DVD名画劇場 戦前ドイツ映画の栄光VOL.1

第二次大戦前のドイツ映画は、その栄光の時代を迎えていた。
すなわち、1910年代の第一次大戦後のサイレント映画時代には、G.W.パブスト、F.W.ムルナウ、ヨーエ・マイらの演出陣が社会的リアリズムもしくは表現主義などの影響下に名作を輩出し、早くも世界市場に打って出ていた。
日本においてもドイツ映画が一定の評価を受けていた。

「写真映画世界史第3巻」より

映画がトーキーになった時、技術的にもいち早く対応したのがドイツ映画だった。
内容的にはオペレッタなど音楽を前面に出した作品群を世界に送り出すとともに、ゲルマン神話に基づく歴史もの、山岳映画など独自のジャンルを打ち出していた。
監督陣ではエルンスト・ルビッチ、フリッツ・ラングなど後々にハリウッドで長く活躍する人材を輩出した。

ドイツ映画の特色は、当時の映画製作の中心地ウーファ撮影所に根付く伝統的な映画技術の高さとともに、ヨーロッパの中心としての歴史を持つドイツ人気質の堅実さ、地味さ、素朴さが自然と画面に表れている点にあった。
反面、残酷なほどに人間性の善悪を表現するのもドイツ映画の特色であろうが。

今回の名画劇場は手元に集まった戦前のドイツ映画3本を見る。

「最後の人」  1924年  F・W・ムルナウ監督  ドイツ

サイレント時代のドイツ映画には、「カリカリ博士」(1919年 ロベルト・ウイーネ)、「ノスフェラトウ」(1922年 F・W・ムルナウ)、「メトロポリス」(1926年 フリッツ・ラング)、「パンドラの箱」(1929年 G・W・パブスト)などの名作がある。

G・W・パブストと並ぶサイレント時代からの名監督がムルナウ。

「最後の人」は、主演のエミール・ヤニンニングス扮する初老のホテルドアマンがトイレ番に左遷され失意の中で死んでゆくまでを描く。
ヤニングスは「嘆きの天使」で歌姫に溺れる堅物の教授を演じたひと。
この人の演技、表情や仕草にはサイレント映画らしい大仰さがみられるものの、心理を表す表情・仕草や瞬間に素早く動いて状況の急変を表現することができるなど、「鋭さ」がある。

「最後の人」撮影風景

映画の技法的には、表現主義の影響が見られる。
ホテルの役職を降格させられた主人公が退社後仰ぎ見るホテルを捉えるカメラは、きらきら窓の光がさんざめく建物を二重写しのようにとらえる。
現か幻か判然としない映像表現は、主人公がすでに正常な精神状態ではないことを独自の技法で表現する。
また、降格した主人公を待ち受ける安アパートの住人たちのあざけるかのような顔のクローズアップは脅迫的な主人公の心理状態を強調する。

エミール・ヤニングス(左)

主人公の娘が己の結婚式のためにケーキを焼くシーンや、ホテルの制服(に象徴される世俗的権威)への執着、落ちぶれた隣人に対する嘲笑(権威ある隣人に対する諂いと根っこは同じ)などは、いわゆるドイツ的なものが濃厚に漂う。
質実剛健なドイツ人気質だったり、とはいえ権威に弱く、周囲に同調的な気質だったり。

「制服」への過剰なこだわりについては、制服が主人公のアイデンティティーの象徴として描かれているのではあるが、一方でドイツ人の「制服」への気質的な執着を表してはいないか。
第二次大戦のドイツ軍の制服、武器の優れたデザイン性は現代でも一定のファンを持つ。
ドイツ気質と武器・制服のデザインの卓越性との親和感がこの作品にも通底してはいないか。

一方で、制服に象徴される権威、没個性からの解放を秘かな主題としているのもこの作品。

主人公がホテルの支配人から降格通知を渡される場面では、窓の外のカメラが移動しワンショットで窓の内側に来るなど、撮影技法が洗練され高度なのもこの映画の特徴。
サイレント時代からドイツ映画のレベルの高さが見られる。

「會議は踊る」  1931年  エリック・シャレル監督  ドイツ

何という楽しい映画であろう。
陽気で、楽天的で、性善説的で、庶民的で。
最も印象に残ったのはその軽さ。
重々しく、悲観的で、マニアックで、伝奇的なドイツ映画らしさがそこには無く、さっぱりとオペレッタに徹した作品となっている。

リリアン・ハーベイとウイリー・フリッチ

時は1815年、第一次ナポレオン戦争が終わった後の講和会議をウイーンで行うことになった。
主宰することになったオーストリアの首相メッテルニッヒ(コンラッド・ファイト)は、『どうしてウイーンでやるの?』と後ろ向き。
だが策士でもあるメッテルニッヒは、外交官や職員たちを盗聴し、書簡を検閲しながら情報を収集。
やり手のロシア皇帝アレクサンダー(ウイリー・フリッチ)を美女で篭絡し、その間に講和会議をまとめてしまおうと画策する。

一方で鳴り物入りでウイーンにやってきたロシア皇帝は、ウイーンの帽子屋の売り子で愛嬌のあるクリステル(リリアン・ハーベイ)の歓迎ぶりに歓び、街の居酒屋で皇帝の身分を明かさずのデート。
クリステルの純朴な愛らしさを愛で、クリステルもつかの間のジェントルマンとの邂逅に夢心地、彼が居酒屋に払った金貨で相手が皇帝だとわかる。

リリアン・ハーベイは街の人気者

王子様と町娘の恋といえば「ローマの休日」とは逆のパターン。

皇帝に呼ばれ、クリステルが馬車で彼の別荘へ向かう長回しのシーンがすごい。
クリステルが謳う主題歌とともに、川面に恋を語るカップルや、民族衣装で洗濯する娘らを手前にしてドナウ川の橋を渡る馬車。
馬上で喜びを精一杯表現するクリステルに、カップルは抱き合うのを止め、洗濯娘らは手を振る。
到着したお城のような別荘の庭では何組ものカップルがダンスで馬車を迎える。
ハリウッドミュージカルの山場のシーンのようではないか。
というか、後年ハリウッドが延々とまねしてるだろ、これ。

メッテルニヒ(コンラード・ファイト)はフランスの伯爵夫人(右)を使ってロシア皇帝の篭絡を画策

居酒屋で仲睦まじい皇帝とクリステルが店を出るときには、楽団がマーチを奏で、店の客が出てきて踊りながら二人を見送る。
急に音楽が始まり場面が転換する。
ミュージカルのお約束でもあるこういった場面が続く。

リリアン・ハーベイの艶姿

クリステルを演じるリリアン・ハーベイは、独英混血らしいが、ドイツ娘らしい逞しさを感じさせるとともに、1933年のオーストリア映画「未完成交響楽」で、若き日のシューベルトを助ける質屋の娘を演じたルイーゼ・ウルリッヒのような素朴な健気さを見せる。
またその陽気な明るさ、お色気、芸達者ぶりは天性のものとしか思えない。
彼女の健康なエロチシズムは、逆光に浮かぶ体のシルエットだったり、スカートをたくし上げた際の一瞬の生足で直接的にも表現される。

明るく、軽いタッチとミュージカルらしい場面転換で映画をまとめた監督のシャレルは、オペレッタの舞台演出家から製作者のエーリッヒ・ポマーにスカウトされ、この永遠に古びないミュージカル作品を撮った。

ドイツ映画はトーキー以降にオペレッタ映画の興隆時期があり、本作はその時期の代表作だった。
軽さ、明るさ、陽気さで統一された本作だが、製作された2年後にはナチス党が政権を取り、7年後にはポーランドに侵攻するという時代性を感じさせるように、エンデイングはナポレオンが幽閉先を脱出し、フランスに上陸したというニュースとともに、再びの欧州の戦禍を必然としてロシア皇帝は直ちに本国へと出発するというものだった。

町娘の夢のような恋は、一瞬の思い出とともに来るべき戦乱に覆いかぶせられるのであった。

「制服の処女」  1931年  レオンティーネ・ザガン監督  ドイツ

まず、ナチス党対党前夜の1931年のドイツでこういった作品が生まれたことに素直に敬意を表したい。

ベゼルブルグ先生とマヌエラ

女流監督のザガンは、この時代のドイツ演劇界の重鎮だったマックス・ラインハルト門下だという。
製作はカール・フレーリッヒで1930年代後期のドイツ映画界の随一のプロデユーサーだという。

主演の女学生マヌエラ役にヘルタ・ティーレ、マヌエラが慕う女教師・ベゼルブルグ先生役にドロテア・ヴィーク。スチル写真を見たら忘れられない凛とした美貌のドロテアさんはスイスの男爵夫人で、クララ・シューマンの後裔だといわれているらしい。
制服が似合う。

先生を慕うマヌエラ

叔母に連れられて寄宿制の女学校にやって来たマヌエラ。
14歳だ。
この学校は校長の方針で、規律を尊重し空腹に耐えてプロシア精神を体現すべく女子を教育する方針。
生徒は縞模様の(大戦中のユダヤ人収容所のような)制服の上にふだんは前掛けのスタイル。

テイーンエイジャーの女の子らしく、空腹に耐えかねたり、男優のプロマイドを隠し持って『セックスアピールがどうのこうの』と騒いだり、厳しい舎監の先生に陰で『あっかんべー』したりする生徒たちだが、本当の意味で厳しい団体生活に我慢できるのは、ベゼルブルグ先生の存在があるからだった。

消灯とともに寝室にやってきて皆にキスしてくれる先生は、母親のいないマヌエラにとっても思慕の対象であり、生きがいともなった。

院長の誕生会に催される生徒の劇は盛り上がるが、その打ち上げで事件が起こる。
ベゼルブルグ先生への思慕を素直に打ち明けたマヌエラの行動が問題視される。

規律違反だと断罪する院長に、反対しマヌエラを守ろうとするベゼルブルグ先生。
マヌエラは自殺寸前のところを仲間に助けられ、皆の非難の目を背に院長は去ってゆく。

ドロテア・ヴィーク(上)とヘルタ・テイーレ

ナチス時代となった時、亡命を余儀なくされたというザガン監督、ほとんど唯一の作品。
監督が女流ならば出演者も全員女性。
切羽詰まった場面ばかりではなく、折々に学園ドラマのノリのような、『青春のどうしょうもない』シーンも加える。
女学生役の女優達も美人ばかりではなく、実際に学校に居そうなキャラが揃っている。

全体主義に対する人間主義の抵抗をテーマにした作品。
根底には当時のドイツの暗い世相が覆ているかのようだった。

干瓢づくり

大きな夕顔が今年も採れました。

夕顔は冬瓜に似ており、あんかけにしたりサラダにしても食べられます。
田舎では夏野菜として利用価値大です。
というより、夏にしか出ない、食べきれないくらい大きな野菜というべきでしょうか。

畑で夕顔を収穫。つるむらさきとズッキーニの下の2本

直売所などでも売られていますが、巨大化したズッキーニと同様、あまり売れてはいないようです。

今年も畑では4本ほどの夕顔が採れました。
2本は山小舎おばさんに持って帰ってもらったのですが、2本が山小舎に残りました。
味噌汁の具やカレーの具に使いましたが使い切れません。
そこで干瓢に干すことにしました。

昨年も干瓢づくりを試みましたが、実をむく作業が一番大変でした。
包丁で実を横に剥くには実が柔らかすぎて頼りなく、暑さが均一に剥けないのです。
当然出来上がりも厚さが不均一なものとなりました。

そこで今年は暑さの均一と作業時間の短縮を考慮し、ピラーで剥いてみました。
夕顔は皮が硬く、ピラーではなかなか歯が立たないのですが、実を立にして頑張って剥いてみました。
厚さが均一な夕顔の実が剥けました。

夕顔とピラーを用意
ピラーで剥く。力が必要
剥いた実を洗う

ザルに広げて干してみます。
半日後、アッという間もなく、ザルの底に剥いた実が張り付いてしまいました。
何とか剥がして干しあがった実はまるで鰹節のようにぴらぴらしています。
これでは干瓢を煮ても溶けてしまいそうです。

ザルに広げる
薄い実の干しあがり

翌日もう一本の夕顔を厚めに剥いてみることにしました。
剥き方は夕顔を立にして包丁を上から下に向けて削るように剥いてゆくのです。
こうすると実の柔らかさに阻まれることなく包丁が進みます。
実の厚さは包丁の加減次第です。

こうして夕顔の種が現れるまで身を削り落としました。
思いっきり厚めの実が何本か出来上がりました。

夕顔の実は水気が多く、また独特の粘り気もあるので干すときにはザルに張り付かないように気を付けます。
早めにほしあげた方がいいようです。

翌日包丁で暑く剥いた実を広げる

こうして干瓢らしきものが干しあがりました。
鰹節のように仕上がったものも使ってみることにします。

厚い実の干しあがり
出来上がった干瓢をパッキング

軽トラ流れ旅 金沢峠から法華道を下る

手許に、高遠歴史博物館で購入した「歩くための絵地図 信州高遠 杖突街道」(200円)があります。
諏訪と高遠の境目の杖突峠、金沢峠、守屋山から高遠へと下る杖突街道、法華道、鎌倉道などの歴史と現在の姿を作者が歩いて絵にした地図です。

絵地図、金沢峠付近

山小舎おじさんは高遠や伊那が好きでよく行くのですが、その時通るのは茅野から杖突街道を通るルートです。
よく整備された舗装道路で、トラックやバスを含めた車両のほとんどがこのルートを通ります。

江戸時代までの高遠からの参勤交代や、甲州街道で江戸に向かう人が歩いたのは杖突街道ではなく、鎌倉道と呼ばれ杖突街道を分けて金沢峠を越えるルートと、法華道と呼ばれ長谷村から山室川沿いに金沢峠を目指すルートだったとのことです。

絵地図、芝平付近

通ってみたかった法華道を、金沢峠を茅野側から越えて高遠まで軽トラで走ってみました。

絵地図、荊口付近

茅野から金沢峠への最短ルートは誰も通らない林道だった

茅野から甲州街道を少し上ると旧金沢宿の集落があります。
かつての甲州街道の宿場として、高遠からの峠道と甲州街道の合流点でもありました。
この日は金沢宿から金沢峠を目指すことにしました。

金沢地区にある独鈷石
解説文

携帯のナビに金沢峠を検索して山小舎を出発。
甲州街道の金沢地区に来てもナビは杖突街道経由のルートを指定し続けます。
ナビを無視し、地図であたりをつけて金沢峠方面と思しき交差点を右折し、山側に登ってゆきます。

甲州街道金沢宿
金沢峠へ延びる農道

道は金沢の集落の間を上る1車線です。
やがて簡易舗装の農道のような道となりました。

国有林を分け入る

林道もしくは登山道のような砂利道を上ってゆきます。
冬期間や悪天候の日は遭難しそうな道です。
軽トラのエンジンを頼りに時速10キロからせいぜい20キロ、ギアはファーストからセカンドで進みます。
一度止まると再スタートまでタイヤがスリップします。
路面は凸凹ですが砂利は敷かれています。
ガードレールはありません。

後ろから1台の四駆車がライトをつけて登ってきました。
物好きな人もいるのだなあと思っていたら茅野市の車でした。
月曜日の見回りなのでしょうか。

途中にある見晴台
かつての展望は国有林の成長とともに隠れた

山の中に取り残されたかのような孤独感に襲われながらでこぼこ道を上ってゆき、ようやく開けた道に出ると金沢峠に着きました。
そこは千代田湖を通り、杖突街道へと通じる道や、芝平峠を抜けて法華道で高遠へと下る道、入笠山への道などが集まるポイントでもありました。

金沢峠は往来もなく山の中

山室川沿いの悪路を行き、芝平の集落へ

ここから芝平峠方面へ向かいます。
道路端に立てられた看板には「この先悪路です。携帯の電波も届きません。高遠方面へは千代田湖経由で杖突街道への迂回をお勧めします」とあります。
通行止めではないのでこのまま進むことにします。

芝平峠の分岐点

人気のない悪路を時速10キロほどで下ります。
八ヶ岳の美濃戸口から美濃戸へ至る道も相当の凸凹道でしたが、それに続く悪路です。

芝平方面へ下る法華道

やがて巨大な堰堤が現れました。
山室川の上流に、洪水防止のために作られているのです。

山室川上流の堰堤

左側には渓流の山室川。
ガードレールもない悪路を下ります。
ぽつぽつと人家が見えてみました。
移住者の別荘のようです。
廃屋もあります。
人気のない芝平の集落に小学校の廃校がありました。

法華道
沿道の廃屋

50年程前まで分校だった小学校です。
古い造りの建物ですが、その大きさが周りの静けさと不釣り合いなほどです。
建物は当時のまま残っているのですが、児童や職員の活動の跡はほとんど残っていません。
人間の営みの場としての学校の機能はすでに失われて相当の時間が立っているのがうかがえます。

芝平分校の廃校

パワースポット弘妙寺へ

道が整備され、人家が多くなっていました。
芝平から荊口と呼ばれる地区に来ました。
右手にカフェの建物を過ぎると弘妙寺というお寺がありました。
絵地図に載っているお寺ですので寄ってみました。

弘妙寺の案内板

日蓮宗弘妙寺は気の寺としてパワースポットなのでした。
現役感のみなぎる本堂に立ち、案内に従って庫裏の呼び鈴を押します。
出てきた奥さん(なのか住職の娘さんなのか)から厄除けのお守りをいただきます。

堂々たる本堂
厄除けのお守りをいただく

「どちらから?芝平峠を越えて?それは大変でした。
芝平の上流はかつて集団離村をした場所です。今上流に住んでいるのは移住者ばかりでゴミ収集車も行きません。道が荒れているのも行政がそのせいなのでしょう。
分校が廃校になったのは50年くらい前でしょうか。
この地区も移住者の方が多いくらいで、彼らがいないと成り立ちません。隣のカフェも移住者がやってますが地区の行事などよくやってくれています。
中央構造体のせいなのか敏感な人は気を感じるようです。私も目の前のイチョウの木の近くでは体が軽くなります。」
とは女性が語ったこと。

大きなお寺は歴史を感じますが、その現役感はパワースポットとして、運動選手、実業家、ゴルファーに聖地としてあがめられ、数々の来訪者に応対してきた賜物なのでしょう。

イチョウの木に触れてみると何となく体に風が通ったような気がしました。
それよりも山室川の谷を望む寺のたたずまいの清々しさに心洗われる思いでした。

イチョウに触れていると来訪者らしき女性が寺に登ってきました。
「本堂にお参りしたいのですが」というので庫裏の呼び鈴を押して寺の女性に案内を乞うように伝えました。
お寺はパワースポットとして来訪者を引き付ける場所のようでした。

大地から気を運ぶ大イチョウ

法華道を下りきると長谷村に出ます。
田んぼに稲が揺れる麓の村です。

道の駅で遅めの昼食を摂りました。
高遠を通り、伊那から蓑輪町を抜けて帰りました。

長谷村の道の駅でソースカツ丼

「杖突街道の絵地図」を生かし、楽しんだ旅でした。

令和6年青春18きっぷ 身延線チョコッと旅

山小舎と東京に自宅を行き来することが多くなりました。
気が付けば青春18きっぷの季節です。
鉄道の旅が好きな山小舎おじさんは、迷わず切符を購入することにしました。

自宅に帰る日、茅野駅で窓口の駅員さんに18きっぷを売っているかどうか聞きました。
すると券売機で買えるとのこと。
夏の観光シーズンで券売機に人が並ぶ中、外に出てきてくれた駅員さんの操作で買えました。
みどりの窓口が全国の駅で廃止されている中、券売機でほとんどの切符が買えるのですね。

この日はまっすぐ自宅に戻り、再び山小舎へ18きっぷで取って返しました。

甲府駅に到着してふと見ると10分後に身延線の連絡がありました。
甲府駅の1番ホームの奥の4番、5番に身延線ホームがあります。
この日は台風の影響で身延線は甲府と鰍沢口間でのみの運行。
身延線のハイライトである、下部温泉にも身延にもゆきません。
でも、折り返し甲府に戻らなければならない身としてはちょうど良い行程かもしれません。

甲府駅1番ほーに掲げられている身延線案内板

甲府駅の4番ホームにひっそりとたたずむ身延線の2両編成列車はワンマンカーでした。
乗客はガラガラでした。

発車してしばらくは甲府の郊外風景の中を走ります。
駅駅はホームをつなぐ橋がなく、踏切を渡って改札口に出る作りになっています。
住宅の間に放置された畑やソーラーパネルが設置された風景が続きます。

身延線沿線の駅の作り

甲府盆地の南端の山々に近づくと、田んぼが広がってきます。
しばらくは山すそに沿って列車は走ります。
街道筋の歴史がありそうな町が続きます。
今では甲府のベッドタウンでしょうか。

市川大門駅は中国風の建物
甲府盆地南端に広がる田園風景

やがて終着の鰍沢口に到着。
ここは甲府盆地の端っこ。
日蓮宗の総本山がある身延やその先の静岡県まではまだまだあります。

この日の終着は鰍沢口(無人駅)
駅の通路に張られた観光ポスター

鰍沢口駅のあるこの場所はかつて、甲府と静岡を結ぶ富士川の水運で栄えたという歴史ある土地です。
今は商店らしい店もありません。
あわよくばここでランチでもと考えていた山小舎おじさんは炎天下の中、富士川を眺め、何度かあたりを歩き回って駅に戻りました。

街角の案内板
富士川を望む

ここから先、静岡県に至るまでの山岳ルートが身延線のハイライトなのでしょう。
今回は初めて乗るローカル線の雰囲気だけを味わいました。
次回また!

静岡方面へ続く身延線

韮崎平和観音

自宅と山小屋の往復には、自家用車のほかでは高速バスか鉄道を使います。
時間的には高速バスが早く(バス停・高速深大寺から高速茅野までが約2時間半)、レスポンスもいいのですが、旅好きな山小舎おじさんとしては鉄道の旅も捨てがたいのです。

JR中央線に、高尾から大月行き、甲府行きなどに乗り、終着で途中下車。
そこで昼食を摂るのんびり旅です。
甲府には行きつけの定食屋まであります。

高速道路を走る旅と違い、鉄路を行く旅は視線が低いので見える景色が人間サイズの上、案外視界も広いのです。
鉄道は町をつなげて走るので、商店街、住宅地、農地など、場所場所の人間の暮らしの景色が見られるのもいいのです。

ということで、夏のある日、自宅から山小舎へ戻る道中、山梨県の韮崎に途中下車しました。
車窓から見える大きな観音様の麓に行ってみようと思ったからです。

線路からほど近く観音様は見えます。
韮崎駅の改札口で駅員さんに聞きました、「観音様へのルートを教えてくれますか」。
「まず、駅のガードをくぐって。案内板はないと思うけど。登りが急ですよ。」との返答でした。

ガードをくぐって駅の反対側へ出ます。
小高い山の上の観音様は街から遠望できるので方向は迷いません。

駅からガードをくぐった商店街にかかる鳥居
商店街からは平和観音が見える

「窟観音入り口」の看板があったので進んでみます。
平安時代にこの地を訪れた弘法大師が掘った観音様が石窟に安置され、岩場の麓には雲岸寺というお寺が立っている場所でした。

まず窟観音へ行ってみる
トンネルの出口にはお地蔵さまが並ぶ

まずは石窟と窟観音を見て回ります。
中央線韮崎駅の近くにかような石窟が残っていることに驚きました。

窟観音が収められているお堂
崖下から望むお堂

目指す平和観音は雲岸寺が立つ場所から小高い山(断層)を登った場所にあります。
平和観音までは舗装道路が続いており、そこそこの交通量もあります。
徒歩で夏に歩くのは一苦労でした。

汗をかきつつ登った崖の上に平和観音が立っていました。
甲府盆地とその向こうの富士山を望む場所です。
あたりの雰囲気は甲府盆地を走る国道20号線の活気と喧騒から離れたのんびりしたものでした。

平和観音が立つ高台は市民の墓所でもある
平和観音を仰ぎ見る

女性的な造りの観音様は遥か甲府盆地から東京方面を眺め、世の安寧と平安を祈念しておられるのでしょう。
忘れられたような静けさの中、たたずむ観音様でした。

イチヂクのコンポート

イチヂクが出回る季節になりました。

南箕輪村のファーマーズあじーなは山小舎おじさんお気に入りの直売所。
高遠、伊那方面に行った際には帰りには、ついつい寄ってしまいます。
北伊那地方の恵みがぎゅと詰まったような場所で、タイミングが合うと季節の野菜、果物のてんこ盛りに出会うことができます。
また、地物の桃やいちごなどのB品が格安で箱売りされていることがあり、「ラッキー」とばかり加工用に買い求めます。

9月初旬のこの日は、トウモロコシや新リンゴが大袋で売られていました。
また、プルーンが大量に出ていました。
売り場にイチヂクがひとパック残っていました。
5個入りで300円です。

このイチヂクをコンポートにしてみました。
イチヂクは傷みやすいので早々に加工しなければなりません。

ネットでコンポートの作り方をチェックします。
まずは皮むきです。
熟しすぎたものが1個ありましたが、残りは硬さもあり、包丁で皮がむけました。

この間にシロップを作ります。
レシピ通り水に砂糖と白ワイン、レモン汁を入れて煮立たせます。
レシピではグラニュー糖でしたが白砂糖にします。

常温での保存性をよくするため、素材の消毒のためにイチヂクをシロップで煮込みます。
煮ているうちにシロップが薄く赤に染まりました。
熟しすぎた実が煮崩れていました。

煮沸消毒した保存瓶に実を入れ、熱々のシロップで浸します。
蓋を軽く締めて抜気のために再び沸騰したお湯に瓶ごと漬けます。

イチヂクのコンポートです。
初めて作りました。

令和6年畑 夏野菜終了

8月は2、3回しか行けなかった畑。
9月早々、様子を見てきました。
草刈り機を持って行き、雑草を刈って収穫しました。

素人農業とはいえ、今年ほど畑をほったらかしたことはなかったでしょう。
それでも草の中、健気に実っている野菜もありました。

大きくぶら下がっている夕顔を2本を収穫します。

夕顔2本、ズッキーニ、つるむらさき

キューリも今年は遅くまで実っています。
枝豆はよく実ったのですが、完全に収穫遅れです。
硬くて食べられないので、このままにします。

万願寺トウガラシ、キューリ、ゴーヤ

今年はよくできたミニトマトもこの時期になるとに実割れしています。
大玉トマトはほとんど腐っています
風通しが悪かったからなのでしょうか、何か病気が発生していたようです。

トマト最後の収穫。食味が悪く大玉は生食も加工もできなかった

ゴーヤが一本と、万願寺トウガラシが少々採れました。

今後は、カボチャと唐辛子が採れるでしょうか。

別な畑のヤーコンは無事でした。もうシカの食害はないでしょうから(ヤーコンの葉は苦いので鹿は好まない)秋には無事収穫できそうです。

雑草なのかヤーコンの葉っぱなのかわからない

畑の周りには、雑木やイタドリのような木が盛大に生い茂っており、オソrしいほどです。
秋までにきれいにしたいものです。
フェンスを伝って生い茂り、畑の通気を阻害しているツタも遅まきながらもカットしておきましょうか。

長久保宿の家の軒先に提灯がぶら下がっていた。神社の祭礼があるのか

孫一家と余市、積丹へ

令和6年の北海道墓参の旅は孫一家も一日遅れで参加しました。
山小舎おじさん一家はエスコンフィールドで野球観戦し、札幌で孫一家と合流。
親戚への挨拶と墓参、そして親戚一家との年一回の宴会を楽しみました。
お寺では数十年間実家のお参りに来てくれたお坊さんが高齢のため出てこれなくなり、寂しく感じました。

翌日は孫一家の企画による、余市郊外でのグランピングを楽しみました。
テント、BBQセット付、余市のウイスキー、ワイン、ビールが飲み放題という設定のグランピングです。

グランピング施設で一泊

食材のオーダーも可能とのことでしたが、せっかくなので小樽の南樽市場というところに寄って食材を準備しました。
天然ホタテ、北寄貝、ホッケの開き、ジンギスカン肉などのほか、解禁明けの積丹の生うにも少々。
焼くなどして楽しみました。

ドリンクはセンター棟まで貰いにゆく

飲み放題のドリンクは、いちいちセンター棟まで貰いにゆくシステムなのですが、美味しいので飲みすぎてしまいました。
テント宿泊といえ、ベッド付きで快適でした。

翌日は積丹半島のワッカトンネル近くの砂浜に行きました。
前日と打って変わっての晴天。
海はシャコタンブルーに輝いています。
そこでしばしの海あそび。
孫たちも大人も大喜びでした。

積丹半島ワッカトンネル付近の海岸
孫らは砂で遊ぶ
奇岩がそそり立つ
海にも慣れた子供たち

余市に戻って昼食の後、山小舎おじさんたちは一日早く出発のため、孫一家と別れたのですが、折からの台風で当日の便は全便欠航。
次男の働きで翌日早朝の臨時便にスライドできたため、千歳空港内の温泉施設に入って仮眠をとり、翌日朝の便に乗ることができました。

色々ありすぎて、ジェットコースターのような北海道墓参の旅でした。

エスコンフィールドHOKKAIDO

札幌の南隣の北広島市に、プロ野球日本ハムの本拠地球場がオープンしたのは昨年でした。
大リーグのボールパークを参考にした日本初の球場ということで、テレビに映ると注目していました。

山小舎おじさんの両親らが眠る北海道の地には結婚以降も毎年墓参りに訪れています。
令和令和6年の今年も、墓参りを兼ねた北海道ツアーを予定していました。

今年は孫一家もツアーに参加するとのことで、山小舎滞在に続いての一大行事となります。
ただし山小舎おじさんたちは一日早く北海道に到着し、帰りも一日早くなります。

山小舎おじさん一行が到着したその日に、エスコンフィールドに行くことになりました。
企画は我が家の次男坊、墓参りには良く参加してくれます。
当日は日ハムとロッテのナイターも行われるとのこと。
入場券などをネットで用意してくれました。

当日は雨の北海道。
レンタカーを借りて千歳から北広島まで行きました。

エスコンフィールドの駐車場に入ります。
入場券を持っていて、車のナンバーをネットで登録した人は自動で駐車場のゲートが開くシステムです。

エスコンの外観
野外エレベーターに乗って入場口へ

巨大なボールパークの建物に入ります。
ショップを抜けてフィールドを望む通路に出ます。
既にライトアップされた天然芝が輝いて見えます。

試合観戦のための入場は夕方ですが、それ以外の入場者はこの時間でも球場に入れるようです。
食べ物を売っている場所も試合前ながらかなり開いています。

ショップには多数の客が
広々とした通路
開始前のフィールドを眺める

試合を見る人は14時半から16時まで球場の外に出なければなりません。
雨に中、近くのカフェなどに駆け込みます。
時間が持たないのでレンタカーに乘って待ちます。
駐車場の車の中には結構な人が残っていて試合開始を待っています。

観客を入れてゲームが始まる
この日の昼食は地元豚のカツカレー

さあ、試合開始。
うるさいくらいに巨大な二つのビジョンから映像と音が流れ続けています。
ファイターズの出場選手の紹介や、ファイターズガールの球場内のリポートの様子が映し出されます。

クラフトビールショップの列に並ぶ

山小舎おじさんもクラフトビールの店に並んで、ビールとつまみ(北海道名物のザンギなど)を用意し座席に陣取ります。
球場内の買い物はすべてデジタルです。
カードは使えます。
ビールの売り子さんからも現金では買えません。

この日はPLAY BALL ALEを注文

試合は残念ながら盛り上がりに欠けたまま日本ハムの負けとなってしまいました。
それでも現場の迫力につられて8回くらいまで観戦しました。

ロッテ側のスタンドだったのですが、3階席のロッテ応援団の盛り上がりがすごかったでした。
ファーターズガールのキツネダンスも生で見れました。
この日は浴衣ヴァージョンでの踊りでした。

試合開始 ファイターズの選手が守備位置に散る
浴衣を着たファイターズガールによるキツネダンス

その日は新札幌のホテルに泊まりました。

翌日更に続きがあります。
エスコンフィールドの球場案内ツアーに参加したのです。
約1時間ほど、ファーターズガールが参加者を球場内を案内してくれるというツアーです。

球場案内ツアーの一コマ

ベンチやフィールドに降り立つことができるというツアーで参加した甲斐がありました。
天然芝は午前中から手入れしていました。
フィールドに敷き詰められている赤い土は、富士山の溶岩を砕いたものとのことでした。
新庄監督専用のベンチにも座ることができました。

フィールドレベルの観客席
フィールドに下りて天然芝を眺める

とにかく新しく、使いやすく、ゲームは見やすく、サービス精神旺盛な施設でした。
北海道らしく、因習にとらわれずに時代の先端にキャッチアップしようとする心が感じられました。

令和6年畑 枝豆収穫

8月中旬を過ぎたころです。

8月3日に孫一家が来て以来、畑には行っていませんでした。その間、孫たちが畑に行って、枝豆、ハックルベリーなどを収穫してきました。

孫が帰り、山小舎おじさんも一緒に東京へ戻り、さらに北海道へ帰って墓参りをしてから山小舎に戻ってきました。畑に来たのは3週間ぶりくらいでしょうか。

まだまだ日中は暑い畑ですが、ときおり吹く風が涼しくなっていました。
フェンスを開けると草がボーボーです。

3週間ぶりの畑の全景

まずは草刈り機であぜ道の草を刈ります。
ついで久しぶりの収穫です。

夕顔が3本ぶら下がっています。
持って帰っても古くなるだけなので収穫までそのままにします。

夕顔

太いキューリが10本ほど採れました。

収穫したキューリ、ピーマンなど

トマトはミニトマトを中心に一籠収穫です。

実っているミニトマト
収穫したトマト

そして枝豆。
今年は大豊作です。
鞘が丸々としていますが、表面がやや黒ずんできました。
収穫時期が遅れたようです。
一応、山小舎おばさんが調布でやっている「みんなの居場所、彩ステーション」に出荷してみます。
根と葉を切って揃えます。

枝豆を抜く
根と葉を切る

トウモロコシが少し採れました。
セロリも1本抜いて見ます。

トウガラシが赤くなってきた

枝豆でひと箱、トマト中心にもうひと箱。
彩ステーションに送ってみます。