韮崎平和観音

自宅と山小屋の往復には、自家用車のほかでは高速バスか鉄道を使います。
時間的には高速バスが早く(バス停・高速深大寺から高速茅野までが約2時間半)、レスポンスもいいのですが、旅好きな山小舎おじさんとしては鉄道の旅も捨てがたいのです。

JR中央線に、高尾から大月行き、甲府行きなどに乗り、終着で途中下車。
そこで昼食を摂るのんびり旅です。
甲府には行きつけの定食屋まであります。

高速道路を走る旅と違い、鉄路を行く旅は視線が低いので見える景色が人間サイズの上、案外視界も広いのです。
鉄道は町をつなげて走るので、商店街、住宅地、農地など、場所場所の人間の暮らしの景色が見られるのもいいのです。

ということで、夏のある日、自宅から山小舎へ戻る道中、山梨県の韮崎に途中下車しました。
車窓から見える大きな観音様の麓に行ってみようと思ったからです。

線路からほど近く観音様は見えます。
韮崎駅の改札口で駅員さんに聞きました、「観音様へのルートを教えてくれますか」。
「まず、駅のガードをくぐって。案内板はないと思うけど。登りが急ですよ。」との返答でした。

ガードをくぐって駅の反対側へ出ます。
小高い山の上の観音様は街から遠望できるので方向は迷いません。

駅からガードをくぐった商店街にかかる鳥居
商店街からは平和観音が見える

「窟観音入り口」の看板があったので進んでみます。
平安時代にこの地を訪れた弘法大師が掘った観音様が石窟に安置され、岩場の麓には雲岸寺というお寺が立っている場所でした。

まず窟観音へ行ってみる
トンネルの出口にはお地蔵さまが並ぶ

まずは石窟と窟観音を見て回ります。
中央線韮崎駅の近くにかような石窟が残っていることに驚きました。

窟観音が収められているお堂
崖下から望むお堂

目指す平和観音は雲岸寺が立つ場所から小高い山(断層)を登った場所にあります。
平和観音までは舗装道路が続いており、そこそこの交通量もあります。
徒歩で夏に歩くのは一苦労でした。

汗をかきつつ登った崖の上に平和観音が立っていました。
甲府盆地とその向こうの富士山を望む場所です。
あたりの雰囲気は甲府盆地を走る国道20号線の活気と喧騒から離れたのんびりしたものでした。

平和観音が立つ高台は市民の墓所でもある
平和観音を仰ぎ見る

女性的な造りの観音様は遥か甲府盆地から東京方面を眺め、世の安寧と平安を祈念しておられるのでしょう。
忘れられたような静けさの中、たたずむ観音様でした。

イチヂクのコンポート

イチヂクが出回る季節になりました。

南箕輪村のファーマーズあじーなは山小舎おじさんお気に入りの直売所。
高遠、伊那方面に行った際には帰りには、ついつい寄ってしまいます。
北伊那地方の恵みがぎゅと詰まったような場所で、タイミングが合うと季節の野菜、果物のてんこ盛りに出会うことができます。
また、地物の桃やいちごなどのB品が格安で箱売りされていることがあり、「ラッキー」とばかり加工用に買い求めます。

9月初旬のこの日は、トウモロコシや新リンゴが大袋で売られていました。
また、プルーンが大量に出ていました。
売り場にイチヂクがひとパック残っていました。
5個入りで300円です。

このイチヂクをコンポートにしてみました。
イチヂクは傷みやすいので早々に加工しなければなりません。

ネットでコンポートの作り方をチェックします。
まずは皮むきです。
熟しすぎたものが1個ありましたが、残りは硬さもあり、包丁で皮がむけました。

この間にシロップを作ります。
レシピ通り水に砂糖と白ワイン、レモン汁を入れて煮立たせます。
レシピではグラニュー糖でしたが白砂糖にします。

常温での保存性をよくするため、素材の消毒のためにイチヂクをシロップで煮込みます。
煮ているうちにシロップが薄く赤に染まりました。
熟しすぎた実が煮崩れていました。

煮沸消毒した保存瓶に実を入れ、熱々のシロップで浸します。
蓋を軽く締めて抜気のために再び沸騰したお湯に瓶ごと漬けます。

イチヂクのコンポートです。
初めて作りました。

令和6年畑 夏野菜終了

8月は2、3回しか行けなかった畑。
9月早々、様子を見てきました。
草刈り機を持って行き、雑草を刈って収穫しました。

素人農業とはいえ、今年ほど畑をほったらかしたことはなかったでしょう。
それでも草の中、健気に実っている野菜もありました。

大きくぶら下がっている夕顔を2本を収穫します。

夕顔2本、ズッキーニ、つるむらさき

キューリも今年は遅くまで実っています。
枝豆はよく実ったのですが、完全に収穫遅れです。
硬くて食べられないので、このままにします。

万願寺トウガラシ、キューリ、ゴーヤ

今年はよくできたミニトマトもこの時期になるとに実割れしています。
大玉トマトはほとんど腐っています
風通しが悪かったからなのでしょうか、何か病気が発生していたようです。

トマト最後の収穫。食味が悪く大玉は生食も加工もできなかった

ゴーヤが一本と、万願寺トウガラシが少々採れました。

今後は、カボチャと唐辛子が採れるでしょうか。

別な畑のヤーコンは無事でした。もうシカの食害はないでしょうから(ヤーコンの葉は苦いので鹿は好まない)秋には無事収穫できそうです。

雑草なのかヤーコンの葉っぱなのかわからない

畑の周りには、雑木やイタドリのような木が盛大に生い茂っており、オソrしいほどです。
秋までにきれいにしたいものです。
フェンスを伝って生い茂り、畑の通気を阻害しているツタも遅まきながらもカットしておきましょうか。

長久保宿の家の軒先に提灯がぶら下がっていた。神社の祭礼があるのか

孫一家と余市、積丹へ

令和6年の北海道墓参の旅は孫一家も一日遅れで参加しました。
山小舎おじさん一家はエスコンフィールドで野球観戦し、札幌で孫一家と合流。
親戚への挨拶と墓参、そして親戚一家との年一回の宴会を楽しみました。
お寺では数十年間実家のお参りに来てくれたお坊さんが高齢のため出てこれなくなり、寂しく感じました。

翌日は孫一家の企画による、余市郊外でのグランピングを楽しみました。
テント、BBQセット付、余市のウイスキー、ワイン、ビールが飲み放題という設定のグランピングです。

グランピング施設で一泊

食材のオーダーも可能とのことでしたが、せっかくなので小樽の南樽市場というところに寄って食材を準備しました。
天然ホタテ、北寄貝、ホッケの開き、ジンギスカン肉などのほか、解禁明けの積丹の生うにも少々。
焼くなどして楽しみました。

ドリンクはセンター棟まで貰いにゆく

飲み放題のドリンクは、いちいちセンター棟まで貰いにゆくシステムなのですが、美味しいので飲みすぎてしまいました。
テント宿泊といえ、ベッド付きで快適でした。

翌日は積丹半島のワッカトンネル近くの砂浜に行きました。
前日と打って変わっての晴天。
海はシャコタンブルーに輝いています。
そこでしばしの海あそび。
孫たちも大人も大喜びでした。

積丹半島ワッカトンネル付近の海岸
孫らは砂で遊ぶ
奇岩がそそり立つ
海にも慣れた子供たち

余市に戻って昼食の後、山小舎おじさんたちは一日早く出発のため、孫一家と別れたのですが、折からの台風で当日の便は全便欠航。
次男の働きで翌日早朝の臨時便にスライドできたため、千歳空港内の温泉施設に入って仮眠をとり、翌日朝の便に乗ることができました。

色々ありすぎて、ジェットコースターのような北海道墓参の旅でした。

エスコンフィールドHOKKAIDO

札幌の南隣の北広島市に、プロ野球日本ハムの本拠地球場がオープンしたのは昨年でした。
大リーグのボールパークを参考にした日本初の球場ということで、テレビに映ると注目していました。

山小舎おじさんの両親らが眠る北海道の地には結婚以降も毎年墓参りに訪れています。
令和令和6年の今年も、墓参りを兼ねた北海道ツアーを予定していました。

今年は孫一家もツアーに参加するとのことで、山小舎滞在に続いての一大行事となります。
ただし山小舎おじさんたちは一日早く北海道に到着し、帰りも一日早くなります。

山小舎おじさん一行が到着したその日に、エスコンフィールドに行くことになりました。
企画は我が家の次男坊、墓参りには良く参加してくれます。
当日は日ハムとロッテのナイターも行われるとのこと。
入場券などをネットで用意してくれました。

当日は雨の北海道。
レンタカーを借りて千歳から北広島まで行きました。

エスコンフィールドの駐車場に入ります。
入場券を持っていて、車のナンバーをネットで登録した人は自動で駐車場のゲートが開くシステムです。

エスコンの外観
野外エレベーターに乗って入場口へ

巨大なボールパークの建物に入ります。
ショップを抜けてフィールドを望む通路に出ます。
既にライトアップされた天然芝が輝いて見えます。

試合観戦のための入場は夕方ですが、それ以外の入場者はこの時間でも球場に入れるようです。
食べ物を売っている場所も試合前ながらかなり開いています。

ショップには多数の客が
広々とした通路
開始前のフィールドを眺める

試合を見る人は14時半から16時まで球場の外に出なければなりません。
雨に中、近くのカフェなどに駆け込みます。
時間が持たないのでレンタカーに乘って待ちます。
駐車場の車の中には結構な人が残っていて試合開始を待っています。

観客を入れてゲームが始まる
この日の昼食は地元豚のカツカレー

さあ、試合開始。
うるさいくらいに巨大な二つのビジョンから映像と音が流れ続けています。
ファイターズの出場選手の紹介や、ファイターズガールの球場内のリポートの様子が映し出されます。

クラフトビールショップの列に並ぶ

山小舎おじさんもクラフトビールの店に並んで、ビールとつまみ(北海道名物のザンギなど)を用意し座席に陣取ります。
球場内の買い物はすべてデジタルです。
カードは使えます。
ビールの売り子さんからも現金では買えません。

この日はPLAY BALL ALEを注文

試合は残念ながら盛り上がりに欠けたまま日本ハムの負けとなってしまいました。
それでも現場の迫力につられて8回くらいまで観戦しました。

ロッテ側のスタンドだったのですが、3階席のロッテ応援団の盛り上がりがすごかったでした。
ファーターズガールのキツネダンスも生で見れました。
この日は浴衣ヴァージョンでの踊りでした。

試合開始 ファイターズの選手が守備位置に散る
浴衣を着たファイターズガールによるキツネダンス

その日は新札幌のホテルに泊まりました。

翌日更に続きがあります。
エスコンフィールドの球場案内ツアーに参加したのです。
約1時間ほど、ファーターズガールが参加者を球場内を案内してくれるというツアーです。

球場案内ツアーの一コマ

ベンチやフィールドに降り立つことができるというツアーで参加した甲斐がありました。
天然芝は午前中から手入れしていました。
フィールドに敷き詰められている赤い土は、富士山の溶岩を砕いたものとのことでした。
新庄監督専用のベンチにも座ることができました。

フィールドレベルの観客席
フィールドに下りて天然芝を眺める

とにかく新しく、使いやすく、ゲームは見やすく、サービス精神旺盛な施設でした。
北海道らしく、因習にとらわれずに時代の先端にキャッチアップしようとする心が感じられました。

令和6年畑 枝豆収穫

8月中旬を過ぎたころです。

8月3日に孫一家が来て以来、畑には行っていませんでした。その間、孫たちが畑に行って、枝豆、ハックルベリーなどを収穫してきました。

孫が帰り、山小舎おじさんも一緒に東京へ戻り、さらに北海道へ帰って墓参りをしてから山小舎に戻ってきました。畑に来たのは3週間ぶりくらいでしょうか。

まだまだ日中は暑い畑ですが、ときおり吹く風が涼しくなっていました。
フェンスを開けると草がボーボーです。

3週間ぶりの畑の全景

まずは草刈り機であぜ道の草を刈ります。
ついで久しぶりの収穫です。

夕顔が3本ぶら下がっています。
持って帰っても古くなるだけなので収穫までそのままにします。

夕顔

太いキューリが10本ほど採れました。

収穫したキューリ、ピーマンなど

トマトはミニトマトを中心に一籠収穫です。

実っているミニトマト
収穫したトマト

そして枝豆。
今年は大豊作です。
鞘が丸々としていますが、表面がやや黒ずんできました。
収穫時期が遅れたようです。
一応、山小舎おばさんが調布でやっている「みんなの居場所、彩ステーション」に出荷してみます。
根と葉を切って揃えます。

枝豆を抜く
根と葉を切る

トウモロコシが少し採れました。
セロリも1本抜いて見ます。

トウガラシが赤くなってきた

枝豆でひと箱、トマト中心にもうひと箱。
彩ステーションに送ってみます。

DVD名画劇場 児玉数夫「やぶにらみ世界娯楽映画史」傑作選その1

手許に1988年刊の教養文庫「藪にらみ世界娯楽映画史」がある。
著者は児玉数夫。

彼はひとくくりに映画評論家と呼ばれるものの枠を超えて、広く職業として映画に関わってきた人物。
戦後直後にGHQ配下でアメリカ映画の輸入、配給を一手に引き受けていたセントラル映画社というところで、広告宣伝を担当するという稀有なキャリアの持ち主。
以降、リアルタイムで輸入洋画ほぼ全作に接しており、知識としての映画ではなく、体験としての映画を語りうる存在。

裏表紙には淀長さんによる絶賛のコメントが

著書も多数あり、特に西部劇、ギャング物、ターザンシリーズ、キートン、怪奇映画、ミュージカルなど、著者お気に入りのジャンルでは、数々の映画の記録や、保有する当時の内外の宣材などをもとに作品を紹介している。
名作や個人的好みに偏重するいわゆる映画評論家とは違い、幅広くほぼ輸入全作品に接してきた経験から、映画作品に対する思い込みや偏見から自由で、かつ映画に接してきた歴史の長さから、作品の由来、背景を系統的に理解している。
本当に面白い映画を見分けることができるのが児玉数夫の強みである。

「やぶにらみ世界娯楽映画史」のまえがきに著者は記す。
『本書には、いわゆる名作もあれば、ほとんど採り上げられることなく冷遇に甘んじた作品もある。私は、そうした作品もいとしく想う。話題作・問題作ばかりの映画史など、少しも書きたいとは思わない。』と。

目次を見ると、なるほどほかの場所で、映画史上の有名作だったり、スターの代表作だったり、監督論などの媒体により、散々取り上げられている作品も、面白いものであれば取りあげられている。
例えば「ジョルスン物語」、「雨に唄えば」、「十戒」、「山河遥かなり」など。

同著の目次第一ページ。見よ堂々の「海賊バラクーダ」「死闘の銀山」のランクインを!

同時に「海賊バラクーダ」、「死闘の銀山」、「凸凹透明人間」、「白昼の脱獄」など、今ではすっかり忘れられ、昔のTV名画劇場での放映を最後として公的な公開機会は永遠に来ないであろう作品が取りあげられている。
このあたりが本書の真骨頂なのだ。

今どきの映画評論家の、受け狙いの「発見」に引っかからず、いまだ持って注目されない作品群。
でもリアルタイムに見てきた児玉数夫の記憶に残る面白い映画、価値ある映画の数々。

今回は本書で取り上げられた作品の中から3本を選んで鑑賞した。

児玉数夫の著書は数多く文庫化されており、埋もれた数々の作品を再発見することができる。「1940年代の洋画」もそうした1冊
同じく、「ヨーロッパ映画1950」

「サラトガ本線」  1945年  サム・ウッド監督  ワーナーブラザーズ

「やぶにらみ世界娯楽映画史」の本作紹介文には『昭和24年晩秋。数多くの新入荷をみたアメリカ映画の中でも、この「サラトガ本線」と肩を並べることのできる大作はそうそうはなかった。』とある。
当時、洋画輸入の窓口に居た児玉数夫の実感に基づいた記述である。

「やぶにらみ世界娯楽映画史」より

原作はエドナ・ファイバーというアメリカの女流作家。
数々のベストセラーの中には1966年に映画化された「ジャイアンツ」もある。

本作「サラトガ本線」は、奔放な女性を主人とし、彼女の復讐心を背景にした、金と男による自己実現の人生に、恋人役として野生的なヒーローを配置した、いかにも女性作家的な、もっというと少女漫画的なドラマである。

時代背景が19世紀のニューオリンズとサラトガで、フランス文化の背景とアメリカ開拓時代末期のスケール感を取り込んでもいる。
主人公女性のキャラクターや時代背景の壮大さは、何やら「風と共に去りぬ」に似てもいる。
スケール感はかなり縮小しているが。

監督はセシル・B・デミルのもとで修業し、師匠譲りの保守主義者のサム・ウッド。
本作での起用は「誰がために鐘は鳴る」(1943年)でクーパーとバーグマンを上手く扱った所以からかもしれない。

で、「サラトガ本線」。
ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンを起用したワーナーの大作乍ら、映画史的にも両俳優のフィルモグラフィ的にも、今に残る名画の扱いではない。
どうしてなのか。

その理由を探ってみた。

芳賀書店刊「シネアルバム➉ゲーリー・クーパー」の149ページに本作の紹介が載っており、『この作品は論理性を欠いておりバーグマンとクーパーが妥当な演技をしてもカバーできない』(NYタイムス B・クロウザー)とある。
どうやらこの『論理性』なる言葉に、この作品に陽が当たらない理由の一端が覗いているようだ。

当時のアメリカの倫理観は、健全な家庭、宗教的価値観、人種差別、フロンティア精神といったものが幅を利かせていた。
そして、映画は最も敏感に時代の倫理観に従わざるを得ないメデイアでもあった。
その中で「サラトガ本線」は自由にふるまう女性を主人公としていた。

彼女は母親の復讐のためにフランスからニューオリンズに戻ってきた行動力のある女性であり、金持ちの男と結婚するという人生目標を隠さなかった。
たばこを吸い、桃をブランデーに浮かべて泥酔するまで飲む。
逆境(といっても自らの正体が暴かれそうになるなど損得に絡んだ場合のみだが)には自ら解決に立ち向かってゆく逞しさを持っている。
よく笑い、叫び、損得の絡む相手に対しては大いに演技力を発揮する。

今現在であれば、自らの「女」を武器にのし上がるサスペンスドラマでよくあるキャラクター。
ひょとしたらフェミニストによって、女性の自立を謳いあげるドラマのヒロインにでもなりそうなキャラクターでもある。

この主人公をバーグマンは実に生き生きと、愉快そうに演じる。
その様は、彼女個人の本質にも似通っているようにも見えるし、彼女個人が協賛する女性像をなぞっているようにも見える。
これまで作品ごとに関係者と浮名を流し、「サラトガ本線」当時は「誰がために鐘は鳴る」でメロメロだったゲーリー・クーパーとの仲も継続していたバーグマンの、彼女個人としても真骨頂のことであったろう(この作品の直後、バーグマンはクーパーとの浮気を打ち切ったが)。

セルズニックにスカウトされて以降、ハリウッド流の型にはめられ(ようとし)ていたバーグマンが、ここでは自由に羽ばたいている。

クーパーとバーグマン

ワーナー製作の鳴り物入りの大作とは言え、こういった女性の自立を隠れた(隠れてはいないか)テーマとした作品を保守派のサム・ウッドがよく引き受けたものだとも思う。

主人公は魅力的な若い女性とはいえ、黒人ハーフの中年女性(白人女優が黒塗りで演じる)と小人の中年男性(名前はキュビドン!)を従者とした異形の集団の主宰者でもあった。
彼らが霧にむせぶニューオリンズ港に降り立ち、荒れ果てた屋敷(バーグマンの実母がニューオリンズを追われた事件の現場)に立ち入る映画のオープニングはホラーかサスペンスとしか形容のしようがないものだった。
これらは正統派のハリウッドメロドラマとは決して相いれない要素であった。

そういった異形のシュチエーションをバックに、自己陶酔のように自らの欲望を語りまくり、お互いに一目ぼれしたテキサス男(クーパー)との会話が時にかみ合わなくなっても、まったく気にしないバーグマンの演技を見ていると、この作品が、ハリウッドの悪しき伝統を破壊せんと企てられた、一種のカルトムービーなのではないか、とさえ思ってしまう。

少なくとも伝統的なハリウッドメロドラマ的ではない。
当時としては新しい価値観に基づき、生き生きとした女性像を描いた画期的(冒険的?)な作品だった。

クーパーの背後が小人の従者キュビドン

バーグマンが生き生きと立ち回る姿に見ほれた。
こういう作品に出合うと、これまで映画を見続けてきてよかった、とさえ思う。

さすがに児玉数夫は隠れた「名作」を忘れてはいない。

「窓」  1949年   テッド・テズラフ監督   RKO

1949年当時のニューヨークの下町。
主人公のテリー少年と両親が暮らすボロアパートには電話はなく、洗濯物は向かいのアパートに渡したロープにかけて乾かす。
非常階段をたどれば隣家のベランダを通ることになる「長屋暮らし」。
6階建てアパートにエレベーターは当然ない。
隣の建物は崩れるに任せた廃墟で、主人公ら悪ガキ仲間のあそび場だ。

こうした環境で育つ9歳の少年テリー。
父親は夜勤の仕事、母親は専業主婦という一般大衆。
テリーは夢多い少年でおしゃべりが得意、勢い虚実取り交ぜたおしゃべりにより、大人からは嘘をつくなと指導されている。

テリー少年一家の夕食

テリーが寝付かれぬ夏の夜に枕をもって風通しの良い非常階段で寝ることに。
その時に目撃する階上の夫婦の殺人。
母親に言っても夢を見ているだけといわれ、父親に言っても逆に説教される。
思いきって警察を訪ねるが、最初から本気ではない警察は形だけの調査をするだけ。

勘づかれた犯人夫婦に拉致されるテリーだが・・・。

配給会社による宣材
少年と殺人犯夫婦

RKO時代のドア・シャーリーの製作(クレジットタイトル上のプロデユーサーはフレデリック・アルマンJR)。
本作「窓」は、シャリー製作のヒット作「らせん階段」(46年)の少年版ともいうべきか。
「らせん階段」はおしの女性に迫る危機を描いていたが、本作では、話を大人に信じてもらえない少年に迫る危機を描く。

ヒッチコックの「汚名」のカメラマンだった監督のテッド・テズラフの演出は徹底的に暗さにこだわる。
ほとんどが夜のシーンだが、効果的に使われるライテイングにより画面の暗さが気にならない。
ラストのアクションシーンでは、画面に向かって崩れる階段や梁の構図が目新しい。

ノースターの作品といいながら、若手の良識派アーサー・ケネデイ(テリーの父親役)、ルース・ローマン(殺人夫婦の妻役)と、決して手を抜いてはいないキャステイングもいい。

ルース・ローマン

「やぶにらみ世界娯楽映画史」では、この作品について『ドア・シャリーのプロデユースになるものは、最低の製作費で最高の興行成績を狙うものとして有名であるが、この「窓」もその例にもれず、75万ドルといわれる安い製作費で作られている傑作である』と評されている。

戦勝国とはいえ、ニューヨーク下町の庶民の暮らしは決して明るくも、希望に満ちてもいない。
空想癖により自由に精神をはばたかせるのが好きな少年にもやがて残酷な現実が押し寄せる。
空想の世界に浸る危険性と、貧しい現実に安住することの安全性が描かれる作品。
それが「反語」としてのことなのか、「正論」としてのことなのかはわからないが。

「恐怖の一夜」  1950年  マーク・ロブソン監督  RKO

戦前からの名プロデユーサーで、MGM(メトロ・ゴールドウイン・メイヤー)にその名を残し、ウイリアム・ワイラーと組んで、「孔雀夫人」(1936)、「嵐ケ丘」(1939年)、「偽りの花園」(1941)、「我等の生涯の最良の年」(1946)などの名作をプロデユースしたサミュエル・ゴールドウインの製作。
監督には前年「チャンピオン」で華々しく世に出た新鋭のマーク・ロブソンを、脚本にはフィリップ・ヨーダンを起用した異色作。

舞台は都会の貧民窟。
犯罪者や低所得者が住むアパートに暮らす青年マーテイン(ファーリー・グレンジャー)。
彼の父は自殺したため、地区の教会の神父から教会葬を拒否される。
それ以来、教会と神父を憎むようになるマーテイン。

その後、貧しいながらも生花店でまじめに働くマーテインだが、最愛の母親は病気で臥せっており、やがて死ぬ。
盛大な葬儀で母親を見送りたいマーテインだが、雇い主も助けてはくれない。
思い余ったマーテインは神父を訪ね、信心深かった母の葬儀への援助を要求するが、すげなく拒否される。
衝動的に十字架で殴りつけ、神父は死ぬ。

マーテインと警察。
後任の若い神父(ダナ・アンドリュース)とマーテイン。
それぞれのヒリヒリとした関係が、夜の貧民窟と場末の警察署を舞台に葛藤する。

新任の若い神父(ダナ・アンドリュース)。左は善人神父の姪役の女優

貧困のせいもあり、教条的な信仰心には相いれない青年が事件を経て己の心と向き合うまでがつづられる。

貧困と無知から犯罪を犯す若きカップルが主人公の犯罪映画には「暗黒街の弾痕」「夜の人々」「拳銃魔」などがある。
本作でも主人公のマーテインには、エレベーターガールをしながらマーテインからのプロポーズを待つガールフレンドのジュリーがいる。
若く、貧しく、ナイーブすぎるマーテインとジュリーには、貧しさゆえに犯罪を起こし社会に追われる犯罪映画のカップルに似た匂いがする。

が、本作の感性は、社会に虐げられたカップルを犯罪に追い込むものではなく、またそういった若者たちに寄り添うものではない。
社会の不条理を描きつつも、虐げられたものへの社会の無理解を訴えるわけでもない。

後任の神父がマーテインにつぶやく『君が神を捨てても、神は君を捨てない』に象徴される、虐げられるものであればあるほど信仰心が大事であることを訴えるのがテーマとなっている。

とはいえ、ディテイルには監督マーク・ロブソンの鋭い感性が光っている。
どこからともなく現れて、にこりともせず無礼にふるまい、正体不明の不気味ささえ漂わせる刑事たちは、とても正義の執行者には見えない。
マーテインを拒絶する前任の神父は、貧民窟の絶望と40年間向かい合って消耗し尽くしたという理由があったにせよ、官僚的そのもので既存の宗教の非人間性を表す。
その神父が十字架の置物で殴り殺されるのは象徴的だ。

それでも信仰心にこそ救いがある、との結論は製作のゴールドウインの感性であろう。