたが、中野市内の中心部の郊外型レストランが集中している一角は渋滞の上、どこの店も並んでいるほどの混雑でした。
日曜日の昼時なのでしょうがないのですが。

やがて山ノ内町に入り、川に沿って走ると湯田中温泉を過ぎた先が渋温泉でした。
急に古い温泉街の風情が漂いました。

渋温泉の風景
自噴の源泉

有料駐車場に軽トラを止め、管理しているおじさんにヒアリングします。
立ち寄り湯の場所と、渋温泉名物の木造4階建ての温泉宿の場所を聞きました。

地図を出して丁寧に説明してくれるおじさん。
「宿泊していない人が入れる外湯は1か所だけ。入浴券は買ってもらってから、近くの店の人に鍵を開けてもらってください。」、「木造4階建ての旅館は金具屋さんですね。」とテキパキしています。

有料駐車場入り口

ここで外湯の入浴券を買い、地図をもらってレッツゴー。
まずは金具屋さんを目指します。
メイン道路から1本入った路地は風情があります。

温泉街の一角に木造4階建ての立派な旅館がありました。
昔ながらの玄関は、2時過ぎの時間のこともあり、閉まっています。
戸を引いて従業員に声をかけパンフレットをもらいました。

温泉街
木造4階建ての金具屋旅館

次いで外湯へ入ります。
向かいの食料品店のおばさんに声をかけて入り口を開けてもらいました。
外からは鍵がないと入れないスタイルのようです。

立寄り湯・大湯

外湯には熱いお湯があふれていました。
つかっただけで目が覚めそうなお湯です。

渋温泉の温泉街は日曜日とはいえ、ひっそりとしています。
浴衣を着た外人カップルを見掛けたくらいです。
15時の当着時間を迎えるころになると、だんだん賑わってくるのかもしれません。
親切に答えてくれた駐車場のおじさんに挨拶して帰路に着きました。

渋温泉街点描
路地の風景
射的場
巨大な獅子頭

青ミニトマトのピクルス

9月のある日、直売所で青ミニトマトがあったので買ってみました。
信州では青いトマトを売っています。
漬物などにするようです。
ミニトマトの青いのは珍しかったので、ピクルスにしようと思いました。

真田の直売所で買った青ミニトマト

ピクルスづくりはキューリに次いで2回目です。
ビーツの甘酢漬けというのも作りましたっけ。
果物のジャムやコンポートはよくやるのですが、野菜の加工はあまりやりません。
キューリのピクルスが美味しかったので、野菜についてもピクルスという加工、保存方法があることに気づきました。

ミニトマトを水洗いします。

その間にピクルス液を作ります。
酢、水、砂糖、塩のほか黒コショウ粒、とうがらし、ローリエ、白ワインを入れて加熱します。
にんにくは忘れました。

ピクルス液にミニトマトを入れてさらに過熱します。
トマトの消毒を兼ねています。

煮沸した保存瓶に入れて抜気するのはいつも通りです。

試食したところ、甘みを抑えたドライな味のピクルスに仕上がっていました。

煙突掃除

年一回の煙突同時をしました。

秋晴れの一日。日向では暑いくらいです。

山小舎の薪ストーブは、先代オーナーが導入したカラマツストーブといい、カラマツ、マツ、スギなどの針葉樹を含め、どんな樹種でも燃やせるストーブです。

カタログによると、針葉樹を燃やすと1000~1400度という炉内温度となりますが、特殊鋼版を使用し、独特な溶接技術で作られているため、どんな高温にも耐えられることになっています。
通常鋳物の耐熱温度は800度程度のため、針葉樹は薪として燃やせないのです。

カラマツストーブ取扱説明書より

また、針葉樹は樹脂を多く含むため、燃やすと高温を発するばかりではなく、ヤニを多く発生させます。
ヤニは煙となって消え去るばかりではなく、煙突内にススとなってこびりつきます。
カラマツストーブは、完全燃焼のため、ススと灰の発生がごく少なく済むとのことです。

カラマツストーブ取扱説明書より
カラマツストーブ取扱説明書より

とはいえ、年一度程度の煙突掃除はストーブライフを送るものとしてマストの作業となります。
カタログによると、屋外の煙突立ち上がりの曲がり部分と横引き部分が煙突掃除のポイントとのこと。
自力ではその部分しか掃除できないので、今年もその2か所を掃除します。

2階に上がり、煙突の横引き部分の蓋を開け、ブラシを入れて動かします。

2階の煙突部分
ふたを開けて、ブラシで横引き部分を掃除

次いで屋根に乗り、立ち上がりの曲がり部分の垂直の蓋を外します。
ここからは毎年、ドサッとすすが落ちます。

屋根に乗って、立ち上がりの曲がり部分の蓋を取る

蓋を水洗いし、屋根に落ちたススをホースで洗い流します。
ついでストーブ内部に落ちたススを灰ごとバケツに救い取ります。

蓋を水洗い
ストーブ内に落ちたススも除去

蓋を2か所閉めて煙突掃除の完了です。

蓼科山登山 大河原峠コース

今年も蓼科山に登りました。
今年は大河原峠コースに初挑戦です。
来年あたり孫たちと登る時のコースの下見を兼ねました。

山小舎を出発後、蓼科山を望む

秋晴れの平日、8時に軽トラで山小舎を出発し、蓼科山7合目登山口を過ぎて林道を進み、8時45分に大河峠駐車場に到着。
すでに8割方満車です。

大河原峠駐車場
大河原峠より佐久方面を望む。霧がたなびく

案内板で登山道を確認し出発です。
今日の予定は山小舎のある将軍平までです。
山頂まで行くと帰りの体力の自信がなかったこともあります。

ゴロゴロとした石畳の登山道を進みます。

登山開始

大河原峠コースの登山道はあまり歩きやすくはありません。
結構斜度がある割には、敷石が動いたりします。
健脚の人には関係ないでしょうが、足腰が弱ってきた年代には応えます。

登山道は雨の際には水が流れる場所に設置されているのか、土のままにしておくと道が流失してしまうので、掘れた地形の底に石を配置して作られています。

歩きずらい登山道が続く

やがて傾斜が緩やかな尾根道となります。
白く立ち枯れた木々が現れてびっくりします。
道東の野付半島のトドワラのような風景です。
一か所だけではなく何か所も同様な風景が続きます。
やがて「トドワラ」の背後に蓼科山の山頂が見えてきました。

立枯れた風景が現れる
蓼科山山頂が見える

歩き疲れてきたころ下り坂となり、人の声が聞こえてきて将軍平に着きます。
三々五々登山客が休んでいます。
7合目登山口から登ってくる人が圧倒的に多い印象です。

湿地には木道が設置されている
将軍平に到着。本日はここまで

山小舎に入って休みます。
この日の山小舎の管理人は女性でした。
雨水を使ったホットコーヒーを注文。
値段は去年の650円?から700円に上がっていました。

いつもの山小舎で休む

山小舎は11月初旬の連休まで営業とのこと。
小学校の遠足があるか?と管理人にきくと、よくあるとの返事。
最初に登った時に佐久穂の小学校一行と一緒になったことを思い出しました。

雨水コーヒー
蓼科神社のお守りを購入

一休みしたら下山開始。

これからが大変でした。
下りが急になると足腰がこわばって動かないのです。
これまでは多少膝などがカクカクしても、歩き続けられていたのですが、足が出ないというか筋肉が体を支えられないというか。
これはまずいなあと思いながら滑らないように休みながら、そろりそろりと足を出しながら下りました。

後で姫木管理事務所の登山が趣味の人に聞くと「足が動かなくなるのは水の不足。カロリーも」とのこと。
年齢による衰えばかりではなく、水分と栄養の不足があったようです。
確かにペットボトル半分ほどの給水と、昼食など食事がないままの登山でした。

肝心の大河原峠コースですが、聞いていたよりは急なところもあり、歩きやすくはなかったことと、景色、雰囲気はどこにでもある登山道という印象でした。
神社の境内然とした雰囲気が漂う7合目コースの特色はなく、特に大河原峠コースを選択する意味はないな、と思いました。

来年、孫たちと登るとして、水と食料を適度に摂りつつ、7合目登山口コースを使うことにしたいと思います。