川津祐介さん

俳優の川津祐介さんが、先月26日に亡くなった。

なぜ〈さん〉付けなのかというと、筆者の近所に住んでいたからだ。
それこそ20年程前くらいは、自転車で近所を散歩する川津さんを、時々見かけた。

スポーツタイプの自転車を、ショートパンツ姿で乗りこなす景色は、やはり一般人とは違っていた。

ある日曜の夕方、近所のグラウンドの隅で、子供の親仲間と缶チューハイを飲みながらだべっていると、自転車に乗った川津さんがニコニコしながら寄ってきた。

「あつ、川津祐介だ」と思ったが、軽く会釈しただけで、おやじ同士と話を続けてしまい、川津さんとはそれっきりだったが、今思えばもったいないことをした。
「けんかえれじい」(1966年 鈴木清順監督)出演時の話でも聞いてみたかった。

川津さんの自宅前は、通勤時に毎日通った。
娘さんらしき美人がたまに道路を掃いたりしていた。
亡くなる前は自宅で過ごしていたとの報道だった。

川津さんは木下恵介監督に勧められて1958年に松竹入り。
木下作品のほか、大島渚、吉田喜重など若手の〈ヌーベルバーグ〉作品にも出演。
1960年代には大映、日活の作品にも出演し、テレビにも活躍の場を広げた。

「惜春鳥」(1959年 木下恵介監督)。当時の松竹青春スターたちとともに

代表作は「青春残酷物語」(1960年)、「けんかえれじい」、とテレビの「ザ・ガードマン」(1965年~)になろうか。

「三味線とオートバイ」(1961年 篠田正浩監督)。岩下志麻に猛ダッシュ

木下監督好みのさわやかで透明感のある好青年役でスタートし、60年代の若者の屈折を演じ、そのうちにコミカルなアクションものにまで芸域を広げた。
主役を張るというより、器用で、色のついていない共演者としてのポジションで存在感を発揮した。

「けんかえれじい」では、喧嘩の先輩「スッポン」として「南部麒六」に教えを授ける

筆者の印象に残っているのは、上記代表作のほかでは、「赤い天使」(1966年 増村保造監督)の両手をなくす傷病兵役、テレビで飄々と主人公を演じるスパイアクションもの(「ワイルドセブン」?)だろうか。

何気なく見たテレビのスパイアクションでの、川津さんのセリフを今でも覚えている。
その回のドラマのキーワードは『カトレアは蘭の一種』だった。
プールサイドのテラスで、カクテルを前に独特のハスキーな声でそのキーワードをしゃべっていた。
それは、おしゃれでスッとぼけた感じの、川津さんの個性にあったドラマのワンシーンだった。

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

「川津祐介さん」への1件のフィードバック

  1. 定年おじさん様
    NHKで今「純ちゃんの応援歌」を再放送しています。川津祐介さんも「純ちゃんのお父さん役」で出演されていました。役ではあるのでしょうが、川津祐介さんご本人の真面目で熱血で一本気なご性格が透けて見えていたような気がします。このドラマは桂枝雀さんも重要な役(元校長先生、川津祐介さんが演じるお父さんの妻(伊藤榮子さん)に密かに思いを寄せる役)で出演されていて「この時はこんなに元気だったのに」とか思ったりしています。

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