冬晴れの一日、自転車で調布の多摩川沿いを歩いてみました。
なぜ多摩川沿いかというと、調布にいわゆる部落があると聞いて行ってみたかったからです。
部落というワードに反応するのは、商店街、闇市跡、盛り場、下町などのキーワードに反応する昭和なおじさんの癖です。
おじさんの10歳も上の世代にとっては、それらのワードは現実そのもので、当たり前の世界だったでしょう。
それから10年、「もはや戦後ではない」と経済白書で謳われた昭和31年生まれのおじさんにとっては、受取り方がちょっと違ってきます。
おじさんの世代にとってそれらのワードは、歴史上のものとして紀行文を通して接する対象であるとともに、一方では多少の現実感もともなう微妙な言葉なのです。
ということで、調布市上石原界隈へ行ってみました。
件の多摩川沿いには幟はためくキムチ屋があることは知っていました。
その店の裏側には細すぎる道がグネグネと続く住宅地でした。
不定形な土地の区割りと言い、道路の細さといい、ここが部落であることは一目瞭然でした。
調布というと北多摩郡の時代から、特徴のない近郊農村のイメージですが、この一帯には、昭和の光景と人間の匂いが色濃く残っていました。
このあたり、火葬場もなく、獣皮を扱う伝統もなかったようなので、典型的な被差別部落のイメージがわきません。
どういった人が住んでいたのか?
多摩川を漁場とする漁民、渡し船の船頭、砂利の採掘者、甲州街道布田宿の下働き的な人々、といった、士農工商(常民)外の仕事を司る人々が暮らす場所だったのか?
行き止まりの路地の脇から鶏の声も聞こえていました。
雑品屋、葬儀屋などが多摩川に面して並んでいます。
古くからのいわゆる部落であり、その後は在日の人々も移り住んだ地区なのでしょう。
といっても、すぐ近くにはゴルフ練習場、マンション、分譲住宅などが迫っており、調布に残された「昭和の聖地」も、ゆくゆくはどこにでもある無国籍な光景に飲まれてゆく運命なのかもしれません。
それが「令和の風景」なのでしょうか。
部落から鶴川街道を挟んだ反対側には、砂利・砂の工場があります。
かつては盛んだった多摩川の砂利・砂採掘の名残だと思われます。
砂利・砂は、とっくに多摩川では採掘禁止となっています。
とするとこの工場、北朝鮮などから輸入した砂利の一時受け入れ先なでしょうか?
室生犀星原作の映画「あにいもうと」(1953年)の主人公達の父親が多摩川沿いの引退した砂利採掘人夫だったことが思い出されます。
多摩川沿いを少し南下した辺り、現京王テニスクラブの敷地も昔は部落があった場所だそうです。
近くには大映撮影所がある地域です。
多摩川に流れ着いた観音様を祀ったお宮です。
京王閣競輪場です。
このあたり、戦前の頃は東京市郊外の景勝地として、舟遊びや鮎料理で人を集めた場所でした。
涼を求めた人を集め、演芸場や遊園地を擁していたという京王閣は、今では競輪場となっています。
調布の多摩川沿いは、路地の民が住み、人々をギャンブルに誘い込み、映画という河原芸を発信する場所だったようです。
今日は競輪はお休み。
付近の飲食店は閉店中とはいいながらおとなしい雰囲気です。
近年のギャンブル場はすさんだ雰囲気をうまく隠しています。
一方で、ここ多摩川沿いの旧南多摩郡は、競馬場、競艇場、競輪場が並んでいる地域であることは記憶しておくべきでしょう。
ということで調布の多摩川沿いの旅を終わります。